記憶とアイデンティティ/知的生産の方法(80)
河出書房新社から発行されている雑誌「文藝」の春号に、中原清一郎氏の『カノン』が掲載されている。
表紙に、次のように書いてある。
「北帰行」から37年--。
外岡秀俊が沈黙を破って放つ
長篇650枚一挙掲載
中原清一郎の名前には覚えがないが、外岡秀俊と『北帰行』は覚えている。
1976年に東大法学部在学中に書いた文藝賞受賞作『北帰行』。
翌年朝日新聞社に入社し、小説の筆は断っていたように見えた。
⇒2011年8月 6日 (土):『北帰行』ノスタルジー
⇒2013年10月14日 (月):朝日新聞社はどうなっているのか?/ブランド・企業論(3)
しかし、1月31日の東京新聞の沼野充義氏の「文芸時評」で、中原清一郎の名前で、『未だ王化に染はず』福武書店という作品を発表していることを知った。
Amazon等の古書を当たっても、現在入手するのは難しい。
『カノン』は、近未来の東京の月島付近に住む氷坂歌音という32歳の女性と58歳の寒河江北斗という男性が、脳間移植により海馬を入れ替えるという話である。
北斗は末期癌で余命1年を宣告され、歌音は脳に異変が起き近い将来すべての記憶と判断力を失うことが避けられない。
歌音には達也という4歳になる一人息子がいて、そのために10年でもいいから生きようと手術に同意する。
今の時点では非現実的な設定のようにも、意外に近い将来こんなことが現実になるかも知れないようにも思える。
脳以外の部位については、移植はさほど珍しいことではない。
私の亡母も生前に角膜提供をすることを自分で決めていた。
しかし、脳は、やはり他の器官とは違うだろうと思う。
海馬は、記憶を司るといわれる。
海馬の働きの概要を示す図を引用する。
http://kaiwa-kouza.com/contents/wh10_2_1.html
海馬を交換した場合、アイデンティティはどうなるのか?
あるいは、「こころ」はどう変化するのか?
これらの問題を硬質の文体で描いている。
音楽にカノンという形式がある。
複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式の曲を指し、ポリフォニーの1つの典型である。
歌音と北斗のアイデンティティが融合して新しいアイデンティティが形成されるという主題が、カノン形式を想起させるが、主人公の歌音(カノン)という名前になって表れているのだろう。
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