大宰府と太宰府/「同じ」と「違う」(85)
日本史の時間に、九州に設置された役所を大宰府という、と教えられたような記憶がある。
しかし菅原道真を祀っているのは「太宰府天満宮」であるし、その所在地も「太宰府市」である。
「大宰府」と「太宰府」、つまり点の有無はどう違うか?
辞書などでは次のような説明がある。
1 大宰府
律令制で、筑前国に置かれた地方官庁。つまり「総理府」と同様に役所の名前。
2 太宰府
福岡県中西部の市。律令制下、大宰府が設置された。つまり「千代田区」と同様に地名。
大宰府?太宰府?
しかし、置かれた官名が大宰府で、その地名が太宰府というのでは説明不足である。
太宰府市の説明は以下のようである。
古代におけるダザイフの正式な表記は、現存する古代の印影(押印された印の文字)が「大宰之印」であることから、「大宰府」であったと考えられています。
しかし、奈良時代の文書にも、すでに「太宰府」と表記されているものがあります。その後、中世からは「太宰府」と表記する文書が多くなり、近世以降はほとんど「太宰府」と表記するようになっているようです。これらの表記の使い分けについては、断定するまでは至っておらず、現在でも研究されているところです。
ただ昭和30年代末頃、九州大学の鏡山猛(かがみやまたけし)教授が地名や天満宮など以外は「大宰府」と表記するようにされたことをきっかけとして、一般には古代律令時代の役所、およびその遺跡に関するダザイフは「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記されるようになりました。現状では、行政的な表記もこれにならい、「大宰府政庁跡」「太宰府市」というように明確に使い分けています。
『大宰府』と『太宰府』のちがいについて
たまたま手にしたJR東海の広報誌「ひととき」の5月号に、「要塞・大宰府」という記事が載っている。
恵美嘉樹氏の「パノラマ日本史」という連載記事であるが、福岡県太宰府市の「要塞・大宰府」と書かれている。
「ひととき」2015年5月号
古田武彦氏等の「九州王朝説」では太宰府が倭国の首都であったという。
⇒2012年7月 7日 (土):太宰府木簡と九州王朝説/やまとの謎(65)
内倉武久氏は、『太宰府は日本の首都だった―理化学と「証言」が明かす古代史』ミネルヴァ書房 (2000年7月)において、アマチュア研究者荒金卓也氏の指摘によりつつ、「大宰府」と「太宰府」の表記について、以下のような表を掲出している。
荒金氏らは、ダザイフの名称は、「大和政権が派遣した大宰の(政)庁でなく、はるかに古い、中国の周王朝以来の伝統に基づいた『太宰』に由来する。中国王朝の臣下を標榜していた『和の五王』らが自ら名乗っただろう。その都があったから『太宰の府』なのだ」と説明している。
果たして、九州王朝説はどの程度正鵠を射ているのであろうか。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 暫時お休みします(2019.03.24)
- ココログの障害とその説明(2019.03.21)
- スキャンダラスな東京五輪/安部政権の命運(94)(2019.03.17)
- 野党は小異を捨てて大同団結すべし/安部政権の命運(84)(2019.03.05)
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
「「同じ」と「違う」」カテゴリの記事
- インテンシブとエクステンシブ/「同じ」と「違う」(106)(2017.09.15)
- 切れ者とキレる人/「同じ」と「違う」(105)(2017.08.17)
- 「戦闘」と「武力衝突」/「同じ」と「違う」(103)(2017.02.12)
- 「計画:PLAN」と「実行:DO」/「同じ」と「違う」(104)(2017.02.14)
- 不時着と墜落/「同じ」と「違う」(102)(2016.12.26)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント