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2013年10月 1日 (火)

社会派の長編作家・山崎豊子さん/追悼(36)

作家の山崎豊子さんが、9月29日心不全で亡くなった。88歳だった。
社会性のあるテーマに切り込んだ長編小説が得意だった。
「日本のバルザック」などとも呼ばれることがあった。

日本経済新聞のコラム「春秋」に直木賞を受賞したときの逸話が紹介されている。

毎日新聞大阪本社の記者をしていた山崎豊子さんが「花のれん」で直木賞をとったとき、かつて上司だった井上靖からお祝いの言葉が速達で届いた。「直木賞受賞おめでとう/橋は焼かれた」。もう後戻りできない。その一言に覚悟を決め、山崎さんは新聞社を辞めた。▼「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」「沈まぬ太陽」。88歳で死去した山崎さんが残した小説のタイトルを並べるだけで、社会や組織の矛盾や暗部、つまりは戦後日本の実相そのものが、主人公の名や場面場面とともに浮かんでくる。それだけ読まれ、あるいは映画やテレビドラマにも繰り返しなったということだ。
日本経済新聞「春秋」10月1日

私は、通読したのは『不毛地帯』くらいしかなく、あとは映画やTVドラマを見て楽しんだようないい加減な読者でしかない。
しかし、『不毛地帯』の印象は強かった。
『不毛地帯』は、大本営参謀でシベリアに抑留され、商社マンとして活躍する壱岐正という人物が主人公である。
と書けば、誰でもあの瀬島龍三氏がモデルと思うだろう。
⇒2007年9月 5日 (水):瀬島龍三氏の死/追悼(1)

ところが、山崎さんは、主人公のモデルが瀬島氏であるという通説を否定する。
瀬島氏から原型だけをとり、自分が造型したのであって、瀬島氏がモデルではないと言う。

 山崎さんは、戦時中の経歴や自身について語りたがらない瀬島氏へ度々取材を試みたが、断られ続けた。ついに瀬島氏も「あなたの根気に負けた。そのかわり、負けたからにはちゃんと話します」と取材に応じたという。
 インタビューは100時間以上に及んだが、どうしても瀬島氏が答えてくれないことがあった。関東軍の将校が、最初にソ連軍と出会う場面だ。この席で、悪名高いシベリア抑留がソ連軍との間で密かに交わされたのではないかという疑問は、今でも歴史学者の中では根強く残る。
 「日本の捕虜をシベリア鉄道の枕木を一本一本敷くように、兵器として使いたいというソ連軍の申し出に関東軍は了承したのか」と聞くと、瀬島氏は「そんな覚えはない」。さらに踏み込もうとすると、「辛いから思い出したくない。これ以上いいたくない」を繰り返したという。
 「その点は昭和史をやっていられる方は疑問に思われるんですが、私も同様に疑問に思います。瀬島さんは、非常に頭のよい方ですから嘘をつくようなバカなことはなさいません。しかし、シベリア抑留の歴史的事実は話してほしかった」
http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_09/g2007090525_all.html

瀬島氏の「書かれざる(言わざる)部分」をどう評価するか?
それは戦後に亡くなられた戦争犠牲者をどう弔うかという問題でもある。
私は畑違いの分野に転職してどう過ごすべきか悩んでいた時、創業オーナーが「壱岐正のようにやってくれれば・・・」と語ったことがある。
それは、瀬島氏のように、ということとほとんど同義だったと思うが、残念ながら私にはその期待に応えるだけの才がないことは、自分が一番分かっていた。

『不毛地帯』は、1973年~78年にかけてサンデー毎日で連載されて人気を呼び、76年には仲代達矢主演で映画化されている。
私は、新興のその会社で、要するに企業参謀の役割を期待されているのだろうと理解した。
大前研一氏が『企業参謀』プレジデント社を出したのが1975年であるから、企業参謀という言葉がようやく認知された頃のことである。

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