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2014年6月24日 (火)

遠藤麟一朗とリベラルアーツ/知的生産の方法(98)

今朝の静岡新聞に、山梨学院大学の全面広告が載っている。
国際リベラルアーツ学部が新設されるという告知である。
Ws000000

iCLAというi○○の表記が三番煎じ風味であるが、大学も生き残りのため、いろいろ工夫しなければならないのだなあ、と思う。
相変わらず、大学、学部が新設されているようであるが、今後の人口減を考えた場合に成功する確率はかなりの隘路になるであろうことが予想される。
見聞する範囲で成功例と言えるのは、故中嶋嶺雄氏が尽力した秋田県の国際教養大学くらいではないだろうか。
⇒2013年2月20日 (水):中国論をこえた浩瀚な学識・中嶋嶺雄さん/追悼(28)
あるいは、静岡文化芸術大学 などを含めてもいいかも知れないが、なかなか難しそうである。

私は、リベラルアーツという言葉で連想するのは、たとえば故遠藤麟一朗氏のことである。
先ごろ亡くなった粕谷一希氏の『二十歳にして心朽ちたり―遠藤麟一朗と『世代』の人々』新潮社 (1980年11月)、洋泉社MC新書版(2007年11月)の主人公である。
私は粕谷氏の著書によって、遠藤麟一朗という存在を知り、2000年にアラビア石油のサウジの採掘権が失効した時、勤務していた社内掲示板システムに以下のような一文を載せたことがある。

アラビア石油(アラ石)が約40年にわたって保有してきたサウジアラビアにおける石油採掘権益が、2000年2月28日をもって失効した。昨今、石油は「戦略物資」から「市場商品」へと性格が変わったというような論調が多いが、原発等が多くの問題を抱えている状態において、現時点でも依然として重要なエネルギー資源であることに変わりはない。その埋蔵地域は偏在しており、戦略物資性は決して軽視すべきものではないと思う。「日の丸原油」の象徴としてのアラ石の権益は、単に「原油輸入量の5%に過ぎない」という以上の意味を持っていると考えるべきである。そのアラ石の歴史の中に、希有とも言うべき華麗な才能を抑制して生きた1人の企業人がいた。戦後の混乱期に学生が編集し、そのクオリティの高さが伝説的な声名を残す総合雑誌『世代』の初代編集長、エンリンこと遠藤麟一朗である。
(以下略)

また、このブログでも取り上げたことがある。
⇒2008年5月28日 (水):『世代』と遠藤麟一朗
遠藤は、粕谷氏の著書のタイトルからも窺えるように、戦後雨後の筍のように現れた数多くの雑誌の中でもひときわ異彩を放つ「世代」の編集長であった。
昭和21年夏創刊した学生のための学生による総合誌。
混乱を極めた時代に、奇跡のように大輪の硬質の知性が結晶した。

遠藤麟一朗は東京高工を出て大手建設業の技師となった父と、同郷の裕福な旅館の娘で東京の実践女専を卒えた母との間に世田谷松沢で生まれた。番町小、府立一中から41年一高入学。トーマス・マンを原書で読むために文乙を選択し、日本古典を系統的に読むために明寮国文学会に入室したといわれる。『向陵時報』編集委員となって短文などを発表し、「ひとりゐればかゞやきわたるしづけさを酒たうべする夜のおろけさ」とか「人おのおのおのれが道を歩みけり墓一つづつたまはれと言へ」の短歌は寮生たちの愛唱するところとなった。44年海軍入隊し主計少尉、終戦で東大(経)に復学して全国大学専門学校機関誌『世代』の創刊に参加し、46年7月発刊から第6号までの編集長として携わる。47年秋卒業して住友銀行入行、配属先の日比谷支店で組合運動に参加し、西荻窪やがて和歌山支店へと配転され、61年同行を退職。同年アラビア石油に入社した。
「二十歳にして心朽ちたり」を読む

「世代」は、昭和21年に創刊号が出され、何度かの休刊を挟んで、昭和27年に第17号の刊行をもって終わる。
創刊号から第6号までの編集長を遠藤麟一朗が務めた。
「世代」の世代をめぐる人間模様や遠藤の卓越した編集能力などについては、粕谷氏の書に譲るが、「世代」は、現在でも折に触れて回想や論評の対象となる雑誌である。
粕谷氏は『中央公論』の名編集長と評された人であるが、プロの目から見て、「遠藤麟一朗の『世代』編集について……それ以後の『世代』とは画然とした差があるように思われる」と言っている。

遠藤編集長時代の「世代」は、マチネ・ポエティック同人として戦後文壇に鮮やかなデビューをすることになる加藤周一、中村真一郎、福永武彦の3人組に、コラム欄を提供してその文芸活動をスタートさせたという文学史的な意味を持つが、一方で、編集の志向レベルが高すぎて、実際の執筆者は、学生よりも大家や新進気鋭の学者・評論家が多く、学生の機関誌という当初の性格付けから、批判もかなりあったようである。
しかし、遠藤は決して編集方針について妥協することをしなかったという。
その結果でもあろうが、学生の投稿者の中にも、中村稔、吉行淳之介、いいだもも、太田一郎、矢牧一宏、白井健三郎、八木柊一郎など、後に名を知られるようになった人たちが数多くいる。

特に、いいだももは、遠藤と並ぶ「世代」の牽引役であったが、2人を結びつけたのが、後に経済学者となる日高晋氏であった。
日高氏も、文芸に手を染めていたが、2人の煌めくような才能を目の当たりにして、学問に沈潜した。
日高は2人より年長だったため、一足先に応召されたが、そのとき携帯した日の丸に、遠藤は「常在高貴」、いいだは「自由は死せず」と書き記したという。
若さ故に敢えて反時代的なポーズを強調したという面もあろうが、当時の一般的な雰囲気とは余りにも隔絶した精神の表出と言えるのではなかろうか。

遠藤は、引用した履歴からも分かるように、典型的な東京の秀才だった。
しかし、復学した東大では、芸術・文化・哲学といった領域、あるいは飲酒に埋没している。
戦争体験が大きな影響を与えたと推察されるが、遠藤にとって必要なリベラルアーツということだったのだろう。
大学は、かつての教養課程さえ縮小され、実学志向が強くなっていると言われているが、人生のいずれかの時期にリベラルアーツを身に付けることは必要であると思う。
遠藤は、国家公務員上級職試験や司法試験などの道を選ばず、住友銀行に就職するが、組合運動などで経営陣と対立し、アラビア石油に転職する。

アラビア石油は、1958年に「アラビア太郎」と呼ばれた山下太郎が設立。
日本の自主開発油田の権利を、サウジアラビアやクウェートなどから取得した。
しかし、2000年にサウジアラビアの、2003年にはクウェートの採掘権を失い、現在は開発事業からは撤退した形になっている。

ところで、このような麒麟としての資質を持ちながら麒麟に成り果せなかったような遠藤を主人公にした評論を粕谷氏が書いたということは、当然、遠藤の人生の軌跡に対して少なからぬシンパシーがあったからであろう。
タイトルは、中唐期の詩人李賀の詩句から採られている。

長安に男児有り二十にして心已に朽ちたり(陳商に贈る)

李賀の字は長吉。
『赤目四十八瀧心中未遂』で知られる車谷長吉氏のペンネームは、李賀の字からとったということである。

遠藤は自分で自分に流謫処分を課したかのように、アラビアでの生活を送った。
この早熟の天才が、灼熱の砂漠で一介のビジネスマンとして活動する姿を想像し、あるいはアルチュール・ランボーなどと通底する心情があったのではないかと考えたりした。

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