成長から成熟へ/花づな列島復興のためのメモ(302)
昨年の10月20日に亡くなった天野祐吉さんは、『広告批評』という雑誌の創刊者である。
⇒2013年10月22日 (火):消費社会の変容と広告批評・天野祐吉さん/追悼(38)
それは、「広告批評」というジャンルの開拓者ということと同義である。
天野さんの遺言(と言うべきかどうか分からないが)『成長から成熟へ さよなら経済大国』集英社新書(2013年11月)を読んだ。
発行日からすれば校了は亡くなられる直前のことであると思われる。
同書の中で、 江藤文夫さんの「批評とはつくりかえの提案だ」という言葉が紹介されている。
つまり、商品や広告にもこの意味の批評があるべきだ、というのが天野さんの立脚点であったと言えよう。
天野さんは、広告と時代の相関関係を見る「見巧者」だった。
広告がコミュニケーションの問題であることは、代表的な広告会社である電通の企業スローガンが、「コミュニケーション・エクセレンス」であることからも分かる。
広告といえば、普通は民間企業が行うものだと考える。
しかし、1973年のオイルショックあたりから、政府広報という広告が活発化した。
政府の広報活動には、行政広報と政策広報とがある。
問題は政府が政策をPRするためにおこなう政策広報であり、意見広告である。
具体的には、1979年にアメリカのスリーマイル島で原発事故が起きた後、世の中の不安や原発反対の声を鎮めるため、原発の必要性や安全性を政府と電力会社が一体となって展開した。
分かりやすく言えば、一種の洗脳であり、世論の誘導である。
国民の税金を使って、そのようなことを行うことが許されるのか?
消費税の税率が上がることから、税の使い道に意識が向く。
都留重人さんは、1947年(昭和22年)の第1回経済白書『経済実相報告書』の執筆者として知られる。
後に日本人として初めて国際経済学連合会長を務め、一橋大学学長にもなった日本の代表的な経済学者であったが、『公害の政治経済学』岩波書店(1972年)など、社会的な問題についても発言をした。
その鶴さんが、政府が意見広告を出すことに批判的であったことが紹介されている。
福島原発事故が起きたことによって、政府の広報(意見広告)は大いに反省を迫られているはずである。
ところが現政権は、福島原発事故などなかったかのように、原発は経済成長のために必要であるという。
泉下の都留さんはさぞかし嘆いていることだろう。
もうすぐ都知事選の投票日が来る。
私は有権者ではないが、1人の国民として注目せざるを得ない。
というのは、しばらくは国政選挙が予定されていないが、首都の首長は必然的に国政や他の地方選への影響力を持つだろうからだ。
争点は候補者によって力点が異なるが、私は「脱原発」が是か非かは重要な争点だと考える。
⇒2014年1月15日 (水):原発を問う都知事選/花づな列島復興のためのメモ(294)
東京に原発は立地していない、とか、都政はシングルイシューではない、という批判はあるが、原発を問うことは生活のあり方を問うことであると思う。
⇒2014年1月26日 (日):都知事選の争点について/花づな列島復興のためのメモ(300)
有力と目されている候補者の中では、原発に対する姿勢が際立っているのが元航空幕僚長の田母神俊雄氏である。
「原発を動かして景気を力強いものにしよう」と主張しているが、田母神氏は、自ら「首相と歴史観・国家観が同じ」と語っている。
「生活のあり方を問う」という意味では、広告も同じような機能を持っている。
日本という国は、1945年8月15日を境として、「皇国」から経済至上主義の国へ転換した。
その経済至上主義が明らかに行き詰って、国民が政権交代を望んだのを待っていたかのように、2011年3月11日に歴史的な大地震が起き甚大な災害を蒙った。
しかし、その災害からどのような国として復興すべきかの合意は、まだ明確に定まっていないのではなかろうか。
現首相は、デフレ脱却という旗を掲げて、原発をゼロにすると経済が成長できないとしている。
逆に言えば、経済成長のために原発は稼働すべきだという主張である。
これに異を唱えているのが、2人の元首相である。
その1人は、都知事選は「原発ゼロでも日本は発展できるというグループと、原発なくして日本は発展できないというグループの争いだ」と主張している。
現首相と元首相が争うということは、やはり「国のかたち・生活のあり方」が問われているということだろう。
かつて宮沢政権の時、「生活大国五カ年計画」が提唱されたことがあった。
「生活大国」とはどういうことだろうか?
天野さんは、豊かさを測る指標として、「カネ」尺と「ヒマ」尺の2つを組み合わせればいいと言う。
「こころの豊かさ」は測りようがないからだ。
『成長から成熟へ』p158
「カネ」尺と「ヒマ」尺を用いれば、2つの典型として、「カネなしヒマなし」と「カネありヒマあり」を考えることができる。
1945年8月15日はまさに「カネなしヒマなし」の状態であったが、その後の日本人は「カネありヒマあり」を目指してモーレツに頑張ってきた。
しかし、実際にはみんなが「カネありヒマあり」になるなんてことは不可能である。
とすれば、「カネありヒマなし」か「カネなしヒマあり」しかない。
「カネありヒマなし」を目指すということで、エコノミックアニマルなどと言われながらやってきたが、格差は拡大し、心にはスキマ風が吹き、他人と言葉が通じないような国になっていた。
『成長から成熟へ』p182
バブルがはじけてみると「こんなはずではなかった」ということになった。
上図に見るように、1にあたりGDPは増大しているのに、逆に生活満足度は低下している。
生活大国とは、とりあえず生活満足度が高い国と考えられる。
遺された道は、「カネなしヒマあり」ということになる。
宮沢政権が崩壊してから20年。まさに「失われた20年」である。
「3・11」によって、何が変わったのか?
都知事選の結果は、それを占うことになるであろうか?
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