酒場での体験と創作活動・山口洋子/追悼(56)
作詞家で直木賞作家の山口洋子さんが6日、呼吸不全のため亡くなった。
1937(昭和12)年5月10日、名古屋市東区生まれの77歳だった。
1957(昭和32)年、東映ニューフェイス4期生に選ばれた。
同期には水木襄・佐久間良子・室田日出男・曽根晴美・花園ひろみ・山城新伍がいた。
同期の佐久間良子さんを見て、「こんなきれいな人とは勝負にならない」と女優を諦めて夜の世界に入った。
東京・銀座で高級クラブ「姫」を開業し、映画スターや作家、スポーツ選手が通う人気店のママとして注目された。
クラブ経営の傍ら作詞を始めた。
石原裕次郎「ブランデーグラス」、中条きよし「うそ」、八代亜紀「もう一度逢いたい」などのヒット曲を手掛けた。
作詞家として特筆すべきは、「五木ひろし」の生みの親であることだろう。
五木さん(本名:松山数夫)は、1964年、第15回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、1965年6月、コロムビアから松山まさるの芸名でデビューした。
1967年に日本グラモフォンへ移し、一条英一に改名した。
1969年に三谷謙に再改名したが、やはりヒット曲には恵まれなかった。
デビューしてから約5年間の間に2度も芸名を変更するも、鳴かず飛ばずといった状態で不遇の時代を過ごしていた。
1970年、ダメなら田舎に帰ろうと、背水の陣でテレビ番組の「全日本歌謡選手権」に挑戦した。
10週勝ち抜けばプロ歌手も再デビューのチャンスが与えられるシステムだった。
レギュラー審査員の反応は良くなかったが、ゲスト審査員だった山口さんは違った。
歌唱力を高く評価し、将来性についても確信したのだ。
再デビューさせるべく、平尾昌晃さんに声をかけ、新曲の準備を始めた。
五木さんが6週目を勝ち抜いた頃には、「よこはま・たそがれ」が出来上がっていたという。
「五木ひろし」の名前は、クラブの常連客五木寛之氏にちなんだ。
1971年、五木さんが歌った「よこはま・たそがれ」は大ヒット作品となった。
第13回日本レコード大賞歌唱賞の他、第2回日本歌謡大賞放送音楽賞等、多数を受賞した。
♪よこはま たそがれ ホテルの小部屋
くちづけ 残り香(が) 煙草のけむり
ブルース 口笛 女の涙
あの人は 行って行ってしまった
あの人は 行って行ってしまった
もう帰らない
体言止めを多用した歌詞と平尾昌晃さんによるモダンでソフトな演歌調の曲がマッチしていた。
平尾さんにとっては初めての演歌作品であった。
五木さんは、念願であったNHK紅白歌合戦(第22回)への初出場も果たした。
山口さんは、1980年代からは近藤啓太郎さんのすすめで小説の創作活動も始めた。
1985(昭和60)年には『演歌の虫』、『老梅』で直木賞を受賞した。
元来多才な人だったのだろうが、酒場での見聞が創作活動のコヤシになっていた。
合掌。
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