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2015年4月27日 (月)

大宰府と太宰府/「同じ」と「違う」(85)

日本史の時間に、九州に設置された役所を大宰府という、と教えられたような記憶がある。
しかし菅原道真を祀っているのは「太宰府天満宮」であるし、その所在地も「太宰府市」である。
「大宰府」と「太宰府」、つまり点の有無はどう違うか?

辞書などでは次のような説明がある。

1 大宰府
  律令制で、筑前国に置かれた地方官庁。つまり「総理府」と同様に役所の名前。
2 太宰府
  福岡県中西部の市。律令制下、大宰府が設置された。つまり「千代田区」と同様に地名。
大宰府?太宰府?

しかし、置かれた官名が大宰府で、その地名が太宰府というのでは説明不足である。
太宰府市の説明は以下のようである。

 古代におけるダザイフの正式な表記は、現存する古代の印影(押印された印の文字)が「宰之印」であることから、「宰府」であったと考えられています。

  しかし、奈良時代の文書にも、すでに「宰府」と表記されているものがあります。その後、中世からは「宰府」と表記する文書が多くなり、近世以降はほとんど「宰府」と表記するようになっているようです。これらの表記の使い分けについては、断定するまでは至っておらず、現在でも研究されているところです。

  ただ昭和30年代末頃、九州大学の鏡山猛(かがみやまたけし)教授が地名や天満宮など以外は「宰府」と表記するようにされたことをきっかけとして、一般には古代律令時代の役所、およびその遺跡に関するダザイフは「宰府」、中世以降の地名や天満宮については「宰府」と表記されるようになりました。現状では、行政的な表記もこれにならい、「宰府政庁跡」「宰府市」というように明確に使い分けています。
宰府』と『宰府』のちがいについて

たまたま手にしたJR東海の広報誌「ひととき」の5月号に、「要塞・大宰府」という記事が載っている。
恵美嘉樹氏の「パノラマ日本史」という連載記事であるが、福岡県太宰府市の「要塞・大宰府」と書かれている。
Photo_4
「ひととき」2015年5月号

古田武彦氏等の「九州王朝説」では太宰府が倭国の首都であったという。
⇒2012年7月 7日 (土):太宰府木簡と九州王朝説/やまとの謎(65)
内倉武久氏は、『太宰府は日本の首都だった―理化学と「証言」が明かす古代史』ミネルヴァ書房 (2000年7月)において、アマチュア研究者荒金卓也氏の指摘によりつつ、「大宰府」と「太宰府」の表記について、以下のような表を掲出している。 Photo_5

荒金氏らは、ダザイフの名称は、「大和政権が派遣した大宰の(政)庁でなく、はるかに古い、中国の周王朝以来の伝統に基づいた『太宰』に由来する。中国王朝の臣下を標榜していた『和の五王』らが自ら名乗っただろう。その都があったから『太宰の府』なのだ」と説明している。
果たして、九州王朝説はどの程度正鵠を射ているのであろうか。

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