南方熊楠記念館/紀伊半島探訪(1)
南方熊楠記念館は、かねてから是非行きたいと考えていた人物記念館である。
南紀白浜に来たからには、と行ってみた。
記念館の創立については、以下のように説明されている。
南方熊楠は、和歌山県が生んだ博物学の巨星。植物学・菌類学者としてのみならず、民俗学の創始者、19才から14年間アメリカ、イギリスなどへ海外遊学、10数ヶ国語を自由に使いこなし、国内外に多くの論文を発表した。日本に「ミナカタ」ありと世界の学者を振り向かせ、生涯在野の学者に徹した。天文学、鉱物学、宗教学などにも多くの足跡をのこしています。没後、遺族からそのいくつかの資料の寄贈を受け、南方熊楠の遺した偉大な業績と遺徳をしのびその文献、標本類、遭品等を永久保存し、一般に公開するとともに博物学の巨星を後世に伝え、学術振興と文化の進展を目的として昭和40年4月に開館した。
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/info/index.htm
熊楠は、「知の巨人」という形容詞が付けられることが多い。
1867(慶応3)年に、紀州徳川家が治めていた和歌山城下で、金物商の二男として生まれた。
熊楠の名前は、熊野の「熊」と海南市藤白神社のご神木である「楠」からとられたという。
一風変わった名前のように思えるが、この地方では比較的多い名前であると、熊楠自身が語っている。
東京大学予備門を退学後、14年にわたり欧米で独学した。
十数カ国語に通じたといわれ、その研究対象は博物学、民俗学に始まって、天文、地理、歴史、宗教、性愛、超心理現象などに及んだ。
まさに博物学である。
知的才能は幼少の頃から際だっていたようで、9歳の頃には、近所の酒屋から日本最初の百科事典といわれる『和漢三才図絵』借りてきて筆写を始めたという。
3年かけて、12歳までに81冊105巻を写し終えたというから、並の子供ではないことは確かだ。
関心のあるテーマに熱中し、書物を読んで写し取ったり、動植物を観察するために山に入って数日戻らなかったりするということがあったらしい。
その博覧強記ぶりを、民俗学者柳田国男は、「日本人の可能性の極限かと思ひ、又時としては更にそれよりもなほ一つ向ふかと思ふことさへある」と評している。
大阪大学の医学部に、ホルマリン溶液に浸した熊楠の脳が保存されている。
希有の天才の脳は、溝が深くて表面積が普通の人より広く、聴覚性と視覚性の発語中枢と呼ばれる部分がよく発達しているというのが、熊楠の脳を調べた故黒津俊行大阪大学教授の所見である。
しかし、結論的には、「相当優れた脳であることは間違いないが、--南方氏のあの偉大さを直接証拠立てる何物もない」とされている。
そして、報告書には、人間の大脳は、その能力を十分に使いこなされていない、熊楠と凡人との差は努力の違いである、というようなことが記されているという。
1886(明治19)年、熊楠は、横浜港からサンフランシスコに向けて出航する船に乗り込んだ。
東京大学予備門(後の第一高等学校)に進んだが、平均的な成績を求める秀才型の教育に飽きたらず、退学して米国行きを決意したのだった。
1892(明治25)年、大英帝国の都・ロンドンに渡る。ビクトリア朝の末期である。
大英博物館への出入りを許された熊楠は、「ここが自分が望んでいた場所だ。これで勉強ができる」と感動したという。
当時、大英博物館には150万冊の蔵書があったといわれるが、熊楠は、数カ国語にわたる約500冊の書物から、自分の関心のあるテーマについて抜き書きし、そのノート(『ロンドン抜書』)は52冊に及んだ。
熊楠は、トラブルから1900(明治33)年に学半ばにして帰国せざるを得ない事態となってしまった。
1897(明治30)年に、熊楠は中国の革命家孫文と出会う。時に孫文30歳、熊楠29歳であった。
孫文は、1895(明治28)年に広州で起こした武装蜂起に失敗し、アメリカからイギリスに逃れていたのだった。その後、孫文は1911年の辛亥革命により中華民国が成立する過程で、臨時大総統に就任するが、軍事的基盤が弱かったことから、軍閥の袁世凱にその地位を譲る。
1919年には、国民党を創設して、軍閥の打倒と不平等条約の撤廃などを目指すが、1925年に、「革命いまだ成功せず」の言葉を残し、北京で客死した。
帰国した熊楠は、和歌山市から那智勝浦に移るが、そこで熊楠の学問的業績が飛躍的に伸長することになった。
那智山は神域として照葉樹の原生林が残っていて、熊楠の研究にとっては格好のフィールドであった。
那智山麓の離れの借家で、和歌山南部の熊野山中や田辺などで採集した「粘菌」の研究に没頭する。
粘菌が生態系の中で果たしている役割は未だ十分に解明されていないらしいが、動物とも植物とも判別しがたい不思議な生物である。
生態系の中では、動植物などの有機物を地中のバクテリアが分解して無機物に変える。
粘菌は、バクテリアを主食とする生物で、バクテリアの多量発生を抑え、分解の速度をコントロールすると考えられている。
熊楠は、日本における粘菌研究のパイオニアであった。
熊楠の宇宙観・世界観を示すものと言われる「南方曼陀羅」といういたずら書きのような図がある。
仏教的世界観の中に、当時の科学の論理を部分的に超える論理を見出している、といわれる。
ニュートン力学に代表される自然科学は、因果律の発見を目標としている。
因果律とは、一定の原因と一定の結果との対応関係の必然性を示すものである。
これに対して、仏教では「因縁」という考え方をする。因縁の「因」は因果律の因であるが、「縁」は偶然性を意味している。
「南方曼陀羅」は、物事の変化のありさまを、必然性ばかりではなく偶然性も織り込んで理解すべきことを示している。
偶然性の問題に正面から取り組む量子力学が登場するのは、それからおよそ30年後の1930年代になってからのことである。
あるサイトでは、次のような図で説明していた。
http://blogs.itmedia.co.jp/businessanatomy/2012/12/post-fa3d.html
1906(明治39)年、西園寺公望内閣の内相原敬によって「神社合祀令」が通達される。
神社は一町村一社を標準に、由緒・財産のない格式の低い神社を、格のある神社に合併せよ、という趣旨である。
明治44年までの5年間で、和歌山県下の神社数は、3,700から600に激減したという。
熊楠にとって、神社を取り巻く自然林は人手の入っていない生物の宝庫であり、研究の場であった。反対運動の急先鋒として意見を発表し、奮闘する。
1918(大正7)年に、神社合祀は廃止されるが、それまでの12年の間に全国で約7万の神社とそのまわりの自然林が姿を消したとされる。
それは、「国」の成り立ちの基盤である「地域」の拠り所が消えたこと、そして身近に存在した多様なな生物種から成る生態系が消えたことをも意味していた。
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