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2014年12月 8日 (月)

開戦の日と戦争論/日本の針路(81)

特定秘密保護法や集団的自衛権行使などの安倍政権の動きが発するに「危うい匂い」によるものであろうか、「戦争論」が目につく。
例えば、内田樹例えば、内田樹『街場の戦争論』ミシマ社(2014年10月)や池上彰、佐藤優『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方文春新書(2014年11月)は、良く売れているらしい。

今年は、冷戦終結から25年、第一次大戦開戦から100年という節目の年であった。
そして今日は、1941年(昭和16年)12月8日は開戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)によってアメリカ合衆国・イギリス帝国2国に対して宣戦布告した日である。
マレー作戦と真珠湾攻撃で先制攻撃を仕掛け、日本とアメリカ合衆国・イギリスとの間に戦争が発生した。
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この戦争を何と呼ぶか。
1941年(昭和16年)12月12日に東條内閣が支那事変(日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した。
敗戦後は、GHQによって「軍国主義」と関連があるとされ「大東亜戦争」の使用が禁止され、代わりに「太平洋戦争」という戦争呼称を用いるよう規制された。
私は太平洋戦争と教えられた世代であるが、「あの戦争」をどう呼ぶかは認識の姿勢の反映である。

大東亜戦争とするのは、東條内閣の姿勢を追認するようで、受け入れ難い。
太平洋戦争は、GHQの規制ということを抜きにしても、東アジアで行われた戦争の性格を曖昧にする。
真珠湾攻撃とマレー進攻が同時的だったことからも太平洋に限定することはアメリカの影響力が過大であろう。
鶴見俊輔は、1931年(昭和6年)の満州事変と1937年(昭和12年)の盧溝橋事件に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、1956年(昭和31年)に十五年戦争という呼称を提唱した。
1つの見識だとは思うが、性格が抜けてしまう。
私は折衷的に、東亜・太平洋戦争と呼んだらどうかと考えている。
⇒2007年8月16日 (木):戦争を拡大させた体制

敗戦後70年近くを私たちは、一応平和裡に過ごしてきた。
しかし、池上氏は、「今は実は大戦前夜なのに、それに気づいていないのかも知れない」 と言い、それに対して佐藤氏は、「1905年に終結した日露戦争と1939年のノモンハン事件の間の34年間の平和な時代とのアナロジーで考えられるのではないか」としている。
いずれにせよ未来は不確定であり、現在がどういう時代だったかは、歴史家の検証に任せたい。

未来予測とは、あり得る現実を仮想することである。
内田氏は、22世紀の日本の風景を予測することから話を始める。
今から90年ほど後のことだから、現存している人は殆ど残っていないだろう。
人口は6000千万人くらいで、大正時代とほぼ同じで、高齢者人口もピークを過ぎている。
仮想の手段として、内田氏は、今ある現実に「弱い現実」と「強い現実」という考え方を導入する。
「弱い現実」とは、ちょっとした条件の違いで大きく変わるようなものであり、「強い現実」とはほとんど変わらないものである。
前者は偶発的な現実であり、後者は必然的な現実である、と言い換えてもいいだろう。

その上で、1942年にミッドウェー海戦の後に日本が講和を求めて、それが成功していたらどうだったかを問う。
例えば、現在ある現実の「日米同盟基軸・対米従属路線」は、ソ連参戦前に戦争が終結しているので、おそらくは国の方針として採択されないだろう。
また、戦死者の数もぐっと少なくなり、何よりも戦後の再建を担ったはずの大正世代の人的資源の多くを温存できたはずであり、国土を焦土化することもなかっただろう。

「歴史にイフはない」とすれば、このような思考実験は無意味である。
しかし、あり得たかも知れない現実を考えることは、これからの政策によって変わり得る未来像を考える上で重要ではなかろうか。

アベノミクスについては、次のように批判している。
日本は経済成長する余地はなく、成長させるには、無償で手に入るものを有償化する以外にない。
2013年において、経済成長率が高い順に並べれば、南スーダン、シェラレオネ、パラグアイ、モンゴル、キルギス・・・
要するに、中央政府のガバナンスが脆弱で、社会的インフラの整備が遅れている国が、高い成長率を示す。

そもそも、成長(率)はフロー概念であるが、今の政権にはストックについて何も言及していない。そして、農林水産業を潰し、地方で生きるという選択肢そのものをなくすのが、政権の考え方だ。

全面的に内田氏の考え方を支持するわけではないが、われわれが考えなければならないことを示しているのではなかろうか。
内田、池上、佐藤氏に共通しているのは、インテリジェンス(諜報活動) の観点から考えると、特定秘密保護法はほとんど意味がないとしている。
また、集団的自衛権については、安全保障を高めるのではなく、テロの脅威を高めることにしかならないということだ。

キッシンジャー元米国務長官は、現在の国際秩序の大きな枠組みは、多かれ少なかれ30年戦争の戦禍の末に合意されたウェストファリア体制にある、と言っている。
30年戦争は、凄惨な宗教戦争となって欧州全土に広がり、ヨーロッパは灰燼に帰したといわれる。
その反省を踏まえ、ウェストファリア平和会議では、領邦国家の主権を尊重すること、紛争は国際協議によって解決を図ること、などが合意された。

しかし、イスラム国などのように、領土を持たない「国家」が台頭している。
中東の事態は、30年戦争に似ていると言われる。
歴史の歯車は逆回転しているのだろうか。

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