石油コンビナートの出口戦略と地方創生/技術論と文明論(7)
11月7日の日本経済新聞を見て、つくづく時代の変遷というものを感じざるを得なかった。
経産相が、石油化学各社に過剰な設備の削減を求めるという。
かつて石油コンビナートは時代の花形産業と言われた時代があった。
敗戦の復興の時代には、石炭・砂糖・セメント・肥料・繊維などが飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
私の育った田舎町は、炭鉱とは縁もゆかりもないが、夏の盆踊りには「炭坑節」が定番だった。
1956年の経済白書は、「もはや戦後ではない」という有名な言葉で知られる。
経済企画庁内国調査課長の後藤誉之助(1916年10月25日 - 1960年4月13日)氏が主執筆者だった。
後藤氏はキャッチフレーズ作りの名手といわれ、経済事象が一般人の身近な話題となるきっかけをつくった人として知られる。
1958年~1959年、初代景気観測官として米国ワシントン在住したが、1960年4月13日睡眠薬の過服量事故により死亡した。
享年43歳という若さだった。
この名文句は、戦後復興が一段落して、今後は自立的な経済発展へ舵を切ることの必要性を訴えたものである。
そのためには「軽工業から重化学工業への転換」が必要であるとされた。
鉄鋼・造船等が中心であったが、「石炭から石油へ」のエネルギー革命が1960年頃までに完了すると、重化学工業化の1つのシンボルとして、石油コンビナートが脚光を浴びた。
コンビナートは、旧ソ連で計画的に配置された工業地域のことを指す言葉であったが、石油化学工業や鉄鋼業などで、原料や製品を有機的に結び付けた工場の集合を指すようになった。
日本では当時、1つの企業でコンビナート全体を作るコストに耐える体力がなかったことや政府が企業の調整を行っていたことなどから、多くの企業が参画できる形になった。
1956年、川崎市、四日市市、岩国市、新居浜市の4ヶ所に建設が決定され、1958年に三井化学・岩国(日本最初のコンビナート)、住友化学・新居浜が稼動した。
石油コンビナート計画は、三島・沼津地域にもあった。
1962年の全国総合開発計画で「拠点開発方式」が採用され、水資源と良港に恵まれた東駿河湾地区に石油コンビナートが計画された。
しかし計画を知った地元住民の強力な反対運動によって計画は頓挫した。
今年の6月7日に「沼津・三島・清水町石油コンビナート阻止五〇周年の集い」が沼津市で開かれた。
⇒2014年7月20日 (日):石油コンビナート阻止闘争50周年/技術と人間(1)
現時点で考えれば、計画が実現しないで良かったと思う。
しかし、新幹線駅のある三島市はともかく、沼津市は西武百貨店の地方展開の1号店が撤退し、人口の流出が続いている。
⇒2013年1月31日 (木):西武沼津店の閉店と地方再生の可能性/花づな列島復興のためのメモ(186)
地方創生が試される場であると思う。
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