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2013年8月14日 (水)

ひっそりとした死・高橋たか子さん/追悼(33)

作家の高橋たか子さんが亡くなっていた。
マスコミにも大きく報じられることなく(と思う)、ひっそりとした死だった。

 作家の故高橋和巳の妻で、「ロンリー・ウーマン」「怒りの子」など女性の内面を追求した観念小説で知られる作家の高橋たか子(たかはし・たかこ、本名・和子=たかこ)さんが12日、心不全のため死去した。81歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は著作権代理人の鈴木喜久男さん。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0718/TKY201307180143.html

12日というのは、7月のことであるから1月前である。
私は、東京新聞の今日の「大波小波」欄で初めて知った。
積極的な読者ではなかったが、夫君だった高橋和巳の小説と評論は、学生の頃比較的熱心な読者だった。
大学に入りたての頃、文藝賞だったかを受賞した『悲の器』の観念の劇ともいうべき思弁的な内容に衝撃を受けた。

たたか子夫人の『高橋和巳の思い出』は、1971年に彼が亡くなって間もなく出版されたように思う。
その中の、「和巳は家では「自閉症の狂人」だった」という文章は有名である。
高橋和巳は確かにそうだろうな、と頷いて読んだ記憶がある。
なお、この「自閉症」の用法は、今日では誤りであるとされている。

その後、文芸誌に掲載されたたか子夫人の何篇かの作品は目にしているはずである。
しかし、観念が先行しているような感じで、私の好みには合わなかったように思う。
私の友人の中には傾倒に近い思い入れを持って、作品に接していた人もいてちょっと違和感があった。
カトリックの洗礼を受け、修道生活を送った時期もあるというが、その方面も疎いので、結局それきりになった。

いま関連記事を検索してみると、結婚後は鎌倉に居を構えていた。
1967年に和巳が京都大学助教授に就任して京都に移住した時、たか子は鎌倉に残り、別居生活となった。
たか子の故郷である京都の土地柄に女性蔑視的風潮があることが理由だったと言われる。
しかし、京都がことさらに女性蔑視的であったのかどうか?

和巳は、全共闘旋風が吹き荒れる中で、その嵐の渦中に入り込んで抜き差しならない状態になり、結果として「断腸」のような形で死を迎えることになった。
和巳に相応しい死の形とは思ったが、もし長生きしていたらどのような作家になっていたであろうか?
あるいは、学究生活に戻り、中国文学者として業績を挙げていたのだろうか?

いずれにせよ、たか子夫人の死により、和巳もあの世で、やっと安息の時を迎えるのかも知れないなと、死後の世界を信じていない私が、しばしそんな思いに耽った。
謹んで冥福を祈りたい。
合掌。

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