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2013年11月 2日 (土)

田中正造と山本太郎/「同じ」と「違う」(62)

山本太郎参院議員が、赤坂御苑で行われた天皇、皇后両陛下主催の秋の園遊会で、天皇陛下に福島原発事故の現状をつづった手紙を手渡す行動に出た。
この行為は、田中正造の直訴状事件を連想させる。
⇒2013年9月 4日 (水):田中正造没後100年/花づな列島復興のためのメモ(256)
⇒2012年7月11日 (水):渡良瀬遊水地と福島原発事故/花づな列島復興のためのメモ(107)

しかし、気持ちは分からないでもないが、大きな勘違いがあると考える。
田中正造は、手だてを尽くしてできる行動はやった上での直訴であった。
1901(明治34)年のことである。

12月10日、帝国議会開会式からお帰りになる途中の明治天皇の馬車に、紋服姿の白ヒゲの老人が走り寄り、 直訴を企てたが、護衛にさえぎられた。
老人は2か月前代議士を辞職したばかりの田中正造。 栃木県を流れる渡良瀬川が上流の足尾銅山から出る鉱毒によって汚染され、魚が捕れなくなったり、 農作物が年々減るなどして沿岸の農漁民を悩ませている実情を知り、代議士として10年間、対策を訴え続けてきたが、 政府に無視され、ついに直訴という非常手段に訴えた。 この直訴をきっかけに、世論も盛り上がり、政府はやっと鉱毒除去に乗り出したが、抜本的解決には至らなかった。
http://www.c20.jp/1901/12jikis.html

言うまでもなく、田中正造が直訴に出たのは「大日本帝国憲法」の時代であった。
明治維新により、さまざまな改革が行われたが、憲法が施行されたのは明治23(1890)年のことであった。
この憲法は立憲主義の要素と国体の要素をあわせもつ欽定憲法であった。
すなわち、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限されるという折衷的なものであった。
たとえば、天皇は天皇大権と呼ばれる広範な権限を有した。
立法権を有するのは天皇であり、帝国議会は立法機関ではなく立法協賛機関とされた。
Photo
Wikipedia-大日本帝国憲法

これに対し現行の「日本国憲法」は、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」の3つをもって三大要素」としており、性格をまったく異にしている。
Photo_2
Wikipedia-日本国憲法

つまり、参議院議員である山本太郎氏は、国民から立法権を付託されている身である。
田中正造が立法権者である天皇に直訴したのとはまったく事情が異なっている。
国会こそが彼の主張を生かす場である。

現在の議席数は、圧倒的に与党が多数である。
しかし、それは山本氏が選出されたのと同じく、選挙結果である。
それを否定しては、山本氏自身を否定することになり兼ねない。

また、山本氏に好意的な見方をすれば、「人間天皇」に対して共感を求めたとも言える。
しかし、直訴まがいの行動は、天皇の政治利用のスタンドプレーと捉えられるに違いない。
なぜ、天皇陛下に頼るのか?
軽挙により活動が制限されることになれば、票を投じた人々をも裏切ることになろう。

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