無間地獄の闘病生活・市川團十郎さん/追悼(26)
歌舞伎界を代表する市川團十郎さんが、3日亡くなった。
4月に予定されている歌舞伎座のこけら落とし興行を迎えないまま、66歳でこの世という舞台から永遠に去っていった。
私は歌舞伎というものを詳しくは知らないが、若い頃東銀座にオフィスのある会社に在職していたことがあり、歌舞伎座界隈はそれなりに馴染みがある。
産経新聞の記事は、團十郎の人となりを次のように伝えている。
歌舞伎そのものを象徴していた21世紀の歌舞伎をリードする存在だった。
團十郎家は江戸歌舞伎の特色である荒事の創始者。代々の團十郎は江戸時代から人気抜群で、團十郎家は「随市川」といわれるような特別な存在だった。團十郎さんは生まれたときから義務と重責を担っていた。
しかし、昭和37年、十一代目を襲名した父は3年後に56歳で急逝してしまう。團十郎さんが19歳のときだった。その10年後には母を亡くす。古典芸能の世界で、後ろ盾となる親がいない苦労は大きい。白鸚や松緑の叔父らに教わることはできたが、後に「40年代はがむしゃらの時代です。父が死んでからは舞台、舞台、舞台。右も左も分からないまま夢中で、なりふり構わずの状態でした」と回想している。
新之助時代は、尾上辰之助さん、尾上菊之助さん(現菊五郎)と三之助ブームを起こし、海老蔵になってからは父親と同じように“海老さま”と呼ばれ、「大器」という評判をとった。そして60年の團十郎襲名は「演劇界の今世紀最大の祭典」とされた。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130204/trd13020407120002-n1.htm
今日の各紙のコラムは、團十郎一色である。
冒頭部分を引用する。
日本経済新聞「春秋」
初代市川団十郎がさる大名屋敷に招かれた。酒食が入り、「荒事をして見せよ」と求められた団十郎、肌を脱いでまわりの障子や襖(ふすま)をビリビリと踏み破り、「これが荒事にて御座候」とやった。はらはらする家臣をよそに、大名はすこぶるご機嫌で褒美をとらせた――。
▼江戸は元禄のころの逸話が伝える初代の荒事が豪胆にして少し乱暴なら、亡くなった十二代目団十郎さんは、豪胆は豪胆でも、おおらかさが際立っていた。荒事を演じるとき、荒ぶる心、英雄の豪快さ、勧善懲悪の正義、邪心のない心を大切に勤めている、と団十郎さんは書いた。その通りだった、と今は懐かしむしかない。・・・・・・
朝日新聞「天声人語」
勧進帳(かんじんちょう)の弁慶は、安宅(あたか)の関で機転を利かせて義経をまず逃がし、勇躍あとを追う。手足をはね上げる「飛び六方(ろっぽう)」で花道を急ぐ幕切れは、荒事(あらごと)らしい見せ場だ。市川団十郎さん66歳。弁慶の包容力で伝統芸を守り抜くも、早すぎる六方となった▼19の時に先代に逝かれた。家芸の「歌舞伎十八番」などを父からきちんと教われなかった苦労ゆえ、自らは持てる技と心のすべてを子に、まだ見ぬ孫に伝えたい。そんな思いは、晩年の闘病を支えもしただろう・・・・・・
毎日新聞「余録」
歴代団十郎(だんじゅうろう)は「目玉の役者」という。怪力の武人や鬼神が大暴れをして江戸っ子を熱狂させた初代以来の「荒事(あらごと)」では、目を見開いてのにらみはその超人的力を表す所作(しょさ)だった。やがて団十郎その人のにらみに魔を払う力があると思われた▲「吉例にまかせ、一つにらんでお目にかけます」。こう述べてキッとにらむのは、江戸時代には正月の仕初式(しぞめしき)で団十郎だけに許されていた所作だったという。今もにらんでもらえば風邪にかからぬというまなざしの呪力だ・・・・・・
産経新聞「産経抄」
歌舞伎の「襲名」が、世間でもてはやされるようになったのは、昭和37(1962)年の、十一代目團十郎襲名からだ。その襲名興行で、当時新之助を名乗っていた16歳の團十郎さんは、『助六』で福山のかつぎを演じた。トレードマークの大きな目は、クスッと笑う観客の姿を見逃さなかった。
▼芸の未熟を痛感して、かえって役者になる決心が固まったという。師であり、後ろ盾になるはずの父が、56歳の若さで他界するのは、それからわずか3年後だった。江戸歌舞伎を代表する市川宗家を背負い、19歳の若者の苦難の日々が始まる。・・・・・・
東京新聞「筆洗」
明治期を代表する思想家の高山樗牛(ちょぎゅう)は、結核と闘いながら、自らの思想を研ぎ澄ました。「われ病にかゝりてこゝにまことの人生を見そめき」(『わが袖の記』)との言葉には、大病を得たことで本当の人生を学んだという真摯(しんし)さがにじんでいる▼一度は大病を克服した十二代目市川團十郎さんも、「おまけの命」をもらった恩返しをしたいという気持ちが謙虚な人柄に磨きをかけ、芸を一層の高みに昇華させたように思えた・・・・・・
静岡新聞「大自在」
身内が不祥事を起こし、カメラに囲まれたらどんな顔をすればいいのか。まして大名跡などと呼ばれる家系だとしたら。「自覚のなさがなせる業」。2010年、長男で歌舞伎俳優の市川海老蔵さんがトラブルで顔を殴られて大けがを負い、大騒動となった際、長男の行為をこう断じた団十郎さんの真摯(しんし)な受け答えが忘れられない
▼昨年12月の中村勘三郎さんに続き、節分の夜、団十郎さんが66歳で亡くなった。新しい東京・歌舞伎座の4月開場を前にした歌舞伎界にとって、かけがえのない柱だった・・・・・・
「いずれも各社を代表する名文家である。
見識を競うような感じの團十郎さんを哀惜する文章だ。
本来なら、文章の書き方の手本として定評のある読売新聞も掲載すべきだろうが、なぜか有料サイトしか利用できないようになっている。
渡邊恒雄氏が主筆などといって権勢をふるっている新聞をわざわざ買う気はしないので、掲出していない。
ついでにいえば、朝日も2日か3日で有料化するが、コラムくらいは無料で開放すべきではないか。
歌舞伎界に詳しくない私でも、家系図をみればその位置は想像できる。
歌舞伎の名跡のなかでも最も権威のある名である。
どのコラムも、苦難の人生であったこと、にもかかわず大らかな人柄であったことを伝えている。
歴代の團十郎が「目力」の強い人だったそうである。
世襲ならではといえよう。
2004年5月に白血病で倒れ、「無間地獄」と自ら呼んだ闘病生活を続けながら芸を磨き続けた。
驚異的な精神力である。
それが伝統の力というものかも知れない。
私は、長男の海老蔵さんが2010年11月に不祥事を起こした時(被害者ではあるが不祥事であろう)、真摯に、「本人の自覚のなさに怒りを感じる」と謝罪をしていた父としての姿が印象に残る。
その海老蔵さんが、涙はこらえつつ、「大きな器で見守ってくれる、愛のある人だった」と語っている。
病魔との闘いが、器を大きくしたのであろうか。
「荒事」は幕を閉じ、静謐な眠りにつく時がきたといえるのであろうか。
合掌
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