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2013年8月 3日 (土)

藤原仲麻呂の復権?/やまとの謎(86)

藤原仲麻呂という人物のイメージは、一般的にはあまり良くないのではなかろうか?
Wikipedida-藤原仲麻呂の乱は、次のように記述している。

藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代に起きた叛乱。恵美押勝の乱ともいう。孝謙太上天皇・道鏡と対立した大師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。

仲麻呂は、クーデターに失敗した男ということになる。
JR東海の広報誌「ひととき」に、「アキツシマの夢」という古代史をテーマにした連載記事がある。
2013年8月号は、恵美嘉樹『仲麻呂は逆賊か』と題されて、この「乱」のことを扱っている。

乱の関係者の相関図は次図のようである。
Ws000011_2藤原仲麻呂は、不比等の子・四子の次の世代である。
不比等の死後、政治の実権は長屋王にあったが、「長屋王の変」で自害し、聖武天皇と光明皇后、および藤原四兄弟の時代となった。
藤原四兄弟とは、以下の不比等の4人の息子のことである。
・藤原武智麻呂(ムチマロ) 680~737(藤原南家)
・藤原房前(フササキ) 681~737(藤原北家)
・藤原宇合(ウマカイ) 694~737(藤原式家)
・藤原麻呂(マロ) 695~737(藤原京家)
藤原四子は、流行病に罹患し、次々と死んでしまう。
⇒2007年9月15日 (土):藤原四兄弟と中将姫

藤原仲麻呂は、叔母の光明皇后の信任を得て、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。
天平勝宝9年(757年)3月、当時皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、大炊王を皇太子に立てることに成功する。
天平宝字2年(758年)8月、大炊王(淳仁天皇)が即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられる。
天平宝字4年(760年)1月にはついに人臣として史上初の大師(太政大臣)にまで登りつめた。

仲麻呂は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けたが、同年6月に光明子が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめる。
孝謙太上天皇が自分の病気を祈禱によって癒した道鏡を信任しはじめたことが、仲麻呂の運命を暗転させた。
仲麻呂は、淳仁を通じて孝謙に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これが孝謙を激怒させた。
天平宝字6年(762年)6月、孝謙は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言した。
孝謙の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に淳仁と押勝を抑圧するようになった。

仲麻呂が兵を集めていると聞いた孝謙は、淳仁から皇権の発動に必要な印と鈴(御璽と駅鈴)を回収させた(一説には淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたという)。
これを知った仲麻呂は、子息訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。
孝謙はただちに授刀少尉坂上苅田麻呂と授刀将曹牡鹿嶋足を派遣して、訓儒麻呂を射殺した。

孝謙は勅して、仲麻呂一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。
仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出し、近江国の国衙を目指した。
孝謙は当時造東大寺司長官であった吉備真備に仲麻呂誅伐を命じ、ただちに討伐軍が仲麻呂の後を追った。

真備は、東山道への進路を塞いだので、仲麻呂はやむなく子息辛加知が国司になっている越前国に入り再起をはかろうとした。
淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は、自派の皇族中納言氷上塩焼(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立した。
そして、奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。
ここに、2つの朝廷が並立した。

仲麻呂の反乱は、わずか8日で鎮圧されてしまう。
己の才覚をもって最高権力者になった男としては、いささかお粗末といえよう。

しかし、これを孝謙側が仕掛けたとみればどうだろうか?
明らかに準備不足だった仲麻呂と、十分な準備をしていた孝謙。
大勢を決したのが、日和見を決め込んでいた豪族たちが、印と鈴が孝謙にあることを見て、雪崩を打って孝謙側についた。
『続日本紀』は、孝謙が印と鈴を「収め」、仲麻呂が「奪おう」としたと書いてある。
しかし、淳仁のところにあったのであり、それを「奪った」のは孝謙であった。

歴史は勝者が記述する。
正史といえども、その辺りは注意して批判的に読む必要がある。
「乱」の関係地図は以下のようである。
Ws000010_2

約100年前の、壬申の乱の関連図が重なる。
壬申の乱も、近江朝側に攻められてやむを得ず大海人皇子が挙兵したことになっている。
しかし、近年は、周到に準備していたのは大海人側であったという見方が強い。
同様に、周到な準備は孝謙側にあったと考えられる。
クーデターを起こしたのは孝謙側であり、それは成功したのである。

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