丸山千枚田/紀伊半島探訪(3)
三重県熊野市(旧南牟婁郡紀和町)の丸山に、日本最大級の棚田がある。
日本の棚田百選の一つになっている。
まさに「耕して天に至る」という感じで、営々として積み重ねられた努力に頭が下がる。
熊野は基本的に山地だから、田畑は段々状になる。
丸山千枚田は、実際には高低差160m(標高90-250m)の谷合に、約1,340枚(7ha)の棚田があるといわれる。
丸山千枚田がいつ頃から存在したかは明らかではない。
関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が紀伊に移封され、慶長6年(1601年)に検地が行われたときには既に約2,240枚の棚田があったとされる。
その後、明治時代には11.3haにまで増え、戦後20数年間は、ほぼその規模で維持されてた。
しかし、昭和40年代半ば以降、過疎化・高齢化などにより耕作面積が減少した。
棚田経営は近くの銅鉱を中心とした鉱山での労働との兼業によって維持されていた。
しかし、1978年(昭和53年)に鉱山が閉山して労働力の流出を招いた。
後継者不足、高齢化]、減反政策、コメの価格低迷、機械化が難しいことなどの諸要因も重なり、耕作放棄が進み、1992年(平成4年)には530枚まで減少した。
この歴史的遺産を残すため、1993年(平成5年)に当時の紀和町の町長が音頭を取って、行政の支援を表明、同年8月に「丸山千枚田保存会」が結成された。
1994年(平成6年)には紀和町が日本初の千枚田を保存する「紀和町丸山千枚田条例」(平成6年紀和町条例第1号)を制定した。
紀和町は平成の大合併により、2005年(平成17年)11月1日に熊野市と合併し、消滅したが、条例は新・熊野市に引き継がれた。
棚田をできれば残したい、という気持ちは多くの人が共有するものであろう。
「全国棚田サミット」も開催されているし、第6次産業という言葉もある。
6次というのは、1次、2次、3次のすべてを取り込むということで、1+2+3と1×2×3が共に6になることに由来する。
⇒2010年10月30日 (土):第6次産業の可能性
私は、むかしネパールに行ったとき、棚田をみて、既視感のようなものを感じたことを覚えている。
http://ouac1949.world.coocan.jp/langtangreporta07.html
丸山千枚田の中には、1㎡以下のものもあるという。
ヒトの営みの形を示すものとして、保存に尽力している人たちに敬意を表したい。
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