法隆寺再建・非再建論争の現在/やまとの謎(84)
世界遺産の法隆寺には謎が多い。
「法隆寺の七不思議」はいくつかのバージョンがあるようであるが、梅原猛『隠された十字架―法隆寺論』新潮社(1977年12月)は、以下のように整理している。
〇「古事記」「日本書紀」には何故か法隆寺についての記述が殆ど書かれていない。それは故意に記述をしなかったと考えるべきである。
〇寺の戸籍と云われる「資財帳」は絶対に正確でなければならないが、法隆寺の資財帳には創建当時の事が殆ど書かれていない。奇妙なことである。
〇法隆寺の中門は四間なので、真ん中に柱が立っている。門の中心に柱が立っている造りはどう考えてもおかしい。<とおせんぼ>をしているようである。
〇五重塔の上に鎌が三本固定されてある。そんな所に何故ピカピカ光った刃物があるのだろうか。
〇創建当時の法隆寺には講堂がなかった。つまりその当時の法隆寺は学問寺ではなかった。とすると、一体何の為に建てられた寺だったのだろうか。
〇金堂の中に安置されてある御本尊は、真ん中に釈迦三尊、左に阿弥陀三尊、右に薬師三尊、と並んでいる。まず本尊が三体ある事がおかしい。
〇薬師三尊像は釈迦三尊と全く同じスタイルで印相も脇侍も同一である。又、これらの本尊は法隆寺の建物より古いので、一体どこから持ってきたのか不明である。更に何故この本尊でなければならないのかそれも分からない。
〇釈迦如来の脇侍は通常、文殊菩薩、普賢菩薩、であるが、玉を持っているので薬王菩薩、薬上菩薩である。それでは完全におかしい。
〇釈迦如来の衣服は、如来の服装ではなく、中国北魏時代の帝王の服である。何故そんな衣服を纏っているのか
〇釈迦如来の左手の「与願の印」はこれでは全く意味が違っていまう。小指、薬指、を曲げる印はおかしい。
〇釈迦如来のお顔の眉間に釘が一本突き刺してある。白毫を止めるためのものとは言え常識外れの手法である。
〇光背の図柄は、あたかもめらめらと火炎が立ち上るようなデザインで異様だ。
〇救世観音が安置されてある夢殿は石造りであるが、これは建物そのものが石棺ではないのか。この場所で聖徳太子が思索に耽り、瞑想をした、とあるが、こんな陰気くさい所で出来るものではない。ウソである。
〇救世観音のお顔は、北魏様式の仏面とは言え、その様式を備えた生首(なまくび)をその儘乗せたと云うほかない。とした場合、それは誰の生首なのか。
〇観音菩薩が手に持っているのは通常「宝珠」であるが、ここでは「舎利瓶」になっている。つまり「骨ツボ」である。何故か。
〇光背のデザインは釈迦本尊同様燃え盛る火炎のようだ。
〇この像は1200年間白布に巻かれた秘仏になっていた。その理由は何か。
〇夢殿の屋根の頂点には「露盤宝珠」が載っているがホントは「舎利瓶」。夢殿の屋根の上にはホネが載せてあるという事である。完全におかしい。
〇金堂の中には、御本尊三体、その回りに四天王、建物の内側には壁画が描かれてある。建物が古く、壁画が新しく、その差は約100年くらいある。--とすると、100年間壁画の無い時代があった事になる。そんな事は有り得る事なのだろうか。
〇壁画には、インド女性としての仏画が描かれてある。壁画のテーマはすべて阿弥陀の世界らしいと云う。阿弥陀の世界とは死後の世界の事を指している。すべてが死後の世界、阿弥陀の世界、というのも奇妙ではないか。
〇金堂の一階は九間幅で、二階は四間幅、従って一階と二階を通す「通し柱」はない。上と下は別々の構造である。どうしてこんな無理な建物を作ったのか。
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/houryuuzi.html
こう数え上げてみれば、まことに奇妙なことが多い寺である。
しかし、その境内に足を踏み入れると、古代から建っている伽藍の雰囲気に、そんなことなどは忘れてしまう。
私も退院した年の秋に、親しい人たちと奈良旅行をした際、欠かせぬ訪問先として法隆寺は全員一致で決まった。
⇒2010年10月26日 (火):聖武天皇の宝剣?/やまとの謎(3)
朝日新聞出版から、新しく「週刊日本の歴史」の刊行が始まった。
類似のMOOKは既に何種類か出ているが、とりあえず最新号を入手してみた。
03号で「飛鳥時代①蘇我氏と大王家の挑戦」である。
その中に、山岸常人『法隆寺再建・非再建論争はまだ終結していない!?』という記事がある。
「法隆寺再建・非再建論争」については既に触れたことがあるが、邪馬台国論争と並ぶ古代史論争の雄といえよう。
⇒2007年8月30日 (木):若草伽藍の瓦出土
⇒2010年12月26日 (日):「麗し大和」と法隆寺論争/やまとの謎(21)
Wikipedia-法隆寺では、以下のように記述している。
法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は『日本書紀』の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述[2]からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真頼、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺(ひらこたくれい)らであった。
非再建論の主張
法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。
薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。
日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。など再建論の主張
日本書紀の記事は正確である。
飛鳥時代の様式や高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。
書物に載っている法隆寺の場所と現在の場所が違う。など論争の過程で、もともと二伽藍併存並存していたものが片方の伽藍が消失したという説(関野、足立康)も提出された。
非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、聖徳太子当時のものであると考えられる前身の伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことで、再建であることがほぼ確定した。また「昭和の大修理」で明らかになった新事実(現在の法隆寺に礎石が転用されたものであること、金堂天井に残されていた落書きの様式など)もそれを裏付けている。
2004年12月、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表された。この破片は1000度以上の高温にさらされており、建物の内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であったと推察される。壁と共に出土した焼けた瓦は7世紀初頭の飛鳥様式であり、壁画の様式も線の描き方が現法隆寺のものより古風であるという。出土した場所は、当時深さ約 3m ほどの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。実際に焼失を裏付ける考古遺物が多数発見された。
「週刊日本の歴史」の山岸氏の文章もこのような経緯を紹介しているが、論点を次のように整理している。
現在の焦点は年輪年代法による使用木材の伐採年の位置づけであろう。
上記写真の五重塔心柱は594年、金堂の一部部材は660~670年頃に伐採されたと推測されている。
『日本書紀』の天智9年(670)年の「一屋無余」焼失との整合性をどう考えるか?
そもそも天智紀の記述はどこまで信頼していいのか?
若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する(Wikipedia)というが果してどうだろうか?
いわゆる「九州王朝説」の人たちは、筑紫から移建されたと考えている。
果してどうであろうか?
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