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2014年6月19日 (木)

集団的自衛権論議の胡散臭さ/花づな列島復興のためのメモ(331)

政府は、集団的自衛権を行使できるようにするための閣議決定をするという。
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東京新聞6月18日

 政府の原案は、戦争には至らないが緊張状態にある「グレーゾーン事態」を記した「①武力攻撃に至らない侵害への対処」、多国籍軍への後方支援拡大や武器使用などの「②国際社会の平和と安定への一層の貢献」、集団的自衛権の行使に関する「③憲法第9条の下で許容される自衛の措置(検討中)」、「④今後の国内法整備の進め方」で構成されている。
 公明の説明によると、原案では、③は自公で協議中のため具体的な文言はなく、別紙で「国際法上は集団的自衛権が根拠となる」と明記し、国際法で使えるとされていることを理由に行使が可能だとの考えを盛り込んだ。また、1972年に出された政府見解をもとに、集団的自衛権の発動要件として「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」とした。ただ、公明が党内で閣議決定に関する議論をしていないことから、具体的な協議は行わなかった。
集団的自衛権、閣議決定原案示す 自公、機雷除去で対立

長年の国会論議を経て積み上げてきた政府の憲法解釈は、「日本も集団的自衛権を持つが、憲法9条によってて行使することはできない」である。
これを安倍内閣はひっくり返そうというのである。
しかし、一内閣の閣議決定という手続きだけでよいものであろうか?
先の総選挙において、解釈改憲を想定して投票した人は果たしてどの程度いたのであろうか?

私には、今行われている集団的自衛権論議は、相当に胡散臭いように思われる。
自衛権とは、急迫不正の侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利であって、自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利であるとされる。
自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利を個別的自衛権といい、他国に対する侵害を排除するための行為を集団的自衛権という。
⇒2014年3月25日 (火):個別自衛権と集団的自衛権/「同じ」と「違う」(69)

「他国に対する侵害を排除するための行為」であるから、他衛権という方が正確なように思えるが、それは措くとしよう。
集団的自衛権(Wikipedia)では、次のように説明されている。

集団的自衛権は、1945年に署名・発効した国連憲章の第51条において初めて明文化された権利である。憲章第51条を以下に引用する。

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

世論は二分されている。
メディアの論調も対照的である。
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集団的自衛権(Media Watch Japan)

二分されている世論のどちらを支持すべきか?
防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛氏は、産経新聞「正論」欄で朝日新聞や大江健三郎氏などの反対論を批判して、次のように書いている。

 朝日も大江氏も「井の中の蛙(かわず)」の議論をやっている。大海には目を閉ざしている。なぜか。その方が大衆煽動には都合がよいからだ。が、それは国民説得の道ではない。煽動と説得とは大違いで、説得に煽動は不要。地味でよい。
 一言補うと、戦争という言葉は情況説明のために日常、しばしば使われる。私だって使う。が、こと自衛権の法理、文理的説明のためには、この用語を使ってはならない。この点、肝に銘ずべきだ。
 私は自分の経験から集団的自衛権について有権者の99%は理解ゼロだと考える。有権者1億400万強の1%は104万強だが、この抽象的概念を曲がりなりにも説明できる人数はそれ以下だ。99%の有権者にとり、それは正体不明の〈妖怪〉なのだ。
集団的自衛権行使は「戦争」に非ず 煽動と説得は大違い

妖怪とは、マルクスが「共産主義という妖怪が欧州を彷徨している」と言った意味と同じであると佐瀬氏は言う。
そして、「妖怪が彷徨すると戦争なのだぞ」という賢者のご託宣が聞こえると、大衆は「そうかもしれないな」と思う、とする。
佐瀬氏の主張は、大衆は無知であり操作できる対象だという大衆蔑視である。

東京新聞の本音のコラム欄は、権力に媚びない執筆者が多い。
本日(6月19日)は、竹田茂夫氏が『命と暮らし』と題して、安倍首相が記者会見で示したパネル(⇒2014年5月16日 (金):成長戦略の実体は原発と軍需産業か/アベノミクスの危うさ(31))を前提に、次のように書いている。

かれらの本当の願望は、情報と教育とメディアを統制し、抵抗を振り払って原発再稼働や沖縄の基地移転を強行し、欧米並みに海外派兵を行う、つまり国内外で強制力や暴力の行使を躊躇しない強面の国家を打ち立てることにある。

なぜ、安倍首相は集団的自衛権に強く執着しているのか?
田原総一朗氏は次のように解説している。

日米安保条約の第5条では、日本が危機に陥ったときアメリカが日本を助けると定められているが、これはアメリカが世界の警察だった時代に作られたものだ。
いまは事情が変化している。もし尖閣諸島に中国が攻めこんできたとき、アメリカは本当に日本を助けてくれるのか。「世界の警察」をやめたということで、日本を助けてくれない危険性があるのではないか。アメリカ国内の世論からも、なぜ日本のためにアメリカ人が命を捨てないといけないのかと反発が起きる可能性がある。
そこで、アメリカに「有事のときは、ちゃんと助けてくれよ」と念押しするために、アメリカが危機のときは日本が助けるという集団的自衛権の行使に踏み切るというわけだ。つまり、集団的自衛権の行使を認めるのは、アメリカへの念押しという意味がある。
もう一つは、精神的な意味だ。日本の外交政策について「対米従属外交をやめて、自立せよ」という主張がこれまでにも政治家や有識者から出ていたが、集団的自衛権の行使を認めることで、アメリカに従属するのでなく、より対等に近い関係になることができるという考えだ。アメリカに対してプライドがもてるような関係にしたいという気持ちがある。

http://blogos.com/article/86968/

どうも良く分からない。
集団的自衛権を分かりやすい絵で示せば、以下のようである。
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仲間の国を守るため武力使う権利

繰り返すが、攻撃されているのは日本ではなく、同盟国(仲間の国)である。
仲間の国は、さしあたっては絵に描かれているように、安保条約を結んでいるアメリカである。
斎藤美奈子氏は、6月18日付の「本音のコラム」欄で、国家を我が家にたとえて次のように書く。

 御町内の親しい家に強盗が入ったら知らんぷりはできんだろ、というのが政府の言い分だが、彼らが想定している「親しい家」は番犬を山ほど飼っている町内会長、しかも凶暴な犬を町じゅうに放って迷惑をかけまくっているヤバい一家だ。
そんな一家に協力したら自分が強盗になるのがオチ。しかも我が家に害が及ぶ「おそれ」まで許容したら、町の不審者はみんな撃ってもいいことになっちゃうぞ。

戦後のアメリカの軍事介入は以下のようである。
Photo
東京新聞6月19日

胡散臭い概念の行使を、憲法を変えるのでなく、解釈を変えるという胡散臭い方法でやろうとしている。
しかも「必要最小限の」というような胡散臭い限定をするのは、「義」も「理」もないことを表しているのではないか。

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