祇園祭と災厄祓い/京都彼方此方(7)
連日の猛暑であるが、京都の夏も殊の外暑い。
祇園祭は14日が宵々々山、15日が宵々山、16日が宵山、そして17日が見せ場の山鉾巡行となる。
京都出身で3連休を実家で過ごした人の話では、やはり大変な人出のようである。
八坂神社への参詣は諦めたと言っていた。
京都八坂神社のお祭りである祇園祭は、疫病退散を祈願した祇園御霊会が始まりだそうである。
『方丈記』の養和の飢饉の項に、惨憺たる都(平安京)の様子が描かれている。
ついには笠を着て、足を隠し包み、立派な姿をした者、ひたすらに食料を求めて、家々を乞い歩く。途方(とほう)に暮れてさ迷いながら、歩くかと見ていれば、たちまちに倒れ伏せる。築地(ついじ)[屋根付きの土塀]にもたれ、あるいは道ばたに飢え死んだ者たちの、数さえ分からないくらいである。
取り捨てる方法も知らないので、腐敗した死臭は世に満ちあふれ、死人(しびと)の朽ちてゆく姿、そのありさま、目もあてられないことばかり。まして、賀茂(かも)の河原などには、馬や車の行き交う道さえないほど、遺体があふれている。あやしげな賤(しず)[労働に従事するような下層の者ども、身分の低い者、賤民(せんみん)]、山がつ[木こりなど山に生計を求める労働者]さえ力尽きて倒れ、薪さえ乏しくなりだせば、頼りどころを持たない人は、みずからの家を壊して、市に持ち出して売りつける。しかし、ひとりが持ち込んだだけの値(あたい)で、一日の命をつなぐことさえ出来ないのだ。
http://reservata.s123.coreserver.jp/kobun-houjouki/houjouki-gendai.htm
まさに地獄絵のような様である。
養和というのは、治承の後、寿永の前の元号で、慌ただしい改元のため1年足らずの元号である。
治承5年7月14日(ユリウス暦1181年8月25日) 改元
養和2年5月27日(ユリウス暦1182年6月29日) 寿永に改元
慌ただしい改元は、天変地異と疫病が続いたためである。
養和の飢饉というのは以下のように説明されている。
前年の1180年が極端に降水量が少ない年であり、旱魃により農産物の収穫量が激減、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。大量の餓死者の発生はもちろんのこと、土地を放棄する農民が多数発生した。地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した。
・・・・・・
こうした市中の混乱が、木曾義仲の活動(1180年挙兵、1183年上洛)を容易にする遠因となっていたことも考えられており、寿永2年(1183年)5月の砺波山の戦い(倶利伽羅峠の戦い)まで平氏・頼朝・義仲の三者鼎立の状況がつづいた背景としてもこの飢饉の発生が考えられる。
しかし、こうした状況のなかで入洛した義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたため、たちまち市民の支持を失ってしまった。
Wikipedia-養和の飢饉
祇園祭の由来を見てみよう。
貞観5年(西暦863年)に平安京の広大な庭園だった神泉苑で、仏教経典の読経、神楽・田楽や踊りなども行う御霊会が行われた。
しかし、疫病の流行は続いたため、貞観11年(西暦869年)に、インドの祇園精舎の疫病神「牛頭天王」を祀り、御霊を鎮めた。
やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために神輿渡御や神楽・田楽・花笠踊りや山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。
この神仏習合の御霊会が祇園御霊会で、祇園祭の起源とされる。
祇園御霊会祇園祭は応仁の乱や第二次世界大戦で一時中断したが、平安京から1000年以上も続いている。
現在のような山鉾は、桃山時代から江戸時代にかけ祇園囃子を奏で、形造られた。
中国、インド、ペルシャなどからシルクロードを経て持ち込まれたタペストリーや京都の金襴・西陣織などの懸装品、左甚五郎作などの優れた彫刻や精緻な欄縁金具などの工芸装飾品で豪華絢爛に飾られ、「動く美術館」と称される。
京都の国際性と先進性の歴史は古い。
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