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2015年4月24日 (金)

皇国史観の先走り批判/日本の針路(141)

今頃、こんなことを真面目に論議することになろうとは思わなかった。
自民党の三原じゅん子議員が、「八紘一宇は、日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と発言したことが、それほど問題視されないまま過ぎている。
⇒2015年3月18日 (水):確信的「無知」の「無恥」・三原じゅん子/人間の理解(10)

問題にするまでのことはないとオトナの態度でいるのだろうが、私は皇国史観復活の前兆のように思う。
というのは、4月23日付の「産経ニュース」として、『【葛城奈海の直球&曲球】「八紘為宇」なる建国の理念 三原じゅん子議員発言を批判する者はまず勉強せよ』という記事が載っているのだ。
私は、かつては明確な主張を持った産経新聞を購読していたが、余りに偏向が過ぎるので止めた。
⇒2015年4月11日 (土):フジサンケイ・グループの育鵬社教科書のオカルティズム/知的生産の方法(117)

葛城奈海という人は寡聞にして知らなかったが、産経新聞御用達のようである。
Wikipediaには、次のように紹介されている。

葛城 奈海(かつらぎ なみ、本名:高橋 南海、1970年2月6日- )は、日本の女優、予備自衛官、環境運動家。やおよろずの森代表。予備役ブルーリボンの会広報部会長。

東京大学農学部の出身で、主な活動歴は以下の通りである。

1995年に和田勉の「ザ・ドラマスクール」を第1期生として卒業した後、テレビドラマや映画などで女優として活動するかたわら、自然環境への取り組みをライフワークとし、森づくり、米作り活動等に参加。ドキュメンタリーや講演会等で「自然と社会の関わり」についてメッセージを発している。
防衛庁(現:防衛省)の市ヶ谷台ツアー新庁舎の案内役を3年間務めるも、マニュアルを覚えて案内するだけの仕事に薄っぺらさを感じ始めていたところ、予備自衛官補制度が開始する告知を広報誌で知り、応募し合格。予備自衛官補1期生として訓練を受け、期間満了で予備自衛官となる。2015年現在の階級は三等陸曹。
その後、日本文化チャンネル桜にゲストとして出演後、潮匡人の「防人の道 今日の自衛隊(チャンネル桜)」キャスター退任に伴う後任を引き受ける形で2006年12月からキャスターを担当する。
2014年の東京都知事選挙では田母神俊雄候補の選挙対策本部広報を務め、日刊ゲンダイ等のメディアで色希、saya、浅野久美らと共に「田母神ガールズ」の1人として取り上げられた。

どうせ言うなら「オカルトガールズ」というネーミングの方が相応しいのではないか。
【葛城奈海の直球&曲球】「八紘為宇」なる建国の理念 三原じゅん子議員発言を批判する者はまず勉強せよ』を見てみよう。

先月16日の参院予算委で自民党の三原じゅん子議員は「八紘一宇(はっこういちう)」について「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と述べた。日頃、「八紘一宇」のルーツである「八紘為宇(いう)」こそ日本が取り戻すべき理念だと考えていた私からすれば、まさにわが意を得たりの発言であった。
 かくいう私もこれを「好戦的なナショナリストのスローガン」だと思い込んでいたひとりだ。それが、初代神武天皇の「橿原建都の詔(みことのり)」を学び、「天の下にひとつの家のような世界を創ろう」という原義を知るに及んで、己が先入観と不勉強を恥じた。
・・・・・・
 戦後70年の今こそ、日本人が自ら受け継ぐこの宝のような価値観を自覚し、そこに立ち返ることが、弱肉強食の世界を「強者が弱者を助け共に生きる世」へと導く鍵になるように思えてならない。
 「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」とは、極論すれば「八紘為宇」という建国の理念を取り戻すことではあるまいか。
 三原発言へのGHQ史観そのものの批判には「まず勉強を」と言いたいが、保守層にこれを擁護する動きが希薄だったのも残念だ。議員の経歴を理由に同発言を軽視する輩(やから)には、そうした「色眼鏡」こそ戦後体制を延命させてきたことを肝に銘じてほしい。

己を恥じるのはいいが、他人に対して「まず勉強を」というのは如何なものか?
東京大学で何を勉強してきたか知らないが、初代神武天皇の「橿原建都の詔(みことのり)」(だけを)学んだわけでもあるまい。
初代神武天皇の「橿原建都」が日本建国の事蹟というのだろうか?
それでは、皇国史観そのものではないか。

[逆転の日本史]編集部編『日本誕生の謎を解く本』洋泉社(1998年12月)に収められている遠山美都男氏の『中大兄皇子とは何者か?-「日本」を誕生させた“三大事件”の真相に迫る!』では、日本誕生前夜の出来事として、大化改新、白村江の戦い、壬申の乱が挙げられている。
日本という国号、天皇号が使われたのは、いずれも中大兄皇子(天智天皇)の後の天武天皇の時代である。

ちなみに白村江の戦い(663年)は、「倭国」の最大の対外戦争であり、大敗した倭国は、唐・新羅の侵攻に備えて、中大兄皇子は称制のまま667年の近江遷都等の防備策を講じなければならなかったことは、改めて言うまでもない。
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瀧音能之『天智と天武 兄弟天皇の謎 (別冊宝島 2328)』宝島社(2015年4月)    

白村江の戦いは、惨敗だった。
中国の史書『旧唐書』には「焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水皆赤」とある。
倭国水軍の船は炎上し、倭人兵士の血で海が赤く染まる程だったのである。
倭国が直接攻撃されていない状態で、百済の救援要請に応えたものであるから、集団的自衛権とよく似た構図と言えよう。

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コメント

>中国の史書『旧唐書』には「焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水皆赤」とある。

旧唐書じゃねっすよそれw

投稿: | 2016年2月 6日 (土) 10時33分

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