伊勢神宮の起源/やまとの謎(88)
伊勢神宮の式年遷宮のクライマックスと言ってよい「遷御の儀」が2日夜、皇大神宮(内宮)で行われ、ご神体の八咫鏡が旧正殿から新正殿に移された。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG02031_S3A001C1CC1000/
今回の式年遷宮では、約700年ぶりに宮域林からヒノキを切り出し、造営に利用した。
100年近く前から生態系に配慮して独自の造林計画を進めてきたという。
鎌倉時代に宮域林で適材が尽きて以来、木曽から調達していたが、宮域林を育成してきた成果が実った。
静岡新聞10月3日
私は、伊勢神宮に2度参詣しているが、いずれも神社仏閣などに余り興味のない頃であり、観光ルートの一環として立ち寄ったに過ぎない。
しかし、現在の興味・関心からすれば伊勢神宮は、ほぼセンターの位置を占めているということになる。
川添登『伊勢神宮―森と平和の神殿』筑摩書房(2007年1月)は、伊勢神宮の創建の実相に迫った謎解きの書である。
川添氏は、建築のメタボリズム運動に理論面から参画した論客である。
メタボリズムは、黒川紀章、菊竹清訓など実作と理論の両面で活動した人が多くいたが、川添氏は幅広い視野で、特に日本文明の成り立ちを論じてきた。
⇒2007年10月14日 (日):黒川紀章氏の死/追悼(2)
⇒2012年1月 6日 (金):菊竹清訓と設計の論理/追悼(19)
川添氏は上掲書で、伊勢神宮を「森と平和の神殿」と規定している。
宮域林が完全に復活すれば、名実共に、ということになろう。
また、「はじめに」で、「伊勢神宮は、現在の国際社会にも通用する日本人が日本人であることの思想的・倫理的な意味を含みこんでいるのではないか、と考えるに充分な根拠がある」として、6つを挙げている。
たとえば(2)は、以下のようである。
(2) 伊勢神宮は、古代--日本神話、中世--神国意識、近世--お伊勢参り、近代--皇国史観と、かたちを変えながらも、日本の歴史を貫いて戦後にいたるまで、日本人の心のなかに奏でつづけてきた通奏低音であったことは、まぎれもない歴史的な事実である。その間、それぞれの時代に応じて、日本人が日本人であることの意味を語りつづけてきたのである。
私が学校教育を受けたのは、まだ皇国史観の反動が強かった時代である。
日教組なども今のような利権談合共同体(輿石氏が象徴している)というようなものではなく、情熱的な教師も数多かったように思う。
時代の空気としては、まだ「伊勢神宮=天皇制」というような感じで、伊勢神宮に対しても否定的な雰囲気ではなかったか。
伊勢神宮の起源については、Wikipedia-伊勢神宮には、次のように記されている。
天孫・邇邇芸命が降臨し、天照大御神は三種の神器を授けられ、その一つ八咫鏡に、「吾が児、此の 宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀)」として、天照大御神のご神霊がこめられる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇のお側に置かれ、天皇自らが観察されていた。八咫鏡は、第10代崇神天皇の御代に、大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫に祀らせた。
『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である。この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。
なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳』(とゆけじんぐうぎしきちょう)[11]によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。
天孫降臨の意味についても諸説あるし、八咫鏡をどう捉えるかについてもさまざまな見方があろう。
⇒2012年12月16日 (日):天孫降臨の年代と意味/やまとの謎(71)
⇒2012年12月25日 (火):天孫降臨と藤原不比等のプロジェクト/やまとの謎(73)
⇒2013年1月 4日 (金):天孫降臨と高千穂論争/やまとの謎(75)
⇒2008年11月30日 (日):邪馬台国に憑かれた人…①原田大六と「東遷」論
川添氏は、『続日本紀』文武2年12月の「多気大神宮を度会郡に遷す」の条項が、事実上伊勢神宮の創建を示すものではないか、としている。
古代史学界で川添説がどう位置づけられているかは知らないが、日本という国の事実上の成立が白村江の敗戦によるものだとすれば、文武朝は重要なエポックだったはずである。
⇒2009年8月29日 (土):白村江敗戦のもたらしたもの
それは、白鳳時代という有名な割に実体の不明な時代の理解にも係わってくると思われる。
⇒2008年1月 6日 (日:「白鳳」の由来
⇒2008年2月20日 (水):白鳳年号について
⇒2008年1月 8日 (火):「白鳳」年号の位置づけ
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