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2014年9月 7日 (日)

三段階論という方法④宇野弘蔵の経済学方法論/知的生産の方法(102)

三段階論と呼ばれる方法について、以下の3つについて紹介した。
⇒2013年8月11日 (日):三段階論という方法①武谷三男の科学的認識の発展論/知的生産の方法(71)
⇒2013年8月13日 (火):三段階論という方法②菊竹清訓の設計の論理/知的生産の方法(72)
⇒2013年8月21日 (水):三段階論という方法③庄司和晃の認識の発展過程論/知的生産の方法(73)

この他に有名な三段階論として、宇野弘蔵の経済学方法論があることは知っていた。
しかし、その内容について余りにも無知であることから、もう少し馴染んでからにしようと思っていた。
1年余り経って、佐藤優『いま生きる「資本論」』新潮社(2014年7月)がほとんど宇野弘蔵をベースとした『資本論』入門であること、今後経済学と格闘することはないだろうと見切って宇野三段階論について書く。

宇野弘蔵は、日本のマルクス経済学者の中でも特に影響力の大きな1人であった。
彼の研究を継承する学派は宇野学派と称されたが、新左翼や社会主義協会に影響を与えた。
私の学生時代には、かなり広い影響力を持っていたはずであるが、工学部だった私の周辺で宇野経済学に傾倒していた人間は皆無である。
1977年2月22日に80歳で亡くなった。

略歴をWikipediaから抜粋すれば下記のようである。

1921年、東京帝国大学経済学部卒業。大原社会問題研究所入所。
1924年、東北帝国大学法文学部経済学部(経済政策論)助教授。
1938年、人民戦線事件に連座し逮捕されるも、後に無罪となる。
1941年、東北帝国大を辞職し、財団法人日本貿易振興協会日本貿易研究所入所。
1944年、三菱経済研究所入所。
1947年、東京帝国大学社会科学研究所教授。
1954年、経済学博士(東京大学)。
1958年、東京大学を定年退官し、法政大学社会学部教授に就任、1968年まで務めた。

宇野弘蔵の経済学は、1930年代の講座派と労農派の「日本資本主義論争」の止揚を試みることにより、その基礎を打ち立てたとされる。
日本資本主義論争については、Wikipediaでは以下のように説明している。

日本資本主義論争は日本共産党の32年テーゼに基づいた『日本資本主義発達史講座』(1932年5月から1933年8月)の刊行を機に起こった。共産党系の講座派は、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定し、まず民主主義革命が必要であると論じた(「二段階革命論」)。これに対し、労農派は明治維新をブルジョア革命、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。この論争によって、近代日本の本質規定をめぐって理解が深まり、「封建論争」「地代論争」「新地主論争」「マニュファクチュア論争」などの多くの小論争を引き起こした。しかし、明確な解決を得ぬままに弾圧により中断することになった。ただし、多くの論争点は第二次世界大戦後に引き継がれることになった。

佐藤優氏は、『いま生きる「資本論」』で以下のように解説している。
ロシア革命を経て1930年代になると、国家と資本が一体化してきた。
そこで重要なことは、ファシズムの到来を阻止することである。
労農派はそう考えて、反ファッショ共(協)同戦線を作るべきだと考えた。

一方、講座派は、日本はまだ遅れた資本主義国で、ファシズムは帝国主義段階に達した国家と財閥が結びついて起きるものだ。
先ず天皇制を打倒して、それから資本主義がある程度発達したら、財閥を打倒することを考えるべきで、労農派は天皇制打倒という課題から労働者を逸らす裏切り者だ、と批判した。

そうこうするうちに、1936年の「コム・アカデミー事件」で講座派が壊滅状態になり、ついで1937年から38年の人民戦線事件で労農派が一斉検挙を受けると、議論も不可能となり、論争は終焉した。
講座派からは、佐野学・鍋山貞親のように、多くの転向者が出た。

佐野と鍋山の「共同被告同志に告ぐる書」のついて、Wikipediaは以下のように解説している。

佐野学と鍋山貞親は検挙後、共産主義に疑念を抱くようになった。そこで検察は二人を対面させて議論させた。議論を通じて両者の見解は一致し、1933年6月10日に「共同被告同志に告ぐる書」と題する声明書を公表した。既に獄中にあった党員に対しても、刑務所を通じて彼らの転向声明書が配布された。
この声明書の効果は絶大で、一ヶ月もしないうちに幹部の高橋貞樹・三田村四郎・中尾勝男・風間丈吉・田中清玄が転向、学者の河上肇も転向宣言をし、以降雪崩を打ったかのように転向が相次いだ。転向せずに終戦を迎えたのは宮本顕治など少数のみであった。

いま生きる「資本論」』では、「日本の特殊な型の中にいて、天皇のもとにおいて、その上で資本家の横暴を抑える革命はできるはずだ」と、一国社会主義運動を唱え始め、獄中の多くの共産党員が賛同して行ったと説明している。
もちろん、小林多喜二の虐殺のような凄惨なこともあったが、必ずしも全部がそういうわけではなかったようだ。

宇野弘蔵の三段階論について、Wikipedia では以下のように解説している。

宇野は経済学の研究を原理論・段階論・現状分析という三つの段階に分けた。原理論は論理的に構成された純粋な形での資本主義経済の法則を解明し、段階論は資本主義経済の歴史的な発展段階を把握し、現状分析では原理論や段階論の研究成果を前提として現実の資本主義経済を分析するものとした。この三段階論により、マルクスの『資本論』は原理論、レーニンの『帝国主義論』は段階論に属する著作として位置づけられ、資本主義経済が19世紀の自由主義段階から20世紀の帝国主義段階に移行しても『資本論』は原理論としての有効性を失わない、とされた。

現実の資本主義の態様はさまざまである。
歴史的、地理的に個別的で多様性がある。
資本主義一般を解明する抽象理論としての一般理論は、時間と空間を超えた資本主義の原理像を解明するものである。
その原理論と多様な現実を架橋するものが、段階論であるといえよう。

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