コーチングと体罰/花づな列島復興のためのメモ(191)
運動部の部活動や運動選手の指導のあり方が大きな問題になっている一方で、コーチングという言葉が、ビジネス界では広く使われるようになっている。
歴史的に見れば、スポーツにおけるコーチングの方がずっと先行し、ビジネスについて言われるようになったのは比較的新しい。
どうして運動選手の育成という長い歴史を持っている分野で、指導法が混迷しているのか?
また、いわゆる体罰の問題は、コーチングの観点では、どう捉えられるのだろうか?
コーチングの研修のサイトには、以下のようなことが記されている。
「コーチ(Coach)」という言葉が登場したのは1500年代のことで、もとは「馬車」という意味。そこから「大切な人をその人が望むところまで送り届ける」という意味が派生し、1840年代には、英国オックスフォード大学で、学生の指導をする個人教師のことを「コーチ」と呼ぶようになった。その後、スポーツの世界、そしてマネジメントの世界へと広がり、1990年代にアメリカでコーチの養成機関が相次ぎ設立されるなど、その役割の意味や価値が広く世の中に認められるようになった。
つまり、コーチ(ング)は、専門的なスキルを必要とするものであり、その養成のための機関ができている、ということである。
そのスキルに基本はどういうものか?
コーチングの3原則というものがあるという。
1.双方向のコミュニケーションであること(インタラクティブ)
2.継続的にコミュニケーションを交わすこと(オンゴーイング)
3.相手にあったコミュニケーションスタイルをとること(テーラーメイド)
上記をみれば、コミュニケーションのやり方であると理解できる。
柔道の女子日本代表の問題について、朝日新聞2013年2月7日に、山口香さんへのインタビュー記事が載っている。
山口さんは、「女三四郎」のニックネームで呼ばれた元世界王者で、筑波大大学院の准教授である。
印象に残るポイントをピックアップしてみよう。
1.彼女たち(15人のトップ選手)の行動は、「気づき」の結果である。
何のために柔道をやり、何のために五輪を目指すのか?
山口さんは、今回の一番のポイントだという。
村山昇氏が『プロセスにこそ価値がある (メディアファクトリー新書)』(1206)で示した下図の構造の通りであろう。
⇒2013年2月 3日 (日):「プロセス」と「結果」の関係/花づな列島復興のためのメモ(187)
2.全柔連に欠けているのはダイバーシティである。
ダイバーシティ(diversity)とは「多様性」の意味。
現代は多様性の時代で、いろんな視点が必要。全柔連の理事に女性がいないが、女性の視点も1つだ。
外部からの登用でも、他のスポーツでも、外国人でもいい。
ただ、日本人とダイバーシティについては、次のように言われている。
「日本は同質を重んじる文化」である。
日本語の「違う」という言葉は、different(異なる)の意味とwrong(正しくない)の両方の意味があるが、「異なるのは悪いことだ」という価値観が根底にあるといわれる。
ダイバーシティを、日本人が真に理解、賛同し、推進するのは簡単ではない。
山口さんは、キーワードは、「リスペクト」と「オープンマインド」であるという。
柔道に限らず、運動・スポーツでは、強いものが絶対になりがち。先輩後輩という関係もある。
しかし、「強い-弱い」を越えて、相手を尊敬し、広く開かれた組織として多種多様な意見を取り入れていくことが大切。
体罰や暴言が、コーチングと無縁であることは明らかであろう。
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コメント
「なんで人を殴るのか」と問えば、「態度が悪いからだ」と答える。
相手が服従の態度を示さないところが、気に入らないのであろう。
当人は、やけっぱちになっている。
日本語には、階称 (言葉づかい) というものがある。
上と見るか、下と見るかの判断を迫る日本語を使えば、モノの上下に関する判断は常について回る。
この上下感が日本人の判断を狂わせている。
「下におれ、下におれ」の掛け声は、昔から続いた為政者の要求である。
理屈はない。ただ、指導者の要求のみがある。
世俗の上下制度が唯一の頼りとなっている。
「がんばって」の掛け声のようなものか。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
投稿: noga | 2013年2月11日 (月) 20時31分