不動の人・川上哲治さん/追悼(39)
川上哲治さんが28日亡くなった。
「打撃の神様」「V9監督」として知られた元巨人監督の川上哲治(かわかみ・てつはる)氏が28日午後4時58分に老衰のため東京都稲城市の病院で死去していたことが30日、分かった。93歳だった。葬儀は近親者のみで行った。巨人の強打者として終戦直後の国民に夢と希望を与え、監督としては65年から73年まで不滅のV9を達成した。選手と監督の両方で燦然(さんぜん)と輝く成績を残した川上氏。日本シリーズ中の訃報に関係者は深い悲しみに包まれた。
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/31/kiji/K20131031006916130.html
一般には、ジャイアンツ「V9の監督」というイメージが強いのだろうが、私には子供の頃の「打撃の神様」の印象の方が強い。
しかし田舎育ちの少年だったので、「赤バット」も耳にしただけで、TVも含めて見たことはない。
川上さんが選手生活を終えたのは1958(昭和33)年だが、その頃はまだ一般家庭にはTVは普及していなかった。
TVが家庭に普及したのは、1959(昭和34)年4月10日、皇太子(今上天皇)と正田美智子さん(皇后陛下)の御成婚であったと言われるが、1963(昭和38)年においても、TV受像機の普及台数は白黒1,600万台、カラーはわずか5万台ほどだった。
この年私は大学に入ったが、もちろんわが家にはTVはなく、叔父の家で、日米間テレビ宇宙中継の実験放送中にケネディ大統領の暗殺現場が中継されたのを見たのが、強く印象に残っている。
それまで、TV視聴は近所の家や電気屋さんということになるが、それにしてもモノクロだったから、「赤バット」の印象はない。
「ボールが止まって見えた」が、語録として有名である。
30歳の頃というから、1950年頃のことである。
「雑念を払って球を打つことだけに精神を集中する。疲れてもなお打つ。没入し切った時、球が見えてきた」と伝えられる。
武芸者・兵法者のような言葉に、チャンバラ好きの少年たちは憧れた。
監督時代には余りいいイメージが残っていない。
「V9」は、1965年から1973年までであり、長期的なチーム作りの成果というべきであろう。
以来、「V2」すら成し得ていないのだから、偉業には違いない。
しかし、私には、金にあかせて有力・有望選手を集めて、という印象が拭えなかった。
選手の育成という面でも、広岡達朗氏との確執などが伝えられた。
V9の途次で発生した「湯口事件」もマイナスイメージであった。
Wikipedia-湯口事件等を参照して概略を記述すれば、以下のような経緯である。
1970年のドラフトで、ジャイアンツは岐阜短期大学附属高等学校の湯口敏彦を指名し獲得した。
湯口はこの年の「高校三羽烏」に数えられ、プロでの活躍も期待されていた。
高校3年の1970年には春夏連続して甲子園に出場しており、優勝こそ出来なかったが、7試合に登板し61奪三振、防御率1.35という抜群の成績を残した。
入団直後は二軍で育成するチームの方針から二軍での調整が続いた。
1年目は肘の故障もあり二軍でもパッとせず、2年目のシーズン終了後の1972年11月23日、ファン感謝デーの紅白戦で、体調が優れない中で登板したが、打者一巡・2ホームランの滅多打ちに遭い、これにより、川上監督をはじめ二軍監督の中尾碩志からも激しく叱責された。
その後うつ病を発症し次第に悪化していった。
1973年2月20日、宮崎で行われていた春季キャンプ中に異常な言動が昂進し、湯口をキャンプから脱退させ、強制送還となった。
球団は3月に入ってから、内規により入院費の支給を打ち切った。
3月22日夕刻、湯口は病院のベッドで変死体となって発見された。
球団・病院は「湯口敏彦投手の死因は心臓麻痺である」と発表したが、湯口の死因を巡ってマスコミから「湯口は自殺し、その原因は球団にあるのではないか」と非難されることとなった。
監督だった川上は、湯口が死去した際に声明を発表したが、この時「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」と発言した。
この発言が決定打となり、巨人はマスコミから激しいバッシング報道を受けた。
週刊ポストは湯口の急死を「事件」と報じ、死から約2週間後「巨人軍・湯口敏彦投手の死は自殺だった」という特集記事を掲載した。
何とも悲惨というか陰鬱な経緯である。
真相は分からない。
しかし、こうした報道に接するうちに、川上監督に対して冷徹というイメージが付与されたのだろう。
あるいは、V9という偉業と冷徹さはセットだったのかも知れない。
しかし、結果として、私を含め少なからぬ人に、アンチジャイアンツの心情が醸成されていったのではないか。
元中日投手の杉下茂氏の語るエピソードである。
杉下氏が明大在学時、川上氏はすでに「神様」と呼ばれる存在。プロ入りして対戦したときに印象に残ったのは、打席での姿勢だった。一度打席に入ったら二度と外さず、「受けて立つ、いつでも来い、という感じだった」。
http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2013103000983
この言葉が象徴するように、不動という言葉が相応しい人であろう。
動かざること山の如し。
大きな存在であったことは間違いない。
メジャーリーグで、上原、田沢両選手の活躍で、レッドソックスがチャンピオンになり、日本のプロ野球では日本選手権で巨人と楽天が伯仲する展開のさ中に永眠するというのも、野球一筋の人生に相応しいように感じる。
合掌。
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