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2013年2月15日 (金)

万葉百人一首/私撰アンソロジー(18)

『万葉集』には4516首の歌が収められている。
作者の総数は約450名とされる。
⇒2008年6月 5日 (木):『万葉集』とは?

『万葉集』に収められた歌が詠まれた時代は以下のように区分されている。
Ⅰ.伝承期
仁徳朝~推古朝
Ⅱ.第1期(開花期)
舒明朝(629~641年)から壬申の乱(672年)までの期間。
Ⅲ.第2期(最盛期1)
壬申の乱の平定後(672年)から平城京遷都の和銅3(710)年までの期間。
Ⅳ.第3期(最盛期2)
平城京遷都から天平9(737)年までの期間。
Ⅴ.第4期(爛熟期)
天平10(738)年から天平宝字3(759)年までの期間。

この時代は、一言で言えば日本という国のアイデンティティが確立していく時期であった。
河上徹太郎の「青春は感受性の形式を確定する時期」という言葉を援用すれば、『万葉集』の書かれた時代は、日本人の「感受性の形式が確定する」時代だった。
⇒2008年5月27日 (火):偶然か? それとも……③『雲の墓標』
⇒2008年6月 6日 (金):『万葉集』とは?…②日本という国の青春期

膨大な『万葉集』には、秀歌・名歌が少なくなく、成立以来、多くの日本人に愛唱されてきた。
この中から数首を選択するというのは無謀な試みではあるが、すでに『万葉集』を母集団としたアンソロジーも出版されている。
ここでは、その中の一冊・山城賢孝『口ずさんで楽しむ万葉百人一首 』から、私の好みで7首を選んでみた。
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有間皇子は、孝徳天皇の遺児で阿倍内麻呂の孫である。
658(斉明4)年、謀反を計画した容疑で捕らえられ、中大兄の命令で処刑されてしまう。
⇒2008年3月12日 (水):天智天皇…③その時代(ⅱ)
謀略の匂いが芬芬であるが、挽歌は有間皇子からはじまっている。
2008年9月27日 (土):弓削皇子の刑死…梅原猛説(ⅶ)

大伯皇女の歌は、死んだ弟の大津皇子を偲んで詠んだ歌である。
弟を思う気持ちが痛々しい。
⇒2007年12月24日 (月):当麻寺…①二上山
⇒2008年1月30日 (水):大来皇女

志貴皇子が『万葉集』に遺した歌はわずかに6首に過ぎないが、いずれも秀歌と評価されているものである。
⇒2008年10月 5日 (日):『万葉集』と志貴皇子
掲出歌については、、“むささび”をどう捉えるかが解釈のカギになる。
“むささび”の歌は、動物のムササビそのものを詠んだものなのか、それとも“むささび”は寓喩として使われているのか?
ムササビは、移動するときには、木の一番高いところから、滑空してつぎの木に飛ぶ。
だから、猟師は、ムササビが木末に駆け登ろうとするところを狙い撃ちして射止めるといわれる。
はたして、“むささび”は、大津皇子の寓意なのか、あるいは梅原猛氏のいうように弓削皇子の寓意なのか、はたまた志貴皇子自身の寓意なのか。
⇒2008年10月 4日 (土):“むささび”の歌は寓意なのか?

私は、志貴皇子自身という説を採りたい。
大友皇子や大津皇子などの宿命を眺めつつ、自らの位置を見つめて自戒する志貴皇子ということである。
この歌の次には、長屋王の歌が置かれている。
⇒2008年10月 3日 (金):志貴皇子の“むささび”の歌の置かれた位置
大浜巌比古『万葉幻視考』集英社(7810)は、「この歌が先にあったにもかかわらず、またしても『むささび』となってしまった人よ、という編者嘆きを私はこの配列に見る」と書いている。
⇒2008年10月13日 (月):志貴皇子の歌の二重性

柿本人麿の歌は、草壁皇子の薨去を詠んでいるのではないかという説がある。
原表記を見てみよう。

東野炎立所見而反見為者月西渡  (1-48)

小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)では、反歌4首が、「起承転結」の構成にあるという那珂通高氏の説に拠りつつ、48番歌の「転」について、以下のように考察している。

私は、これは明らかに「日=軽皇子・月=草壁皇子」を象徴する人麻呂の意匠であり、暗喩であるとはっきり言い切れると思う。

48番の「月西渡」は、現在「月傾きぬ」と訓じられている。
小松崎氏は、この歌(だけ)が叙景歌であるはずがなく、「月」すなわち「草壁皇子」の「西渡」すなわち「死(薨去)を意味している、としている。
つまり、安騎野は、草壁皇子の「思い出の地」や「記念の地」というよりも「臨終の地」と考えるべきではないのか、ということである。
⇒2008年8月29日 (金):安騎野の朝

さらに小松崎氏は、人麻呂の歌は告発の意匠ではないか、とする。
つまり、軽皇子による草壁皇子殺害の可能性も含めて、ということである。
⇒2008年8月30日 (土):皇子たちの鎮魂歌

弓削皇子は、梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、高松塚の被葬者に比定された。
そうかどうかは置くとしても、『万葉集』は、大宝元(701)年前後の風潮を、累々たる屍のイメージで表現しようとした、とする梅原説は納得的である。
⇒2008年10月 1日 (水):紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ)

この辺りの解釈は、『万葉集』の性格を理解する上のキモであると考えられる。
特に上記の第2期、第3期には、悲劇の皇子たちが多いことが改めて理解される。
大浜巌比古氏は、『万葉集』とは、非命に斃れた亡霊たちにたむける鎮魂の歌集である、としたが上記の撰については当てはまっているといえよう。
⇒2008年7月18日 (金):『万葉集』とは?…③大浜厳比古説

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