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2014年4月17日 (木)

公私の分界をどう考えるか?/花づな列島復興のためのメモ(321)

私たちは、純粋に「私」として存在し得るか?
人間が社会的な動物である以上、何らかの形で「公」という部分が入ってくることは否めない。
その「私」と「公」の分界をどう考えるか?

埼玉県の県立高校の教師が、息子の入学式に出席するために、自校の入学式を欠席したということが話題になっている。

 県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式(8日)を欠席していたことが分かった。新入生の保護者らは「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」と困惑している。
 県教育局によると、県内の県立高校では、ほかに男女3人の担任教諭が子息の入学式出席を理由に休暇届を提出し、勤務先の入学式を欠席した。
 関根郁夫県教育長は11日に開いた県立高校の校長会で「担任がいないことに気付いた新入生や保護者から心配、不安の声が上がった」と、この事実を報告した上で「生徒が安心して高校生活をスタートできる体制づくりと心配りに努めてほしい」と異例の“注意”を促した。
・・・・・・
 県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」としている。
担任、息子の入学式へ…高校教諭勤務先を欠席、教育長が異例の注意

公私の分界をどう考えるかは、人それぞれであろうし、時代によっても変わるであろう。
かつては滅私奉公が強調された時代があった。
しかし、戦後史の過程では一貫して、私的価値の優位性が強調されてきた。
1944年生まれの私は、戦後的価値の中で自我を形成してきたから、前世代の人たちよりは私的価値を重く見てきたであろう。

そんな私でも、「おやっ?」と首を傾げてしまった。
職場を放棄して、高校生になる息子の入学式?

私の感覚では、15歳になれば男は自立したい頃である。
もっとも、大学の入学試験にも親がついていく例が多いというから、高校の入学式に親が参加すること自体は不思議ではないのが、「時代の空気」というものだろう。
実際、この教師の行動につて、世論は賛否半々らしい。

Yahoo!ニュースが行っている意識調査(実施期間:2014年4月12日~2014年4月22日)では、「担任が『自分の子供の行事』を理由に、学校行事を欠席することについてどう思うか」という質問に対して、13日16時現在、「問題だと思う」と答えた人は48.2%、「問題だと思わない」は42.9%となった。問題だと思う人がやや多いようだ。
高校教諭が入学式を欠席 「息子の入学式に出席のため」という理由は許されるか

埼玉県の県立高校では、「3人の担任教諭が子息の入学式出席を理由に休暇届を提出し、勤務先の入学式を欠席」とある。
休暇届が受理されているということは、学校長も許可したということだろう。
賛成論としては、下記のような意見がある。

我が子の入学式を優先することは、別段何の不思議はありません。当たり前でしょそんなの。自分の子どもの、たった一度の入学式なんですから。というか、逆に先生が自分の息子の入学式を優先しないとしたら、そっちの方が「え、親としてどーなの?ぼくが子どもなら、やっぱり出てほしいけど…」と思ってしまいます。
「教員が、教え子より息子の入学式を大切にする」のは当たり前

「時代の空気」を変えたのに力があったのは、いわゆる「団塊の世代」であると思われる。
60年代末の大学紛争と呼ばれる時代、私もその現場の一端を現認してきた。
叛乱を起こした側の論理・問題提起は理解する部分があるものの、大衆団交と称する場で、碩学の教授たちに、「テメエ、この野郎」と大声を上げる様子には、甚だしい違和感を覚えた。

ところで、この問題は、「息子」か「仕事」か、という二者択一で考えるべき問題なのだろうか?
私が思うのは、職務に対する矜持ということである。
高校教師という仕事に矜持を持っていたなら、息子にこそ了解を求めるのではないか?
息子も、そんな親を尊敬こそすれ、不満を持たないのではないか?

かつては教師は聖職だといわれた。
今は、その他の職業と無差別の労働者ということだろう。
しかし、教師という職業には、少なからぬ聖職性があると考える。
「聖」ということの背景に、「私」の犠牲を厭わないという要素があるのではなかろうか。

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