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2014年6月 3日 (火)

懐疑的な現実主義者・粕谷一希/追悼(51)

編集者・評論家の粕谷一希さんが、30日亡くなった。84歳だった。
中央公論社で「中央公論」などの編集長を務め、退社後は『二十歳にして心朽ちたりー遠藤轔一朗と「世代」の人々』をはじめとして、力のこもった評論作品を書いた。
私は同書を読んで、遠藤麟一朗という存在を初めて知り、ある意味での衝撃を受けたが、そのことについては改めて記すこととしたい。

粕谷氏は、いわゆる進歩的文化人が中心だった戦後の日本の論壇に、現実主義的な論者を登場させた立役者である。
昭和5年に東京で生まれ、東京大学を卒業後、中央公論社に入社した。

中央公論社に、「言論史上初めてといわれる論壇を対象とする」吉野作造賞が創設されたのは、1965年の創業80年を記念してのことだった。
受賞者は翌1966年から選定されたが、衛藤瀋吉、永井陽之助、萩原延寿、永井道雄、村上泰亮、高坂正堯などの錚々たる論者が選ばれている。
この賞の企画・実行者が、粕谷氏だった。
なお、同賞は、中央公論社が読売新聞社の傘下となったあとに読売論壇賞と統合されて読売・吉野作造賞に改編された。

粕谷氏は、現実主義の論調の台頭に大いに与ったことになる。

現実主義論調とは、勢力均衡、権力政治、軍事力の側面を重視した外交論(国際政治学)を指す。
根津朝彦「編集者粕谷一希と『中央公論』―「現実主義」論調の潮流をめぐって―」『総研大文化科学研究』4号

「世界」や朝日新聞などにおいて主流だった論調のアンチテーゼということになろう。
粕谷氏が中央公論社に在職したのは、1955年~1978年の間であった。
中央公論社が株式会社化されたのは、1926年であったが、淵源は、1886年(明治19年)に京都・西本願寺の有志が集まり「反省会」を設立した時に遡る。
翌1887年、反省会は「反省会雑誌」を創刊(後に「中央公論」と改題)したが、反省会の設立を以て創業としている。
「中央公論」は大正デモクラシーを代表する総合雑誌として部数を伸ばし、1916年には「婦人公論」を創刊した。

中央公論社は1990年代に経営危機に陥り、1999年に読売新聞社(現読売新聞東京本社)が全額出資して中央公論新社を設立、営業を譲り受けた。
2002年の読売グループ再編により新設されたグループ持ち株会社読売新聞グループ本社の事業子会社となって現在に至っている。
旧中央公論社は1999年2月1日付で株式会社平成出版に商号変更、同年8月23日に解散し、2001年9月1日に清算が終了して、完全消滅した。
諸行無常である。

粕谷氏は、中央公論社の良き時代に在職したといえるだろう。
粕谷氏によって論壇に登場した一人である萩原延寿氏は、革新と社会主義がほとんど同義的であった1965年2月号の『中央公論』誌に載せた「革新とは何か」において、マルクスの「革新的(ラディカル)であるというのは、物事を根底にまで遡って理解することである」という定義の意味を改めて問題提起した。
しかし、60年代末に吹き荒れた「造反有理」をスローガンとした学園紛争は、ラディカルであったのか否か?

粕谷氏は、「編集とは筆者とテーマの選択的構成である」と言った。
化学反応において、優れた選択性を持つ触媒が重要な役割を担うが、編集者はそういう存在だということなのだろうか。
今こそ、編集が重要な時代であるように思われる。
合掌。

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