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2013年7月10日 (水)

死の淵の人・イチエフ元所長吉田昌郎さん/追悼(31)

昨日書いたが、2011年3月の東京電力福島第一原発事故当時、同原発所長を務めていた吉田昌郎さんが、食道がんのため、東京都内の病院で亡くなった。

 吉田さんは1979年に東電に入社してから一貫して原子力畑を歩み、2010年6月に同原発所長に就任。事故発生後は原子炉の冷却や、炉内の圧力を下げるベントという作業などについて陣頭指揮を執っていたが、11年11月に食道がんが見つかり、翌月に所長を退いた。
 事故以降の被曝量は70ミリ・シーベルトで、東電は「医師の判断では、事故による被曝と食道がんとの因果関係はない」と説明する。
 吉田さんは12年7月に脳出血で緊急手術を受け、病院や自宅で療養していた。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130709-OYT1T00914.htm?from=ylist

上記記事によれば、吉田氏の病状は11年11月に見つかり翌月所長を退いたことになっており、私もそう思っていた。
ところが、事故発生時にはすでに病魔に冒されていたらしい。

吉田氏は2011年3月11日以降、病気を抱えたままで事故収束に向けて第一線に立ち続けた。休日に帰京する際は通院していたが、同年12月1日付で現場を離れがんの治療に専念していた。
・・・・・・
吉田氏は現場の最高責任者として首相官邸や本社との対立を恐れずに指揮を執り続けた。東電本社が「首相の了解が得られていない」として海水注入の中止を命じたのに対し、吉田氏はこの指示を無視して注水を継続し被害の拡大を防いだ。 
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MPNTC76K50Y801.html

もし、この記事の通りとすれば、自分の命を犠牲にして事故の拡大の防止に尽力したことになる。
Wikipedia-吉田昌郎 では、次のように書いている。

原子炉への海水注入の中断を求める東電本店の指示を無視し、独断で注入を続けるなど毅然とした態度が評価される一方、震災前に第1原発の津波対策の拡充を見送ったことが批判されることもある。事故後、「想定が甘かった部分がある。」と述べ、謝罪した。

事故の実相をもっとも良く知る人として、後世のためにもっと肉声を聞きたかった。
TVの報道では、自身が事故記録を整理している途中だったらしい。
もう少しの猶予はならなかったものかと思うし、ある意味で壮絶な戦死であり、原発事故関連死でもあるだろう。

以下は、7月9日最終更新のWikipedia-吉田昌郎 の<福島第一原子力発電所事故>の項の引用である。

  • 2008年に東京電力社内で、福島第一原子力発電所に想定を大きく超える津波が来る可能性を示す評価結果が得られた際、原発設備を統括する本店の原子力設備管理部が、現実には「あり得ない」と判断して動かず、建屋や重要機器への浸水を防ぐ対策が講じられなかった。その時の原子力設備管理部長が吉田である。
  • 東日本大震災による福島第一原子力発電所事故では事故発生当時の福島第一原子力発電所所長として対応に当たった。当時原子力安全委員会委員長を務めていた班目春樹東京大学大学院工学系研究科教授は、所長の吉田が東京電力本店の命令に反して注水作業を続けていなければ、東北・関東は人の住めない地域になっていただろうとする。
  • 3月12日、海水注入開始後に、開始したことを知らされていない首相の菅直人が海水注入による再臨界の可能性について会議で取り上げたことを受けて、官邸の了承を得ず海水注入を開始したことを問題視した東京電力フェローの武黒一郎は、吉田に海水注入の中止を命じた。吉田はこの命令を受領しておきながら、独断で続行を決意し、現場の作業員に「今から言うことを聞くな」と前置きしたうえで作業員に「注水停止」を命令し、実際には注水を継続させた。(注水継続の根拠たるデータ等の客観的証拠は未だ示されず、あくまでも吉田自身の証言に基づくマスコミ報道による。)証言については、直前のテレビ会議で武黒一郎らなどの注水停止命令に対し吉田は継続を一言も主張もせず、その後、注水を停止したと長らく証言し、国際原子力機関(IAEA)の査察団が来日した際に注水を継続していたと翻意し、客観的データもなくその後、証言が二転三転したと信用性に疑問も呈されている。吉田は、翻意の理由を官邸や東電本社は信用できず、国際調査団なら信用できると最終的に述べているが、不自然さは残るとされている。またメルトダウンが起きた後なので、証言を仮に注水停止したとしていても継続していたと言った方が得だと言う批判も残っている。
    • 会社内では普段「親分肌」、「温厚」な性格だとされていたが、原発事故の発生後は感情を表に出すことが増えた。4月上旬、1号機の格納容器が水素爆発するのを防ぐため、テレビ会議で本店から窒素ガス注入を指示された際には、「やってられんわ! そんな危険なこと、作業員にさせられるか」と上層部に関西弁で声を荒らげた。翌日には抗議の意味を込めてサングラス姿でテレビ会議に出席し、役員らを驚かせた。一方で、免震重要棟の廊下で眠る作業員に「もう帰れ」と声をかけるなど部下思いのため、現場の信望は厚い。以前は原発のスタッフを近隣の街に連れ出し、酒を酌み交わすことも多かったという。
    • 2012年6月11日、福島原発告訴団が東電役員等33人を業務上過失致死傷と公害犯罪処罰法違反の疑いで刑事告訴したが、そのなかに吉田も含まれている。
    • 2011年4月4日夜に吉田が放射性汚染水の海洋に放出する「ゴーサイン」を出した内容を含んだ社内テレビ会議映像が2012年11月30日に公開されたが、放出までの政府と東電の経緯は含まれておらず、詳細は不明のままである。

私は、門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』PHP研究所(1211)を読んだ程度で、吉田氏の実像を知る由もない。
しかし、上記Wikipedia-吉田昌郎 に出てくる、斑目春樹、菅直人、武黒一郎などの諸氏との対比において、人間的魅力に富んでいたような印象を受ける。

この人間的魅力とは何だろうか?
幕末維新史における西郷隆盛のような存在である。
坂本竜馬や高杉晋作に自身を擬する政治家は多いが、人望において西郷を凌駕した志士はいないようである。
民主党政権に決定的に欠けていた存在であろうが、人間的魅力を分析的に捉えることは難しい。

気になるのは、2012年7月の脳出血の発症である。
極限的なストレスが原因であろうとは推測できるが、因果関係を証明することはできないだろう。
過労死がなかなか労災認定されないのと同じことである。

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コメント

まさに戦死だと思われました。
どんな手記が書き綴られていたのでしょうか。

投稿: kimion20002000 | 2013年7月15日 (月) 13時50分

kimion20002000様

実像は分かりませんが、いろいろ書かれているのを読む限りでは、最近は少なくなった情に篤いタイプの人だったようですね。現場は優れていても、上層部(東電、官邸・・・)は・・・、というのは先の戦争と同じような構図ですね。

投稿: 夢幻亭 | 2013年7月16日 (火) 21時46分

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