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2013年6月 6日 (木)

「いき」の構造の「見える化」久保田万太郎/私撰アンソロジー(23)

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6月2日の東京新聞の「東京歌壇」欄の佐々木幸綱選に、次の歌が選ばれていた。

傘雨忌の神楽坂ゆく宵灯江戸の名残を映すひととき

神奈川県平塚市 升永昭夫
(評)傘雨忌は久保田万太郎の忌日で五月六日。万太郎は、劇作家、小説家でもあったが、レトロな俳句で知られる俳人でもあった。

私は、久保田万太郎の本業(?)である戯曲や小説を読んだ記憶はない。
ただ、何人かの傘雨忌に因んだ俳句や、小島政二郎『俳句の天才―久保田万太郎』 彌生書房(1997年7月) などを通して、万太郎の句に自分の考える俳句の理想形のようなものを感じている。
といっても、俳句の実作を試みるわけではないので、あくまでも「何となく」である。

その理想形を言葉にしてみるというのも野暮なことだが、「巧まざる感じの情緒・心情の表出」とでも言えようか。
「巧まざる感じ」というのは、要するにごく自然なように、ということであって、俳句が文芸作品である以上、巧んで作られるものであることは間違いないだろう。
実際に小島政二郎の上掲書の中に、次のような逸話が紹介されている。

戦争中の話である。
小説家が何人かで陸軍病院へ慰問に行った。
相手は、病気や怪我をしている兵隊である。
万太郎が小島に聞いた。
「小島君、一体どんなことを喋ったらいいんだ?」

病院生活の慰めとして俳句は格好のものだろうから、俳句の作り方の初歩の話がいいんではないか。
万太郎は演壇に上がるとすぐに、窓の外に見える庭に視線を向けるように聴衆に要求した。
そして、何に着目するかは自由であるが、自分は藤の花に注目しようといって、即興で一句作って見せた。

五七五で季語も入っているし、「かな」という切れ字も使っている。
まあ、初心者が誰でも作りそうなものだった。
万太郎は、それがいかに「俳句らしいけれど、本物の俳句ではない」かということを説明する。
自分の作ったものだから、いくら悪口を言っても角が立たない。

そして、直ちに改作してみせる。
「これで幾らか俳句らしいものになりましたが、まだ俳句らしい、という欠陥が残っている」
そして、俳句らしさになっている余分なものを削除して見せる。

それによって、藤の花を見ていない人もひとりでに、藤の花が目に浮かんでくるようになる。
小島によると、それはいわゆる写生句だった。
万太郎は、「これでは不十分で、気持ちも一緒に感じさせる方がいい」としてさらに改作をして見せた。

小島は、「迂闊にも」と自ら書いているが、この改作の記録を筆記するのを忘れていた。
しかし、雰囲気は伝わってくる。

別の箇所で小島は次のように書いている。
「俳句の大道は写生であります」という虚子の言葉が信じられて、俳句が抒情詩ではなくなってしまっている。
そういう大勢の中で、抒情詩である俳句を作っていたのが万太郎だった。
Wikipedia-久保田万太郎には次のようにある。

久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年(明治22年)11月7日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、浅草生まれの大正から昭和にかけて活躍した俳人、小説家、劇作家。生粋の江戸っ子として伝統的な江戸言葉を駆使して下町情緒と古典落語を愛し、滅びゆく下町の人情を描いた。俳号は暮雨、傘雨。筆名は千野菊次郎。
1889年(明治22年)に浅草田原町三丁目に生まれる。生家は「久保勘」という袋物製造販売(足袋)を業とし、店にはいつも15、6人程の職人が働いていた。馬道の市立浅草尋常高等小学校を卒業し、東京府立第三中学校に進む。一級下に芥川龍之介が居た。

かつて吉本隆明は、『芥川竜之介の死』と題する文章の中で、芥川の不安は、下町の中産下層の出自とインテリゲンチャとしてそこから抜け出そうと葛藤した結果としての、神経的な不安だとした(『藝術的抵抗と挫折』未来社(1963)所収、初出1959年)。
⇒2012年1月 3日 (火):ぼんやりした不安の時代

万太郎と芥川の生まれ育った環境は同じだったのである。
それは巧まずして「いき」を体現している世界であった。
⇒2013年1月27日 (日):『「いき」の構造』に学ぶ概念規定の方法/知的生産の方法(33)

そして、「いき」という現象は、典型的にスキルというよりもセンスが問われる世界である。
万太郎俳句の「巧んでいるにもかかわらず、巧まざる感じ」は、まさにこのような「いき」の世界の1つの特質であるように思う。

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