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2014年4月18日 (金)

研究における管理と自律/知的生産の方法(88)

STAP細胞の論文問題で、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長が16日、記者会見した。
私はTVの報道で断片的にしか見ていなかったが、他に言いようがないだろうな、というのが率直な感想であった。
研究の共著者であり、理研の管理職であり、エース研究者でもあり、という何重ものしがらみがある。
しかも、当初のセンセーションを引き起こした記者会見には同席していた。
⇒2014年1月30日 (木):新しい人工万能細胞/知的生産の方法(79)

上記のことを考えると、小保方氏の主張を否定(調査委の調査結果の肯定)するにしても、肯定するにしても、100%その立場に立つというわけにはいかないだろう。
しかし、「STAPは有望で合理的な仮説であり、再検証に値する」と語ったことは、事実上STAPは存在するという立場ではなかろうか。
再検証作業について、一部にムダなことという意見もあるようだが、私も再検証に全力を尽くせという立場である。
⇒2014年4月11日 (金):STAP細胞と旧石器遺跡/「同じ」と「違う」(71)
⇒2014年4月10日 (木):小保方氏の研究不正認定は冤罪か?/知的生産の方法(86)
⇒2014年4月 3日 (木):STAP細胞論文の検証/知的生産の方法(85)

ただ、私は論文の撤回に同意という姿勢には疑問を持つ。
笹井氏のように、「STAP現象を前提にしないと容易に説明できないデータがある」と考えるならば、撤回すべきではないように思う。
不適切を指摘されている部分は、逐次補足し修正していけばいいと思われる。
結果的にSTAP現象が否定されれば、撤回したのと同じことだろう。
あえて原形を曝しておくというのも、価値があるのではないだろうか?

また、一部には「責任逃れ」という声もある。
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静岡新聞4月17日

東大医科学研究所の上昌広特任教授は、次のように語っている。

 会見の始めに、笹井芳樹氏が「私が参加した時点で実験やデータ分析は終了しており、私の役割は論文の仕上げだった」「論文の文章を俯瞰(ふかん)する立場だった」などと語ったことに言葉を失った。会見は完全に失敗だった。「私は翻訳家です」と堂々と宣言したようなものだ。
 笹井氏は小保方晴子氏とともにデータをまとめて論文を執筆し、研究を統括してきた中心人物だ。副センター長として、博士号を取ったばかりで実績がない小保方氏をユニットリーダーに抜擢(ばってき)した張本人でもある。山梨大に行った若山照彦氏の後を引き継いで、研究をプロデュースしていたはずだ。例えるなら、俳優が不祥事を起こしたら、プロデューサーが逃げちゃったようなもの。若手を抜擢し、競争させる。良い結果が出たら会見にも出席してPRするのに、悪い結果が出たら自分は翻訳家だと言って逃げる。これでは下にいる研究者は救われない。
笹井氏会見「完全な失敗」「あれでは翻訳家宣言」 東大医科研・上昌広特任教授

確かに小保方氏の抜擢に笹井氏は関与していたであろう。
しかし、上記の「「私は翻訳家です」と堂々と宣言したようなものだ」というのは良く分からない例えだ。
論文の仕上げの役割を負い、論文の文章を俯瞰する立場ならば、論文の全体について責任があると言っているのではないだろうか?

嘉悦大学の高橋洋一教授は次のように書いている。

冒頭述べた笹井氏の場合、研究者なので、論文の共著者としての責任はあっても、独立した研究者同士であれば、いくら歳の差があって、指導責任なんてありえない。実際、笹井氏は、小保方氏は部下ではないので、指導しなかったと明言していた。
 サラリーマンの視点から見れば、理研が所属組織としてきちんと管理すべきとなるだろう。まして、理研には税金が900億円近くも投入されているのだから、当然だろうと。
 これを研究者からみれば、自由な研究の阻害にみえるかもしれない。研究者といっても十人十色であるが、変人が多い。筆者は官僚を長くやっていたので、事務管理はお手のものだが、大学の研究者にはしばしば驚かれる。
STAP細胞問題にみる個人vs.組織

要は、研究における自由と自律、言い換えれば研究管理の責任の所在である。
私は、笹井氏の発言は、共著者であり、理研の幹部として、現時点でのギリギリのものだと思う。

小保方氏の博士論文にコピー&ペーストがあると問題になった。
私は、疑惑とされている問題について、次のように考えたらどうか、とした。
1.研究成果の真実性の問題
2.論文などにおける表現の問題
 A.博士論文の文章流用疑惑
 B.ネイチャー論文の画像の妥当性

上記の「2.A.」については、余り大騒ぎしない方が良いのではないかとした。
⇒2014年3月13日 (木):STAP細胞に関する過熱報道/花づな列島復興のためのメモ(315)
中部大学教授の武田邦彦氏は次のように書いている。

5)多くの人が誤解しているが、「著作権」というのは「書いたから俺の権利」ではなく、「思想又は感情に基づく創作物で表現されたもの」に限定されている。
6)通常の理科系の著作は、「思想又は感情」に基づいていないし、「創作物」でもないので、著作権はない。裁判の判例もそうである。
7)「著作権がない著作物」は公知であるから引用は不要である(これも多くの人が間違っている。著作権法32条は著作物に限り引用が必要とされている)。著者は公知になって無断で利用してくれることを望んでいるはずである。
・・・・・・
10)「倫理」と言う点では、社会の認識と反対だが、無断で引用するほうが倫理的である。つまり「人類共通の財産」を認め「公知」であるという法律に従っているからだ。引用しなければならないというのは法律より村の掟を上位に置く思想だから危険。
STAP事件簿08 世間の参戦(1)「あり得ないコピペ」??

つまり、文章のコピペは、理科系の論文については不要ということだろうが、武田氏の言い方は極論であって、引用元を示すのはマナーであろう。
マナー違反があるからと言って、論文の価値を全否定するような扱いは行きすぎということではなかろうか。

笹井氏の会見によって疑惑とされているものがスッキリしたわけではない。
しかし、可能性にかける方が、可能性を否定するよりも得られるものは大きいのではないか。

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