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2013年10月24日 (木)

カスリーン台風と利根川治水/戦後史断章(15)

10月下旬というのに、大きな被害をもたらした台風26号に続き、27号、28号と2つの台風が接近している。
私の記憶では、大きな被害を発生させた台風は、9月下旬に多かった。
調べてみると、台風の特異日というのは、9月17日頃と26日頃である。

9月17日頃は1947年(昭和22年)のカスリーン台風、1948年(昭和23年)のアイオン台風、1961年(昭和36年)の第2室戸台風、26日頃は1954年(昭和29年)の洞爺丸台風、1958年(昭和33年)の狩野川台風、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風などです。いずれも災害史に残る名だたる台風ばかりです。
Photo
http://www.bioweather.net/column/weather/contents/mame005.htm

敗戦後、わが国の国土は荒廃した。
「国破れて山河あり」と言われ、「戦乱で国が滅びても、山や川の自然はもとのままのなつかしい姿で存在しているということ」とされるが、山河もまた元の状態ではあり得なかった。
そんなところへ台風が襲来し、大きな被害が発生した。
昭和22年9月の「カスリーン台風」である。

当時は連合国軍の占領下にあり、台風の英名についても1947年から1953年5月までアメリカ合衆国と同様に、A、B、C順に女性の名前が付けられていた。
カスリーン台風の英名は「KATHLEEN」で、Aから数えて11番目である。
カスリーン台風の進路は下図のようであり、先日の台風26号と似通った進路といえよう。
Photo
Wikipedia-カスリーン台風

この台風による死者は1,077名、行方不明者は853名に上り、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらした。
利根川では、「明治43年の大洪水」の大洪水が有名である。
利根川、荒川水系の各河川が氾濫するとともに、各地で堤防が決壊し、関東平野一面が水浸しになった。
死者・行方不明者数1,379人、堤防決壊7,266カ所で、東京の下町一帯がしばらくの間冠水した。
破堤した中条堤の修復をめぐって大きな論議が起きるなど、利根川水系の治水のあり方に抜本的な見直しを迫る水害であった。
中条堤の保持していた遊水機能を何によって代替するかは、利根川治水の最大の論点と言ってもいい。
⇒2009年12月 6日 (日):専門家による「八ツ場ダム計画」擁護論(2)中条堤の遊水効果

カスリーン台風では、「明治43年の大洪水」の時には破堤しなかった新川通と呼ばれる直線河道が破堤した。
新川通は、いわゆる利根川東遷事業によって生まれたものである。
東遷事業の全体像は複雑であり、またどこからどこまでを一単位の事業として考えるかについて諸説あるが、ここでは江戸時代の荒川というサイトによって、東遷事業の概略を見よう。

徳川家康の江戸入府(1590年)当初から、利根川東遷事業、つまり利根川の流れを常陸川に導き,銚子で鹿島灘に落とす構想を描いていたと言われる。
その目的は、次の4項目を考えることができる。
①江戸を利根川による水害から守る。         
②埼玉平野から利根川を遠ざけて、古利根川流域の新田開発をする。    
③舟運を開いて、東北と関東との経済交流をはかる。    
④東北の雄藩伊達に対する防備として、利根川を江戸城の一大外壕とする。

東遷事業の起点が、会の川の締切りであった。 1594年のことである。
ただしこれを利根川東遷の端緒とすることには異論もある。
小出博は、利根川東遷事業という遠大な構想のもとにおける工事ではなく、忍城近辺の水害防除と農業生産の安定化にあったのではないか、とする。
忍城は、「のぼうの城」として話題になったが、水郷というような場所であった。

元和7(1621)年、関東郡代伊奈備前守忠治は、栗橋に「新川通」と呼ばれる新河道を開削し、太日川(当時の渡良瀬川)と合流させた。
これにより、下流域はおおよそ現在の江戸川に沿って江戸湾へと流れ出るようになった。
同年、赤堀川の掘削も始まった。
赤堀川の開削によって、利根川は常陸川を経由して鬼怒川と合流し、銚子で海に注ぐはずだった。
しかし、赤堀川は台地を掘削するために難工事であり、失敗を重ねて、20年後の承応3年(1654)、川床を3間堀下げて深さを増して、はじめて利根川の水が赤堀川を流下して常陸川に入った。

新川通は、比較的楽観視されていた場所であったが、上流の遊水地帯が開発によって消滅しているなどの状況変化があり、利根川の水が新川通に集中した。
また、下流の栗橋付近の鉄橋に漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。
このようないろいろな要因が複合して、堤防の決壊に至った。

現在の利根川水系の治水計画の基本は、下図のような流量配分によっている。
Photo_2
利根川水系における治水計画

もちろん、自然現象であるから、想定通りの流量になるとは限らない。
特に、最近の異常な降水には不安を覚える。
流域の土地利用が高まっているからである。

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