長州藩が朝敵となった戦い・蛤御門(禁門)/京都彼方此方(9)
NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』は、松蔭が主人公の第一幕から、いよいよ松蔭亡き後の幕末の動乱期に変わったところである。
そうなれば、京都舞台の比重も高まるのではないか?
去年の11月、TVで永観堂の紅葉を映していたのを観て、「そうだ 京都、行こう」とJR東海のコピーに乗せられたような気持ちになった。
行きたいとなると、是が非でも行ってみたくなる性分で、三島始発の朝一番のこだまで出かけた。
発症以降ムリはしないという基本方針ではあるが、インターネットで宿を探し、奇跡的に1部屋を確保できた。
その宿が、京都ガーデンパレスというホテルで、御所の禁門(蛤御門)のすぐ前であった。
その時は、大河ドラマのことなど頭になく、朝広々とした御所の中を丸太町まで歩いた。
いずれ放映されるであろうが、『花燃ゆ』の主人公・文の結婚した久坂玄瑞が戦闘に倒れた「禁門(蛤御門)の変」が戦われた場所である。
前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。
大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる(一会桑政権も参照)。
禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。
「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。
Wikipedia-禁門の変
戦いに敗れた長州藩は、御所に向かって発砲したことなどから朝敵となった。
長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたといわれる。
現在でも、会津と長州には確執があるというが、そんなことはないという人もいて、まあ人それぞれだろう。
観光のためのヤラセの部分が大きいようだ。
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