大岡昇平『花影』/私撰アンソロジー(32)
桜前線が北上中である。
南北に長い日本列島を1ヶ月以上かけて縦断するが、桜花の見頃は一瞬の間に過ぎ去る。
掲出したのは、大岡昇平『花影』中央公論社(1961年5月)の一節で、毎年、桜の季節になると思い出す。
私も、10年ほど前に、奈良に住む幼馴染の女性と、小学校の同窓会で再会して、花の吉野へ行こうと盛り上がったが、果たせないままでいる。
立原正秋氏に、『『花影』覚え書』という評論があって、『立原正秋初期作品集(二)』深夜叢書社(1968年5月)に収められている。
また、氏は、『最も影響を受けた作品』の一つとして、この作品を挙げ、「恋愛の純粋結晶の容(かたち)を教えてくれた作品でした」と書いているし、「懐かしい顔 大岡昇平氏について」では、「名作と名品は同じ意味だが、『花影』は名品であった。全篇が澄んだ響きでつらぬかれた小説である。名作にはそれなりの夾雑物が蔵われているが、名品は澄んだ音色を発するだけである。」と書いている。
『花影』に対して強い思い入れがあったことが分かる。
主人公の足立葉子は、銀座のバーのホステスで30歳をとうに過ぎている。
葉子は大学で西洋美術史の講義をしている松崎に囲われていたが、松崎の別れ話にあっさり別れた。
葉子は父親のように頼りにしている美術評論家の高島に身の振りかたを相談した。
高島は、落ちぶれていて、葉子の昔のホステス仲間の潤子の居候的存在になっている。
2人のいうなりに、葉子は潤子の店の雇われマダムとして、銀座に、返り咲いた。
葉子は、さまざまな事件を経て、最後には銭湯で髪を洗って体を清めた上で、睡眠薬自殺をする。
日は高く、花の影は地上に落ちて重なっていた。
葉子のモデルは、坂本睦子という静岡県三島市生まれの女性だという。
孤児同然に育った不幸な生い立ちで、1931年、青山二郎が出資した銀座のバー「ウィンゾア」に出て、坂口安吾と中原中也が彼女を争ったという。
その後、安吾の愛人だったとされるが、小林秀雄に求婚されて、いったんは受け入れたが睦子が破棄し、オリンピックの選手と京都へ駆け落ちした。
まことに恋多き女性のように思える。
坂本睦子-Wikipedia は、次のように記している。
その後東京へ戻り、番衆町の喫茶店「欅」に勤めたあと、1935年、工場主をパトロンとして銀座に「アルル」という自分の店を持った。時に二十歳。1938年頃から河上徹太郎の愛人となって長く続いた。戦後、1947年からまた銀座へ出て、バー「ブーケ」で働く。1949年には、青山二郎が睦子のアパートに住んでいたこともある。1950年、青山が命名した「風(プー)さん」が開店し、ここに勤めている時、作家としてデビューしたての大岡昇平と関係ができ、大岡のアメリカ留学を挟んで八年近く愛人関係にあった。その後睦子は「ブーケ」の支店「ブンケ」に出ている。しかしために大岡は夫人の自殺未遂のようなことがあって何度か別れを考えたという。
こうした男の文学者、文化人のみならず、宇野千代、白洲正子とも親しかったが、1957年ころ、大岡と別れ、一年後、自室で睡眠薬自殺を遂げた。
・・・・・・
報せを受けて駆けつけた大岡は号泣していたというが、『中央公論』8月号から、睦子をモデルとしてに『花影』の連載を始めた。当初は6月開始の予定だったが2ヶ月遅れたという。そのエピグラフは、むしろ睦子を引き受けなかった青山を責めるものになっている。1959年8月号で完結すると、『群像』9月号の合評会で、河上徹太郎、平野謙、高見順がこれを評したが、河上は自身の愛人だった女だけに歯切れが悪く、奇妙な座談会になっている。しかし『花影』は単行本になると、新潮社文学賞と毎日出版文化賞を受賞した。
・・・・・・
大岡の死後、白洲は『いまなぜ青山二郎なのか』(1991)で『花影』を批判し、睦子がちゃんと描けていない、肝心の魔性が出ていないとし、青山に対しても大岡の日ごろの恨みを小説で晴らしたようだ、とした。このあたりから、坂本睦子への関心が高まり、久世光彦は睦子をモデルに改めて『女神』(2003)を書いた。
『花影』は1961年に川島雄三監督・池内淳子主演で映画になっている。
映画を観て男女関係の奥行が分かるような年齢でもなかったが、池内淳子は何となくイメージに沿うような気がする。
「文壇」という言葉が実体を伴っていた時代である。
平成の世になって、桜の花は変わらず咲いているが、上記の固有名詞の人たちは誰もいない。
年々歳々花相似
歳々年々人不同
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