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2013年9月 3日 (火)

市原市の稲荷台遺跡/やまとの謎(87)

先日、35、6歳の知人が、子供たちと某高原に出かけて、「生まれて初めて天の川を見た」と言ったので驚いた。
福島県の出身で、別に大都会で生まれ育ったわけではない。
彼のもの心がついたのは、1985年頃であろうか?
もうその頃は、地方都市も結構明るかったということだろう。
私が子供の頃はごく普通に天の川は夏の空に見えた。
田舎に転居したのが1970年代末であり、その頃も良く見えた記憶があるので、1980年代前半に社会生活の大きな変容があったと考えられる。

JR東海の広報誌「ひととき」の9月号の「アキツシマの夢」は、酒井育代さんという人の『北斗七星に祈りを-神秘の稲荷台遺跡』である。
同遺跡は、五井駅からバスで行く。
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私は学校を卒業して初めて就職したのが五井駅の隣の八幡宿という駅だったので懐かしい。
五井駅は小湊鐵道の始発駅である。
小湊鐵道線は、非電化・単線の路線で近代化されていないため、首都圏にありながら駅舎や車両など古くからの雰囲気を残している。
そのため近年ではテレビコマーシャルやテレビドラマ、カラオケ等の撮影で使用されることが多いという。
私は、後年、何回か養老渓谷付近のゴルフ場でプレーしたことがある。

稲荷台古墳群は、5世紀から6世紀頃の築造とされる13基の円墳が確認されている。
1号墳からは、「王賜」の銘の入った鉄剣が出土している。
有名なさきたま稲荷山古墳の鉄剣より古いという。

稲荷台古墳からは、呪術的な祭祀を窺わせる遺物が出土しているが、誰が何のための祭祀を行ったのか不明のようだ。
千葉県教委庁の西野雅人氏は、「稲荷山古墳群が北斗七星に見たてられた祭祀が行われていた」という説を発表している。
その理由について、西野氏の講演を聞いた人のサイトに要領よくまとめられている。

 これまでの議論からその祭祀は「せきてん」と言って孔子とその弟子を祭る儀式である可能性と、「こうし」と言って円丘上で犠牲獣をささげ、天と先帝を祭る儀式の可能性があげられた。
 しかしながら、「せきてん」であれば高級な緑釉土器が大量に出土した理由がわからないし、わざわざ古墳の上で行われた理由が説明できない。
 「こうし」であれば、日本で過去3回しか行われていない重要な儀式が、都から遠く離れた上総国で行われた理由が説明できない。
 
 出土した墨書土器の「丸」の字は円丘、「丸上」は円丘上を意味し円丘祭祀に使われたと推定される。
 「繰り返し祭礼・儀式が行われたのはこの地が何か特別な場所であったに違い無い。」と考えて地図を見ると・・・。
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 古墳群2号-5号-6号-7号-9号-3号-4号の7基の円墳を直線で結ぶと北斗七星によく似ている。同様の星の並びはキトラ古墳の石室天井壁画にも見られる。
 また、地図上で1号古墳-国分尼寺金堂-国分寺7重搭と、3号古墳-国分尼寺金堂-国分寺金堂を結んだ線は一直線になる。これは偶然の一致とは考えられない。
 このことから、当時の人々に北斗七星信仰があり、古墳が北斗七星状に並んでいることを知っていて国分尼寺と国分寺を建設したのではないかという仮説が成り立つ。天皇位の象徴たる北辰を輔弼する北斗の生地が国分寺・国分尼寺と完璧に並ぶ様は鎮護国家を具現したものとして特別視されていたに違いない。
 それを裏付けるように、国分寺建立前後から平安初期にかけて、国司長官に有力者の名前が見える。また、下総や常陸の国司に武官が多いのに比較して、上総国司には文官が圧倒的に多い。これは武力ではなく別の役割を期待されていた可能性がある。その後平城朝まで、有力者が上総国司を務めている。
http://akira52seki.blog130.fc2.com/blog-entry-99.html

9世紀後半から大規模な宗教施設化していく背景には、相次ぐ俘囚の反乱や天変地異があった。
⇒2007年10月 1日 (月):歴史の転回点
現在はゴルフ場とコンビナートのイメージの市原市にも、やはり深い歴史の痕が刻まれていたのだ。

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