徐福公園/紀伊半島探訪(2)
徐福は今から2200年ほど前、秦の始皇帝の命により、日本にやって来たと言われる。
Wikipedia-徐福によれば、次のようである。
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
日本では、青森県から鹿児島県に至るまで、徐福に関する伝承が残されている。
徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡などが知られている。
(財)新宮徐福協会「徐福公園パンフレット」)
南紀白浜に行ったついでに、速玉大社の近くにある徐福公園を訪ねた。
徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。
徐福はお茶をもたらしたと言われている。
徐福が持ち込んだ中国茶と抹茶用の茶の花粉が受粉して、静岡の藪北種が誕生して煎茶の品種になったと考えられている。
静岡と埼玉は絹の織物が地場産業であるが、徐福は養蚕の技術も伝来させている。
富士山の世界遺産登録対象から外されたということであるが、旧清水市の三保の松原は羽衣伝説で有名である。
⇒2011年10月 9日 (日):三保松原で薪能を観る
絹の透けた着物を織ることができたということであろう。
徐福の一族の女官の着物姿のことを指しているという説もある。
逗子市や葉山町に残る縄文時代末期の遺跡は、陶器や古墳の埋葬方式から観て、徐福たちの居住跡であるといわれる。
遺構から出土した漁具や水深測量の石球は、中国の徐福村の出土品と形状が酷似しているそうである。
徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。
波田須駅1.5kmのところに徐福の宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。
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