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2015年3月27日 (金)

殺人と軍事攻撃/「同じ」と「違う」(84)

ISIL(イスラム国)は、日本人を攻撃対象とする、と明言した。
安倍首相は、テロには屈しない、と「わが軍(自衛隊)」の動員まで視野に入れている。
テロ、戦争、軍隊、防衛というような諸概念が問われている時代だ。

戦争は、国同士の武力衝突である、と一応は定義されよう。
戦争においては、敵を殲滅することは、讃えられることはあっても咎められることはない。
しかし、一般社会においては、人を殺めることは、正当防衛などの場合を除き犯罪である。

量刑判断は裁判所に委ねられるが、過去の類似事件との公平性という観点から、判例によって基本的な枠を嵌められている。
個別の事情がどんなに悪辣・非道・残虐であっても、1人を殺しただけではなかなか死刑にはならないのが現実だ。
裁判員裁判の一審で死刑判決が出ても、上級審では死刑にはならないという事例が多い。
裁判員制度の根幹に関わる問題だと思うが、裁判というものは、もともと保守的であると言えよう。
⇒2015年2月 6日 (金):最高裁の判断は裁判員制度の趣旨と矛盾しないか/日本の針路(104)

人を殺したら罪となる一般社会と、大量の殺人も咎められることのない戦争(軍事行動)は、何が違うのか?
「日経ビジネスオンライン」誌に掲載されている伊勢崎賢治氏のインタビュー記事『「殺人」と「軍事攻撃」の違いとは何か』を参照してみよう。

伊勢崎氏は、テロと戦争の境界が「9.11」で変わってしまった、という。
実行犯はアルカイダとされ、アフガニスタンのタリバン政権とは同一ではない。
しかしアメリカはタリバンがアルカイダを匿ったという理由で、タリバン政権に対して戦争を仕掛けた。
「新しい戦争」の始まりである。

国連がその攻撃にお墨付きを与え、アメリカと集団的自衛権を根拠に参戦したNATOが国連の承認下の軍事作戦の指揮も直接執るようになった。
ISIL(イスラム国)が湯川遥菜さん、後藤健二さんに対しておこなった殺害も、戦争を誘引している。
周辺国のヨルダンも集団的自衛権の行使として参戦しているし、ISILに空軍のパイロットが残忍なやり方で殺害された後、その報復を宣言して攻撃を強化している。
そうなると個別的自衛権の行使とも言える状況になっている。
個別的自衛権の行使が認められているのは、本来は、自国が“武力攻撃”されてから、というのが国連憲章、つまり国際法の考え方ではあるが。

伊勢崎氏は、自衛権について、下図により説明する。
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「個別的自衛権」はを自分の家が火事になった時に消火活動をすること、「集団的自衛権」はまわりの家の人が消火活動を手伝ってくれることにたとえられる。
消防署の消火活動が「国連的措置(日本では“集団安全保障”が流通しているが)」で、国際社会の一員である限り国連加盟国全体として相互扶助する。
つまり、個別的・集団的を問わず、自衛権の行使とは、“武力攻撃”を受けてから国連的措置がとられるまで、暫定的に認められたものである。

それでは、自国のパイロットが焼き殺されるというのは、「国が攻撃された」“武力攻撃”に相当するか?
1人の人間が殺された「殺人事件」なのか、国に対する「武力攻撃」なのか?

「殺人事件」ならば、国際法上、報復攻撃はできない。
「9.11」では、テロ事件の実行犯を匿っているということで、自衛権の行使としてタリバン政権に報復攻撃をした。
しかも、自衛権行使の原則を越えて、タリバン政権を崩壊させてしまった。

ISILの拉致・殺害行為によって日本では自衛隊の出動が議論されている。
しかし、出動云々の前に、状況把握のために要員を潜伏させるなど非常に能動的なインテリジェンスが必要になるが、日本には不可能だろう。
それに加えて、社会問題としてのテロと戦争の境目も曖昧になってきている
昔のテロは、日常世界の中の非日常な行為だったが、それと戦争という非日常がシームレスになってきた。
一国の中の内戦とグローバルな戦争もシームレスになってきている。

SNSなどインターネットの普及により、コミュニケーションの“溜め”が、限りなくゼロになってきた。
テロリストにとっては恐怖を喧伝するために非常に有利であるが、その反動の"嫌悪"と"排他性"が極めて直截に発生する。
防衛意識を過剰に刺激し、自衛のための報復も過剰にする。

国際援助をふんだんに受けているアフガニスタン、イラクが汚職などの腐敗が多い。
それはアメリカが占領しているからだ。「占領者の負い目」で、留軍は地元社会に好かれようとするが、それは傀儡政権を通してでしかできない。
国際援助は、「あなたのため」という建前でやられるものですが、それが見透かされる。
日本は、軍を派遣していないから、足元を見られる足がなかった。
だからアフガニスタンにおけるアメリカの占領の当初、アメリカが日本を通してモノを言えた時期があったように、発揮できる役割があった。
NATOをはじめアメリカの“同盟国”の中で、唯一とれる立ち位置だった。
しかし、安倍政権によってどんどん存在感がなくなっているのはもったいないことだ。

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