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2014年7月14日 (月)

第1次世界大戦と日本/世界史の動向(21)

100年前、すなわち1914年6月28日、第1次世界大戦が勃発した。
日本は、この大戦にどう係わり、現在からみてどういう教訓が得られるであろうか?

1944年生まれの私にとって、1914年という年は、生まれる遥か前の歴史的な時間である。
ということは、1971年生まれの人たち、もう40代に入っている第2次ベビーブーマーの感覚は、第2次世界大戦の開戦について、同じような感覚を持っているであろう。
とすれば、世代間の経験の違いは埋めるのが難しいわけである。

先ごろ世界遺産登録が決まった「富岡製糸場と絹産業遺産群」の富岡製糸場が開業したのが、明治5(1872)年である。
わが国は紡績業を中心とした初期の産業革命を明治20年代央までにほぼ完了させた。
技術革新の波は、徐々に化学・機械・食品などの分野に広がっていき、明治27(1894)年~28(1895)年の日清戦争、明治37(1904)~38(1905)年の日露戦争の両戦争に勝利して国力充実の基礎を築いた。

第1次世界大戦(1914~18)において、各国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国とも称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれた。
日本は、1902年に締結した日英同盟に基づき、連合国側の一員として参戦し、勝利の分け前に与った。
日清、日露に引き続く戦勝が日本に経済的繁栄と自信ををもたらしたことは想像に難くない。
第1次大戦中に、世界各地への輸出が増加し、工業生産が5倍になったという。

日本は、イギリスの同盟国として、中国や南洋諸島に対する影響力を増大し得た。
中国山東省のドイツの権益を奪い、対華21カ条要求により中国への介入を強めた。
田母神俊雄氏のように正当な要求だったと主張する人もいるが、客観的に見て「あわよくば」という野心が見え透いた要求だったであろう。
⇒2009年1月12日 (月):田母神氏のアパ論文における主張…対華21箇条要求

おそらくは、少なくとも財閥には、「戦争とは儲かるもの」というような雰囲気が充溢していたのではなかろうか。
大正デモクラシーとか大正ロマンというように、長い明治と昭和に挟まれた「短い大正年間」は、ノスタルジーを喚起する面があるが、それは戦勝の結果のアダ花だったと思われる。

事実、第1次世界大戦後に欧米各国が国際市場に復帰すると、たちまち競争基盤の弱い日本企業は大打撃を受けて不況に突入してしまう。
追い打ちをかけるように発生したのが、大正12(1923)年9月1日の相模湾を震源とする直下型地震だった。死者・行方不明者合わせて15万人近くという未曾有の被害をもたらした関東大震災である。

社会全体が一種のパニック状態に陥る中で、多数の在日韓国人が「暴徒化した」というデマをもとに惨殺されるというような事態が起きたことは、忘れてはならないであろう。
明治43(1910)年の韓国併合によって、表面的にはともかくとしても、潜在的には反日感情が醸成されていたと思われるから、多くの日本人の中に「韓国人が暴徒化して襲ってくるかも知れない」という恐怖感があったと思われる。
ちなみに、安重根によって韓国統監府初代総監だった伊藤博文が暗殺されたのは、 明治42(1909)年のことであった。

伊藤博文の暗殺が韓国併合の日本世論を喚起し、韓国併合がさらに反日意識を高揚させていくという憎悪と不幸のスパイラル的増幅である。
イスラエルとパレスチナの例を見るまでもなく、報復は拡大再生産して行きがちである。
嫌韓、嫌中的な雰囲気が強まる中で、ヘイトスピーチが問題になっているが、憎悪と不幸の連鎖をどこかで断ち切ることが必要である。

関東大震災時には、東京憲兵隊麹町分隊長だった甘粕正彦大尉によって、無政府主義者といわれていた大杉栄や伊藤野枝らが虐殺されている。
この事件の実行犯は甘粕ではないという説もあり、実際に、甘粕は懲役10年の判決を受けたにもかかわらず僅か2年で出獄し、昭和2(1927)年7月に渡仏している。
『暗黒日記』の清沢冽が、甘粕の罪状を知って、直ぐに『甘粕と大杉の對話』という一種の思考実験的な文章を書いており、武田徹『偽満州国論』河出書房新社(1995年12月)に引用されている。
⇒2014年6月 7日 (土):今こそ必要な『暗黒日記』のクリティカル思考/知的生産の方法(96)
甘粕は日本が大東亜戦争(太平洋戦争、第2次世界大戦)に雪崩れて行く歴史で、裏面で大きな役割をしているが、それについては別の機会にしたい。

大正から昭和への改元は、12月も末のことだったから、実質的な元年は昭和2(1927)年といってもいい。
昭和に入ってすぐに金融恐慌が起きた。
関東大震災の影響で、銀行が多額の不良手形を抱えていたときに、片岡蔵相が国会で、「ただいま東京渡辺銀行が休業しました」と報告し、それを聞いた預金者が窓口に殺到して、結果として銀行は休業に追い込まれた。
片岡蔵相が発言した時点では渡辺銀行は営業を継続していたのだから、最近の失言とは異質の「失言」だったことは間違いないが、既に恐慌の発生する客観条件は十分に醸成されていたと考えるべきだろう。

昭和から平成への改元は1989年のことである、偶然かも知れないけど、バブル経済がピークに達し、平成2年以降下り坂に転じる転換期だった。
同じように、大正から昭和への改元のときも、人々に時代が変わっていくことを意識させたのではないか。
昭和2年の7月(つまり改元後半年くらいの時点)に、芥川龍之介が服毒自殺を遂げるという事件が起きている。
芥川は、死の動機として「ぼんやりした不安」という言葉を遺しているが、昭和3(1928)年には、関東軍による張作霖爆殺事件が起き、それが満州事変、日中戦争に繋がっていくわけだから、芥川の研ぎ澄まされた感性は、時代の行方を感知するカナリヤの嗅覚の役割だったのではないか。

第1次世界大戦は、日本にとっては切実感が希薄な戦争であった。
国内は関東大震災等で不穏な状況であったが、日本は世界の中で相対的にプレゼンスを高めた。
イギリスに代わってアメリカが世界の指導国になり、ロシアでは社会主義革命が起きて、共産党の独裁体制となった。
戦後の対独講和条約(ヴェルサイユ条約)の過酷さが、ナチスの台頭を招いた。
ということを考えれば、第1次世界大戦は第2次世界大戦に繋がっていることになる。
その割に、世間の関心は100年という節目の年に対して、関心が薄いような気がする。

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