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2013年12月16日 (月)

堤清二とセゾンの時代/ブランド・企業論(11)

先ごろ亡くなった堤清二氏は、セゾングループの総帥として、ユニークな企業人であった。
⇒2013年11月28日 (木):華麗なる文化人実業家・堤清二(辻井喬)/追悼(41)

最近知人の紹介で品川正治という経済人のことを知った。
今年の8月に亡くなっているのだが、元・日本火災海上保険(現日本興亜損害保険)会長で、経済同友会終身幹事だった。
新自由主義的な経済政策への批判者の1人であるが、自分の戦争体験を踏まえ、平和主義・護憲の立場に立ち、「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」(全国革新懇)の代表世話人だった。
その品川氏の『これからの日本の座標軸』新日本出版社(2006年10月)を読んでいたら、財界の文芸誌『ほほづゑ』 のことが書いてあり、堤氏と交流があったことが書いてあった。

文芸に造詣のある財界人ということでは不思議ではないが、経団連のタヌキ顔の会長などと比べると、品川氏にしろ堤氏にしろ、人としての器が違うように感じられる。
思考の時間軸の目盛りが違うのだ。
セゾングループは、西武百貨店を中核とした流通系最大の旧企業グループであったが、堤氏は、グループ名から敢えて「西武」を外した。
そこに、堤氏の矜持あるいは父康次郎および後継者として指名された弟義明氏との葛藤を感じる。

セゾングループを、Wikipediaで見てみよう。

歴史順に、西武百貨店・西友・朝日工業(西武化学工業)・西洋環境開発(西武都市開発)の4基幹グループを母体とし、「生活総合産業」宣言によりクレディセゾン(西武クレジット)・西洋フードシステムズ(レストラン西武・吉野家D&C・ダンキンドーナツ等)・朝日航洋・セゾン生命保険(西武オールステート生命保険)を新たな基幹企業に選定。
さらにバブル景気を迎えインターコンチネンタルホテル・大沢商会、ようやく利益貢献に回ったパルコ、コンビニ時代を反映するファミリーマートが加えられ12グループ体制。
1990年に西武ピサ、ウェイヴ、リボーンスポーツシステムズ、西武百貨店文化レジャー事業部の3社1事業部が合併して誕生したピサを加えて最盛期13グループ体制とすることもある。
これらに収まらない個別事業はセゾンコーポレーションが管轄した。

グループ構成企業は流動的であるが、上記だけでも華々しさは十分に伝わってくる。
「セゾン」とはフランス語で「季節」つまりシーズンと同義である。

東急の五島慶太と「強盗慶太・ピストル堤」と併称された康次郎は、一代で西武の礎を築いたが、1964年に急死する。
跡を継いだのは異母弟義明氏で、清二氏は、西武の本業ではない流通部門を渡した。
父の死の直後は、「兄弟会」を設置したりしたが七回忌の場で兄弟は「相互不干渉」の確約を交わして分裂した。

清二氏は、1971年、「西武流通グループ」を旗揚げしたが、1980年代まで西武鉄道の役員に名を連ね、2004年までは旧セゾングループ由来の西武百貨店、西友、ファミリーマートでライオンズの優勝セールを行なっていた。
西武百貨店のセブン&アイ・ホールディングス傘下入り以降は、西友からイトーヨーカドーに、ファミリーマートからセブンイレブンに権利が移行した。
また、そごう・西武傘下のロビンソン百貨店、東京、埼玉、千葉県内のそごうでも行うようになった。

もちろん、母が違う兄弟の葛藤は、余人には憶測の域を出ないが、傍目にも義明氏と清二氏の経営手法は甚だしく異なっていた。
詩人でもあった清二氏は、鋭敏な感性の持ち主であった。
清二氏の感性が発揮されたのは、パルコのオープン以降のことであろう。

1969年、撤退した「東京丸物」を継承する形でパルコ第一号店を池袋に開設した。
パルコは、盟友の増田通二氏に任せ、運営には干渉せず自由放任を与えたいわれる。
1973年には渋谷に進出し、若者文化やアートとの協調を掲げ、新しいフロア構成により成功した。
いわゆる「文化戦略」が本格化したのである。

百貨店から先端の文化・情報を発信する。
それは日本社会が、「豊かな社会」に移行するのと同期していた。
池袋本店は旗艦店として、最大規模の売上を稼ぎ出しつつ、文化を軸に実験的な改装を重ねる一方で、渋谷は若者の街として急浮上し、磐石な二極体制ができあがった。
渋谷は、若者文化の情報発信源となり、数々の社会現象が生まれ、若者消費を牽引した。

1973年「ウェイヴ」(ディスクポート西武)を出店、当時まだ入手困難だった音楽を集め、新たなジャンルを開拓した。
1975年、池袋西武にセゾンの文化拠点として「セゾン美術館」(西武美術館)を併設し、現代アートを中心として展示した。
1975年、大型書店の「リブロ」(西武ブックセンター)開設。
1979年、アングラ系小劇場・ミニシアターの先駆け「スタジオ200」、学校外から知識・教養の普及を図る「コミュニティカレッジ」、日本初の総合スポーツ店「スポーツ館」を開設。
1982年、池袋西武「ハビタ館」で、テレンス・コンランとの提携による家具市場に参入。
1984年、倒産した大沢商会を傘下に収め、国内高級ブランドのホールセールをほぼ独占、ファッション総合商社の西武が完成。
1987年、演劇の場として銀座セゾン劇場を開設し、「ホテル西洋銀座」を開業した。
1988年、国際的な高級ホテルチェーン「インターコンチネンタルホテル」を買収。

このような一連の急展開は、基本的には銀行融資に依存したものであった。
バブルが崩壊し、90年代の長期平成不況期に入ると、イメージ戦略は必ずしも消費と結びつかなくなり、百貨店離れ・スーパー離れを引き起こした。
また、脆弱な財務体質のまま、脱・流通業志向として手がけられたリゾート開発等により、多額の負債を抱えることになった。
昼は実業家、夜は詩人・小説家という二足のわらじにも無理があったのではないか。
セゾングループの幹部社員たちには、詩人の感性から発せられる言葉(たとえば、複合商業施設「つかしん」を作るとき、「店ではない、街をつくるのだ」)の意味が理解しがたく、清二氏の間に深い断絶があったといわれる。

最大の汚点は、「イトマン・住銀事件」との係わりであろう。
清二氏は、東京プリンスホテルの地階に高級美術品・宝飾品販売店「ピサ」をつくった。
そのピサが、「イトマン・住銀事件」の舞台となったのである。

 89年11月、首都高速を走行中のイトマン社長、河村良彦氏に自動車電話がかかってきた。電話の主は黒川園子氏。豪腕のバンカーとして鳴り響いていた住友銀行頭取、磯田一郎氏の長女である。父親の寵愛を一身に受け育てられた黒川氏は、家庭に収まる良妻賢母のタイプではなかった。82年7月、ピサに美術品担当の嘱託社員として入社したが、セゾングループ代表の堤氏に磯田氏が頼み込んで入社が決まったのである。
 その黒川氏の相談役が、“磯田の番頭”を自任していた河村氏だった。黒川氏から電話で「実はピサが買い付けを予定しているロートレック・コレクションの絵画類があるんです。どこか買い手を知りませんか」と訊ねられた河村氏は、「ぜひ、ご要望に沿えるよう前向きに検討させていただきます」と答えて電話を切った。黒川氏からの1本の電話が、裏社会の人々がイトマンを足場に住友銀行に食い込むきっかけをつくった。

http://biz-journal.jp/2013/12/post_3510_2.html

魑魅魍魎が跋扈する世界であり、詩人の感性と両立するわけもない。
大金が闇に消えたままの不祥事であったが、清二氏がセゾングループの代表を退いた最大の原因だったともいわれている。
謎を抱えたまま、清二氏は逝った。
破綻処理に負債総額からみれば僅かなものともいえるが、100億円という私財を投じたのはさすがである。

余談であるが、私の地元の沼津に西武百貨店が進出したのは1957年のことで、「沼津で東京のお買いもの」というキャッチフレーズで親しまれた。
惜しまれつつ今年の1月をもって閉店した。
⇒2013年1月31日 (木):西武沼津店の閉店と地方再生の可能性/花づな列島復興のためのメモ(186)

上記の展開の時系列からするとずいぶん早い時期になる。
清二氏が、沼津出身の詩人大岡信氏と懇意だったからという話を聞いたような気がするが、あまり信憑性はない。
大岡氏が処女詩集『記憶と現在』を伝説的な書肆ユリイカから刊行したのが1956年である。
私は、康次郎が、いわゆる「箱根山戦争」のために、箱根の西側に拠点を築いたのではないかと推測している。
ちなみに箱根山戦争-Wikipediaには次のように説明されている。

1950年からから1968年にかけて、堤康次郎率いる西武グループと、安藤楢六率いる小田急グループ、およびその背後にいる五島慶太の東急グループの間で繰り広げられた箱根の輸送シェア争いの通称。巨大グループ同士の衝突が熾烈を極めたため、これに舞台となった箱根山の名を冠して「戦争」と呼ばれ、「箱根山サルカニ合戦」とも揶揄された。
作家獅子文六により「箱根山」の題で小説化されており、後に川島雄三によって東宝で映画化された。

晩年は義明氏を再起させようと支援の道を探ったらしいが、「土下座して謝れば許してやる」が義明氏の返答だったという。
たまたま映画『利休にたずねよ』を観たのだが、秀吉が、利休の若い時代に愛した美しい高麗の女の形見として片時も離すことのなかった緑釉の香合を、差し出せば許してやるというシーンが重なった。
北朝鮮の粛清も同期して、政治権力を越えるものは何なのか、しばし考えざるを得なかった。

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