« 東福寺の「青々とした緑」/京都彼方此方(6) | トップページ | 鴨長明『方丈記』/私撰アンソロジー(21) »

2013年5月10日 (金)

橋杭岩と宝永地震/紀伊半島探訪(4)

和歌山県東牟婁郡串本町に、橋杭岩(はしくいいわ)という景勝地がある。
Rimg02402

名前の通り、岩が直線上に立ち並ぶ姿が、橋の杭のように見える。
潮岬の近くで、同所の道の駅は、本州最南端になるそうである。
Photo

Nankidsc_0148_20130429183641s
http://bochibochikuroshio.blog137.fc2.com/

お定まりの弘法大師伝説がある。
弘法大師と天の邪鬼(上のマークの写真のキャラクター)が熊野地方を旅したときのことである。
天の邪鬼が弘法大師に、チャレンジした。

 「弘法さん、大島はご覧の通り海中の離れ島で、天気の悪い日には串本との交通が絶え島の人は大変困るそうですが、我々はひとつ大島と陸地との間に橋を架けてやろうじゃありませんか。」天の邪鬼が誘う。
「それが良い、それが良い。」と弘法大師。
 「ところで二人いっぺんに仕事するのもおもしろくない。一晩と時間を限って架けくらべをしましょう。」
天の邪鬼は、「いかに偉い弘法大師でも、まさか一夜で架けることはできまい。」と考えたのだ。

夜になって、弘法大師が橋を架けることになった。
弘法大師は、山から巨岩を担いできて海中に立てている。
一晩あれば、十分橋が架かるだろうと、天の邪鬼は焦った。
そして何か邪魔する方法はないかと考えた末、大声で鶏の鳴き真似をした。
それを聞いた弘法大師は、本当に夜が明けたのだと思ってついに仕事を中止した。
そのときの橋杭の巨岩が現在も残っている、という話である。

橋杭岩に転がっている岩の中には、岩のそそり立つところからかなり遠くのものもある。
これらの岩は、宝永地震で起こった大きな津波によってそこまで転がったのではないか、と推測されている。
湿ったところを好む植物・生物が死滅し、化石になったものが表面上に残っていて、それが宝永地震の起こった1700年代であることが分かった。
また、散らばっている岩が動くのには秒速4メートル以上の速い流れ(流速)が必要とされ、これもこの地域で頻繁に襲来する台風から起こる波や同じく震源域に近い東南海が震源の単独地震を想定して計算された流速ではなく、東海・東南海・南海地震の連動型であった宝永地震を想定して計算された流速と一致している。
Wikipedia-橋杭岩

なお、宝永地震はWikipediaでは次のように説明されている。

宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、遠州灘沖から紀伊半島沖(北緯33.2度、東経135.9度 [注 1])を震源として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされてきた。世にいう宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)、あるいは宝永大地震(ほうえいおおじしん)とも呼ばれ、地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる。
南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、慶長9年(1605年)の慶長地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震および安政南海地震が知られている。また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた関東地震の一つである元禄地震が発生している。

それにしても、地震や津波は人知を超えているのではなかろうか。

|

« 東福寺の「青々とした緑」/京都彼方此方(6) | トップページ | 鴨長明『方丈記』/私撰アンソロジー(21) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

紀伊半島探訪」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 橋杭岩と宝永地震/紀伊半島探訪(4):

« 東福寺の「青々とした緑」/京都彼方此方(6) | トップページ | 鴨長明『方丈記』/私撰アンソロジー(21) »