記憶とアイデンティティ②/知的生産の方法(81)
『カノン』の主人公は32歳の女性・氷坂歌音(カノン)と58歳の男性・寒河江北斗である。
北斗は末期癌で余命はわずか。
その身体に32歳の一児の母である歌音の海馬(=記憶)が移植され、歌音の身体に北斗の海馬が移植される。
つまり、記憶と身体が別であった人格が2人誕生するわけである。
北斗の身体は間もなく死を迎えるであろうから、その期間をどう過ごすかである。
時間的に余り問題は生じないような気がするが、それでも死に行く北斗に閉じ込められた歌音の海馬が、朦朧とした状態で一人息子・達也のことを気にするようなうわ言を口に出す。
フィクションと分かっていても、ちょっと切ないシーンである。
問題がより大きいのは、<歌音(+北斗の海馬)>の方であろう。
先ず、期間が長い(はず)。
達也は未だ4歳であるから、母親がいた方が絶対的に好ましい(はず)である。
それが、脳間移植に関係者(特に元の歌音)が同意した理由である。
しかし、移植された北斗の海馬が58歳であったことに留意する必要がある。
58歳の男性の海馬が、女性として、母親として、妻としてやっていけるであろうか?
小説のかなりの部分が、この海馬の葛藤に費やされている。
もう一つが、海馬の認知能力の衰えの問題である。
北斗の父親が末期の認知症、母親が要介護2の認定を受けた認知症患者である。
歌音の父親はガンですでに亡くなっているが、母親も63歳で認知症の診断を受けている。
過剰なほど認知症が登場するが、認知症と海馬はもちろん密接な関係がある。
私たちが、日常的な出来事や勉強などを通して覚えた情報は、海馬で一度ファイルされ、整理される。
その後、必要なものや印象的なものだけが残り、大脳皮質に溜められるといわれる。
http://www.ninchisho.jp/bacic/01.html
<歌音(+北斗の海馬)>は、10年くらいすると急速に認知能力が衰える可能性を否定はできない。
まだその時点では、歌音の身体は十分に若いであろう。
ところで、歌音と北斗の年齢に注目してみよう。
北斗の58歳は、『カノン』を執筆していた外岡氏の年齢とオーバーラップする。
一方、歌音の32歳は、1986年に発表された『未だ王化に染はず』を執筆していた外岡氏の年齢とオーバーラップしていると考えられる。
つまり、中原清一郎名義の2つの作品の執筆年齢ということになる。
外岡秀俊という将来の作家を嘱望されていた人が、組織の一員となってペンネームで発表した『未だ王化に染はず』。
Amazon等の古書でも現在は入手できないが、別名を使用せざるを得ない事情があったのではないか。
『北帰行』の時点からの違いは、学生から社会人・組織人への移行である。
朝日新聞社といえども、外岡名での小説発表をためらわせるものがあったのではなかろうか。
海馬移植手術を終えて職場に復帰した<歌音(+北斗の海馬)>が職場でトラブルになるエピソードが描かれているが、ふと似たような体験があったのではないかと考えたくなる。
『北帰行』を書いた外岡氏は、作家志望者にとって羨望の的ではなかったか。
以下にある文学愛好者の外岡評を引用する。
いつも意識している訳ではないが、頭のどこかにひっそり存在していて、何かのはずみに思い出す人物というのが誰にでもあるはずだ。私にとって、外岡秀俊という男はそういう存在の一人である。
・・・・・・
タイトルは『北帰行』、著者の外岡秀俊は、まだ東大法学部の4年生だった。
『北帰行』は、北海道から上京した青年が東京で挫折していく姿を、石川啄木の若き日々の軌跡と重ね合わせて描いた作品で、その知的な構成と老成した文体は、文学関係者の間で高く評価された。
・・・・・・
「さあ、外岡は次にどんな作品を書くだろう」
私は期待して彼の作品を待っていた。しかし、翌年の春、意外なニュースを知った。外岡秀俊、朝日新聞に入社。
・・・・・・
現在までに外岡氏は数冊の著作を発表しているが、すべてジャーナリストとしての作品で、文学系のものは一作もものしていない。その最新作が『情報のさばき方』である。いまは編集局長という要路にあるので、小説を書く時間はないだろう。
・・・・・・
定年後になるかもしれないが、やがて外岡氏に時間ができた時、彼はふたたび筆をとり、原稿用紙に向かうだろう。こういう時代だから、パソコンに向かいキーボードを叩くのだろうけれど。
http://blog.livedoor.jp/altycarlos/archives/50691789.html
ほぼ私の記憶と似ていると思う。
しかし、私は文学とはあまり縁がなかったので、正直に言ってこれほどの思い入れはなかったのだが。
ただ、名前の記憶によって、『震災と原発 国家の過ち 文学で読み解く「3・11」』朝日新書(2012年2月)を買って読むくらいのことはした。
「北斗」という名前も、『北帰行』を連想させる。
寒河江という姓は珍しいが、寒河江市は山形県であり、北斗も山形県出身という設定である。
『カノン』は、随所に散りばめられた二重性が伏線を構成しているアイデンティティ小説である。
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