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2013年10月15日 (火)

チッソと水俣病/ブランド・企業論(4)

「水銀に関する水俣条約」(the Minamata Convention on Mercury:「水銀条約」「水俣条約」)が国際会議で採択され、水銀被害の無い社会へのスタートが切られた。
しかし、本当に被害が根絶されるまでには、なお多くの課題を解決していかなければならないと思われる。
⇒2013年10月11日 (金):「水俣条約」の意義と課題/花づな列島復興のためのメモ(267)

水俣病の原因者であるチッソ株式会社とは、いかなる企業であるか?
Wikipedia-チッソを見てみよう。

戦後の高度成長期に、水俣病を引き起こしたことで知られる。旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業、センコー、日本ガスなどの母体企業でもある。
同社が有していた事業部門を2011年3月31日をもって中核子会社のJNCに移管したことで、同社は水俣病の補償業務を専業とする会社となった。
主な子会社・関連会社として、JNC、JNC石油化学(旧:チッソ石油化学)(事業所:千葉県市原市)、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、JNCファイバーズ(旧:チッソポリプロ繊維・事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがある。また、日本国内の合弁相手に吉野石膏や同社と同根である旭化成がある。

上記の抜粋から分かることは、水俣病を起こしたことを別として、旭化成、積水化学工業、信越化学工業などの母体企業であること、JNCという商号と関連が深いことであろうか。
ちなみに、JNCとは、Japan New Chissoの略である。
つまり、新日本窒素である。
1965(昭和40)年にチッソ株式会社に改称するまでの商号が、新日本窒素肥料株式会社(1950(昭和25)年)だった。

沿革は古く、1906(明治39)年に遡る。
曾木電気株式会社設立として野口遵により設立された。
1908(明治41)年、日本窒素肥料株式会社に改称され、水俣工場で空中窒素固定法による石灰窒素の製造を開始した。
石灰窒素、合成アンモニア、塩化ビニル、酢酸ビニル、ポリエチレン、合成オクタノールなどを日本で最初に事業化し、「技術のチッソ」として、イノベーティブな企業として知られていた。

日本化学工業史における日本窒素肥料株式会社成立の意義は、電気化学工業の出発点をなしたことである。
上記の沿革の曾木電気株式会社は、鹿児島県伊佐郡大口村で設立され、1907(明治40)年に、野口遵と藤山常一が中心となって設立された日本カーバイド商会が合併して、日本窒素肥料株式会社になった。
日窒は、1909(明治42)年に水俣工場を完成させて、石灰窒素の生産を開始した。
1914(大正3)年に完成した八代郡鏡町の鏡工場が、石灰窒素と硫安を大量生産する能力を備え、それが日窒発展の原動力になった。

野口遵は、第1次世界大戦勃発直後に、水俣新工場の建設を決定し、1918(大正7)年に、石灰窒素・変成硫安の一貫生産設備が完成し、鏡工場と水俣新工場の両工場によって、日窒は巨大な超過利潤を蓄積した。
1921(大正10)年、野口遵は、アンモニア合成法を見学し、特許権購入の契約締結をした。
アンモニア合成は、1923(大正12)年に宮崎県東臼杵郡恒富村の延岡工場で稼動を始め、水俣工場も合成硫安生産工場に切り替えられた。
合成硫安技術は、水素ガスを電気分解に求めるもので、電気化学工業としての性格を持ち、日窒は、所要電力の確保のために電源開発を進めた。
また、1926(昭和元)年には朝鮮水電株式会社を設立し、翌年には朝鮮窒素肥料株式会社を設立した。
⇒2009年7月25日 (土):チッソとはどういう会社だったのか

水俣工場は、1927(昭和2)年に稼働をはじめた合成酢酸工場によって、有機合成工場に特化した。
第1次世界大戦中に、ドイツで成立したアセチレン系有機合成工業は、カーバイドの新しい用途と工業技術体系を生み出した。
カーバイドより発生するアセチレンから、アセトアルデヒド(CH3CHO)を作り、さらにアセトアルデヒドを中間原料として、酢酸、無水酢酸、アセトン、ブタノールなどを生産するもので、水俣工場はアセチレン系有機合成化学の拠点として位置づけられることになったのである。
⇒2009年7月26日 (日):日本の化学工業における日窒(チッソ)の先行性

加藤邦興『日本公害論』青木書店(7704)によれば、日窒水俣工場は、日本の化学工業全体との関係で言えば、実験工場的位置づけを持っていた。
つまり、日窒はパイオニア性を有する企業であったが、それは三井、三菱、住友などの財閥系企業が負担すべきリスクを、肩代わりして負ったということである。

なお、チッソ歴代社長の1人として、皇太子妃・雅子妃殿下の祖父の江頭豊がいる。
1964(昭和39)年、新日本窒素肥料の取締役社長に就任、1971(昭和46年)、チッソ社長を退任し、会長に就任している。
後藤田正晴は皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚について、患者の憎悪や国民の不満が皇室に向くことを危惧し、「皇居に莚旗が立つ」と反対した。
しかし水俣病患者から皇室に抗議行動がされたことはない。
Wikipedia-水俣病参照

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