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2014年8月15日 (金)

重光葵による終戦工作と終戦遅延責任/日本の針路(27)

第2次世界大戦中の1944(昭和19)年5月、東条英機内閣の重光葵外相が、日本と中立条約を結んでいた旧ソ連の仲介による中国との戦争終結を目指していたことが、東京新聞が入手した当時の外交秘密の公電で明らかになった。
他の新聞も後追いしているが、8月14日付の東京新聞の特ダネである。
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重光は早期終戦論者の一人とされてきたが、終戦の1年3カ月も前の動きが公的文書により、初めて裏付けられた。
同時期の公電は焼かれるなどして現存しないとされてきたが、当時モスクワの日本大使館などで勤務し、戦後に駐米大使を務めた故武内龍次氏がまとめて保管していた。

ソ連の対日参戦は、終戦間際の8月9日、ナガサキに2発目の原爆が投下された日の午前0時である。
この時点で、まだ日本は終戦の仲介をソ連に頼ろうとしていた。
今から思えば何とリアルポリティクスに対する認識が欠如していたのだろうかと思う。
外相の認識がそうであったのは、認識の元になる情報の問題であろう。
国の指導層の一部では、1945年8月15日の時点でも、本土決戦を真剣に考えていたのだからやむを得ないことかも知れない。
⇒2007年8月10日 (金):ソ連の対日参戦

重光は当時の日ソ関係を「衝突無きを得る素地を得たる」と説明し、日ソ中立条約を生かし、ソ連の協力を得て日中戦争を終わらせようとした。
1944年5月25日、佐藤尚武大使宛て公電に、「帝国の対ソ対支方策に関する件」と題し、ソ連と中国の対策を記した。
佐藤には「終結に導くの方策」が可能かを尋ねた。
当時の中国は、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が対立していたが、重光はソ連の影響力で中国内を一つにまとめてもらった上で、日ソに中国を加えた不戦の枠組みをつくれないか考えていた。

佐藤は、ソ連が米英両国と連合国として連携していた情勢から、ソ連仲介の実現性は「疑問」と返電した。
戦況悪化を受けて1944年7月には東条首相が退陣し、小磯国昭内閣が発足した。
1944年8月に決定された戦争指導大綱には、ソ連仲介の日中戦争終結策が初めて正式に盛り込まれた。
しかし、ソ連との外交交渉が行き詰まり、1945年8月の降伏へ日本が追い込まれていく様子が、公電からも分かる。
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終戦1年3カ月前「対中終結を」 重光外相、ソ連仲介構想 新史料で判明

日本は敗れるべくして敗れたのである。
その教訓をどう生かすか?
次は負けないぞ、という方向で考えるか、平和国家としての方向で考えるか?

もし、重光の終戦工作が実を結んで、せめて1944年の8月くらいまでに終戦に持ち込めていたら、戦争の惨禍はずいぶん軽減されたことだろう。
⇒2009年8月15日 (土):無条件降伏か、有条件降伏か?
⇒2009年8月16日 (日):敗戦責任の所在

なお、重光葵は、東条内閣と小磯内閣で外相を務め、終戦直後の東久邇宮内閣でも外相を務めた。
ポツダム宣言受諾後の1945(昭和20年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号で行われた降伏文書の調印式で、日本側を代表して署名した。
重光は、極東国際軍事裁判でA級戦犯として禁錮7年の有罪判決を受け、鳩山一郎内閣では副総理兼外相として、ソ連との国交回復と国連加盟を実現した。
現在、かつて別邸があった湯河原町に、記念館が建っている。
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重光記念館

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