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2013年5月 7日 (火)

「見立て」の効用/知的生産の方法(53)

佐藤可士和『佐藤可士和のクリエイティブシンキング』日本経済新聞社(2010年6月)に、「見立ての習慣、身につけよう-比喩することで本質が伝わる」という項目がある。
佐藤さんによれば、茶の湯の世界では、元来は和歌などの文芸で使われていた「見立ての手法」を取り入れてきた。
「見立て」の精神は、茶の湯の美学の核であるという。

「見立て」とは、本来「見て、選ぶ」ということである。
例えば、着物の柄を「見立てる」というように用いる。
転じて、医者が病名を特定することを「見立てる」という。
例えば、彼が鼻水を流しているのは花粉症であって、風邪ではないと診断することが「見立て」である。

さらにそこから、「なぞらえる」という用法が生まれた。
「雪を花に」「見立てる」という使い方である。
あるもの(雪)を他のもの(花)になぞらえることであるが、それを意識的に利用したのが例えば作庭の手法である。

磯崎新『見立ての手法―日本的空間の読解』鹿島出版会(1990年8月)によれば、日本の庭園は、池泉の庭の池も白砂を敷つめた枯山水の庭も、大海を表現している場合が多いといわれる。
例えば、有名な竜安寺の石庭は、縦横12m×24mの長方形の中に白砂が敷つめられ、15個の石が5組に分けられて点在している。
この石組が、西欧の名画の構図と同じく黄金分割線上に配されているという。
その石の組み方自身、デザイン論的に興味をそそられるところでもあるが、この庭に禅的なものを含め、様々な説明・解釈が行われてきている。

われわれは、往々にして変化流動し捉えどころのない状況に直面する。
その混沌とした状況は、そのままでは思考をめぐらすことが困難であり、そこに何らかの「形」を与えること、すなわち“in-form”することが必要である。
そのための有力な手段が言葉であり、特に,複雑で捉えどころのない事象を分かりやすく認識する工夫が、馴染み易いモノに「見立て」る方法である。

例えば、流動的・可変的な事象は「流れ」に見立てられることが多く、御可能性が限られている事象は、自然現象に見立てられることが多い。
典型としては、この世の事象や人の運命を河川との関係で捉える場合である。
例えば『方丈記』では「ゆくかわの流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とこの世の変転するさまを描いている。
Photo_3
https://www.jpmorganasset.co.jp/promotion/column/025.html

また、マキュアベリは、運命を「破壊的な川」に喩えているという。
その猛威は「洪水」のようであり、「あらゆる人々はこの猛威に屈し、踏み止まることもできずに逃亡する」が、人間は、川が「平静な時に堤防や堰を築いて防御策を施すこと」が可能であり、「運命はわれわれの行為の半分を裁定するが、他の半分、あるいは半分近くはわれわれによって支配されているとみるのが正しい」という。

「見立ての手法」は、佐藤さんの項のタイトルにあるように、「比喩すること」に近い。
⇒2013年4月13日 (土):アナロジー思考/知的生産の方法(48)

佐藤さんは、「見立て」はモノの本質をつかむ絶好のトレーニングになるという。
また、「見立て」はイメージの共有に役立つから、コミュニケーションという意味でも効果がある。
Photo_4
佐藤可士和『佐藤可士和のクリエイティブシンキング

「見立て」は、「なぞかけ」の一種とも考えられる。

「○○とかけて××と解く。その心は」
「□□」

という言葉遊びである。
秀逸な「なぞかけ」の答は、アタマの柔らかさを示している。
Wikipedia・なぞかけには、次が例示されている。

「ミニスカート」とかけて、「結婚式のスピーチ」と解く。その心は「短いほど喜ばれる」(3代目三遊亭遊朝の作品)

お後がよろしいようで・・・。

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