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2013年4月27日 (土)

牟婁の湯と有間皇子の悲劇/やまとの謎(86)

南紀白浜にやってきた。
大学に入ったばかりの頃、同じクラスになった人たちと4人で、大学の施設を利用したとき以来である。
その頃と違うのは、パンダをウリにしていることであろうか。 まだ、日本古代史に対する関心は全くなかった。
したがって、『万葉集』などにも出てくる「牟婁の湯」の地であることななど、まったく知らなかった。

658年10月、斉明天皇は孫の建皇子を亡くし、傷心を癒すため紀の国の牟婁の湯へ行幸した。
皇太子の中大兄皇子、間人皇女、額田王なども同行した。
そこに、飛鳥の蘇我赤兄から、有間皇子謀反の報が入った。
有間皇子は、藤白坂(和歌山県海南市の南、藤白神社付近から山越えしていく道)に差し掛かり、絞首刑に処せられた。

『万葉集』巻2は、56首の相聞と94首の挽歌から成るが、挽歌は有間皇子からはじまっている。
645(乙巳)年は、中大兄皇子らのクーデターの年である。
むかしは、この年を「大化の改新」としていたが、最近では646年の改新の詔に始まる政治改革を大化の改新と呼んでいることは、「週刊ポスト4月19日号」の『大人だけが知らない「日本の歴史」の新常識』という記事にもあるとおりである。
⇒2013年4月10日 (水):教科書の聖徳太子像/やまとの謎(85)

乙巳のクーデターによって即位したのは孝徳天皇である。
私が学校で歴史を勉強していた頃は、中大兄皇子の主導によると教わったが、実相についてはいろいろな説が出ているようである。
⇒2008年4月 9日 (水):大化改新…⑬異説(ⅰ)論点の鳥瞰

孝徳天皇の子供が有間皇子である。
有間皇子は、斉明天皇の土木工事に対すして人々が反発し、「狂心の溝渠だ。作るはしから自然に壊れる」と誹謗したりする空気の中で、658(斉明4)年謀反を計画する。
しかし、蘇我赤兄の報告により事前に発覚して、処刑されてしまった。
⇒2008年3月12日 (水):天智天皇…③その時代(ⅱ)

どうやら、有間皇子の謀反にも後の大津皇子と同じように、謀略の匂いが漂ってくるが、『万葉集』の編者はそういう人間に対する挽歌をトップバッターに置いた。
たまたまか、権力による謀殺を悼むというような編集意図があったのか。

有間皇子はいかにも悲劇の皇子である。
父の孝徳天皇は、即位年の大化元年12月9日(646年1月1日)に都を難波宮に移すが、中大兄皇子は反対だった。
白雉4年(653年)に都を倭京に戻す事を求めたが、孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に皇族達やほとんどの臣下達をつれて倭京に戻ってしまった。
孝徳天皇の皇后である間人皇女でさえも、である。
失意の中、孝徳天皇は白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御した。

孝徳天皇の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために、心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に行ったのだった。
しかし、有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方である事を伝えた。
皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにしたが、これは罠であった。

蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けであるといわれる。
赤兄は中大兄皇子に密告し、謀反計画が露見して、有間皇子は捕らえられ、中大兄皇子に尋問された。
有間皇子は「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えたが、翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。

処刑に先んじて、磐代の地で彼が詠んだ2首の辞世歌が『万葉集』に収録されている。

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(2-141)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(2-142)

私の高校時代以来の愛読書である阿川弘之『雲の墓標』新潮文庫(1958年7月)の冒頭のところに、主人公のに1人が詠んだ歌が出てくる。
京大の学生で『万葉集』を学んでいる学生たちである。
応召の直前、図書館裏の大きな橿の木の下でしゃべりあった時のことである。

真幸くて逢はむ日あれや荒橿の下に別れし君にも君にも

有間皇子の歌に通底しているように思う。
阿川さんの創作ではなくて、『万葉幻視考』集英社(1978年1月)の著者大浜厳比古さんが、学徒徴集の際に詠作したものだという。
⇒2008年5月27日 (火):偶然か? それとも……③『雲の墓標』


不思議な因縁が、牟婁の地に私を誘ったようだ。

それにしても大阪から、特急でも2時間以上かかる。 斉明天皇たちは、何日かけたのだろうか。

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