幻の党派・都市科学研究所/ブランド・企業論(23)
学生運動の歴史の中でも、「京大天皇事件」は有名なものの1つであろう。
1951年(昭和26年)11月12日、関西巡幸途上の昭和天皇が京都大学に来学した折り、学生たちが公開質問状を読み上げたという事件である。
起草者は技術論で有名になる中岡哲郎氏だったという。
中岡氏は、当時理学部の学生だった。
偶発的な出来事だったようであるが、京大の学生自治会は解散させられ、何人かの学生が退学処分を受けた。
⇒2013年9月 9日 (月):ゼンガクレンという伝説/戦後史断章(13)
私は小学1年生だったから、リアルタイムには知らない事件である。
この時、京大学生自治会(同学会)の指導部にいた何人かが、後に、食べて行くために会社を設立した。
計画学研究所といい、後に都市科学研究所と改称した。
社長は、全学連の第3代委員長だった米田豊昭さんで、京大の学生運動をウラで仕切っていた榎並公雄さんも加わった。
私はある縁で、2人と知りあう機会があったが、榎並さんの肩書は、専務取締役だったように記憶している。
都市科学研究所は、大阪万博のプランを受託したことをきっかけとして、飛躍的な発展を遂げた。
大阪万博は、梅棹忠夫、小松左京、川添登氏らが仕掛け、堺屋太一(池口小太郎)氏が通産省の官僚として、企画運営に係わった。
大阪万博が開催されたのは1970年であるから、1960年代の総決算としての意味があったように思う。
⇒2011年7月27日 (水):大阪万博パラダイム/梅棹忠夫は生きている(2)
私が駆け出しのリサーチャーの頃(そして駆け出しのまま転職してしまったのだが)、都市科学研究所と接触があった。
その頃、関西のビッグプロジェクトの大半に係わっていた(財)都市調査会という組織があって、京都大学の総長を務められた奥田東さんを理事長に据え、関西国際空港、関西文化学術研究都市構想などを手掛けていた。
旧建設省OBで、少しも役人らしくない豪放な人柄の藤野良幸さんという人が専務理事としてリサーチの実務の長だった。
(財)都市調査会と連動する民間の機関がいくつかあり、その代表が、都市科学研究所だった。
米田さんも榎並さんも、都市調査会の理事を兼任していたはずである。
ということは、都市科学研究所を作った人たちが、仕事の受け皿として作った財団法人が都市調査会ということなのかも知れない。
榎並さんは、三一新書で『都市の時代』という著書を刊行するなどの学者肌の人だったが、1976(昭和51)年に、48歳という若さで亡くなられた。
榎並さんが亡くなられてすぐに刊行された『榎並公雄君をしのぶ』という小冊子の巻頭に、米田さんが追悼文を寄せている。
⇒2009年9月19日 (土):八ツ場ダムの入札延期 その8.奈良忠さん
その冒頭に、「榎並と私は、三十年近い犬猿の友であった」と書かれていることはすでに記したが、 学生運動の時代から、米田さんが表面に出て活動し、榎並さんは非公然活動を担当していたらしい。
榎並さんが亡くなられてから、米田さんは東京進出など拡大志向に走った。
それは実力以上のいわば米田さんの「夢」であり、結局は破綻してしまうことになる。
私には知る由もなかったが、都市調査会と都市科学研究所は、東京進出のために相当無理を重ねていたようである。
今考えれば、既に苦境に陥っていた米田さんが、危機打開のために東京進出を図ったというようにも思える。
私が接触を持った頃が都市科学研究所の最盛期だったようである。
正確な時期は記憶の彼方であるが、榎並さんは健在であったから、1973~4年位だろうか。
梅田の一等地に事務所を構え、50人くらいの、いかにもキレそうな人たちが大勢いたような記憶がある。
その時の縁で、私より若干先輩の人と、何年間かメールのやりとりをしていたことがある。
まだ、SNSとかブログなどは存在していなかった時代である。
ガンを患って亡くなられてしまったが、私と同じように応用化学系の学科の出身で、博士課程まで修了し学位を持っていた。
都市科学研究所を退社してベンチャー企業の役員をしていた頃、梅田で一度お会いしたが、年齢の割に白髪が進んでいたのは抗がん剤のためだったのだろうか。
また、数年前、ある研究会で講師を務められた方が、同研究所の出身者と分かり、散会後の酒席で昔話をしたことがある。
今では都市科学研究所のことを知る人も数少ないのではないか。
都市科学研究所に触れた資料もほとんど見当たらない。
後藤正治という人が「幻の党派」というノンフィクションを書いていて、『私だけの勲章』岩波現代文庫(2005年8月)という作品集に収められている。
米田さんや榎並さんもそうであるが、この作品集で取り上げられている人物は、ネオン街の流し、テレビ局の技術クルー、選挙参謀、プロ野球の代打など、まあ裏方の世界の住人である。
中では、元阪神タイガースの川藤幸三さんが世間に知られているくらいであろう。
解説を書いている鎌田慧さんの言葉を借りれば、「どこか演歌っぽい中年男たち」である。
この作品集の主人公の中で、私が直接知っているのは、米田さんと榎並さんだけである。
「幻の党派」は、都市科学研究所の盛衰の事情を要領よくまとめているが、重要なキーパーソンのことに触れられていない。
上田篤氏である。
都市科学研究所の事実上の創業者であり、発展の契機となった大阪万博にも深く関係している。
建築学者であるが、近年は『縄文人に学ぶ』新潮新書(2013年6月)や『小国大輝論 〔西郷隆盛と縄文の魂〕』藤原書店(2012年5月)など、どちらかといえば文明論的な観点から発言している。
「小樽商科大学人文研究」に載っている今西一『荒神橋事件・万博・都市科学研究所-上田篤氏に聞く-』というインタビュー記事を読むと、都市科学研究所と上田さんの関係が水面下の事情も含めてよく分かる。
とかく表に現れた現象だけで理解しがちであるが、世の中は表から見えることよりも見えないことの方が重要なことがしばしばあるように思う。
シンクタンクの定義は不確定であるが、およそ規模の利益というものが小さい業種ではないか。
もちろん、共有情報などのメリットもあるが、インターネット時代にはそれもあまり意味はない。
野村総合研究所、三菱総合研究所、日本総合研究所などの大手は、IT分野が収益の柱であるし、グループ企業からの支援的な業務もあるのではないか。
規模の利益は、研究員1人当たりの間接的な費用(いわゆるオーバーヘッド)が小さくなることであろうが、ある規模以上ではほとんど効果は飽和する。
おそらく、30~50人くらいが適正規模で、100人を超えると、維持のためのコストが負担になってくる。
都市科学研究所の軌跡を眺めると、そんなことを思う。
結局は、米田さんの「日本を動かす一流の組織」という見果てぬ夢のような拡大志向が、都市科学研究所を破綻に導いたと言っていいだろう。
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