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2013年2月

2013年2月28日 (木)

普通名詞と固有名詞の相互転化/知的生産の方法(37)

2月23日は富士山の日だった。
「223」でフ・ジ・サン。
静岡県の川勝平太知事は、落下傘のようにやってきたが、富士山に格別の思い入れがあるようだ。

富士山は固有名詞であると同時に普通名詞でもある。
全国に、〇〇富士とよばれる「ご当地富士」がある。
北から南まで、北海道の蝦夷富士「羊蹄山」、東北地方の代表の津軽富士「岩木山」、中国・四国地方の伯耆(ほうき)富士「大山」、九州地方の薩摩富士「開聞岳」などが有名である。

これと逆に、普通名詞が固有名詞のようになっている例もある。
先日、興味深い知財判決が下された。
よく知られている「あずきバー」の商標登録をめぐってである。

 棒アイス「あずきバー」の商標登録を認めなかったのは不当だとして、井村屋グループ(津市)が特許庁の審決取り消しを求めた訴訟の判決が24日、知財高裁であった。土肥章大裁判長は「『あずきバー』は井村屋の商品として広く認識されている」として、請求を認める判決を言い渡した。
 商標法は「原材料や形状などだけで表示された商標」を登録できないと定めており、土肥裁判長は「あずき」と「バー」の組み合わせについて「特段の独創性は認められない」と指摘。一方、あずきバーの年間販売本数が2億5800万本(平成22年度)を記録している点などに言及し、「高い知名度を獲得している」として、同法の別の規定を適用し登録することが可能と判断した。
Photo
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130124/trl13012418460002-n1.htm

商標権とはどのような権利か?
Wikipedia では以下のように解説している。

商標(しょうひょう)とは、商品を購入し、あるいは役務(サービス)の提供を受ける需要者が、その商品や役務の出所(誰が提供しているか)を認識可能とするために使用される標識(文字、図形、記号、立体的形状など)をいい、商品の販売に際しては商品または商品の包装、役務の提供に際しては、役務の提供に使用される物や電磁的方法により行う映像面に付して使用する。需要者は、標章を知覚することによって商品や役務の出所を認識し、購入したい商品、または提供を受けたい役務を選択することができる。
商品の販売や役務の提供を継続すると、使用されるブランドは需要者に広く知られることとなり、商品の品質や役務の質が一定以上のものであれば、業務上の信用力(ブランド)が化体し、財産的価値が備わるようになる。この財産的価値は、特許権や著作権にならぶ知的財産権の一つと位置づけられ、条約や法律による保護対象となっている。これにより産業の発達に寄与し、あわせて需要者の利益を保護することができる。

要するに、ある商品を他の商品と識別するための標識であり、ブランド的価値を有するものについて認められるものである。
商標法では、第3条で、商標を受けられないものとして、下記を挙げている。

  その商品の産地、販売地、品質、原材料、効能、用途、数量、形状(包装の形状を含む。)、価格若しくは生産若しくは使用の方法若しくは時期又はその役務の提供の場所、質、提供の用に供する物、効能、用途、数量、態様、価格若しくは提供の方法若しくは時期を普通に用いられる方法で表示する標章のみからなる商標

「あずきバー」は、あずきの入ったアイスバーであるから、材料、形態を表示しただけともいえる。
その意味で、特許庁の審決は妥当のようにも思える。

しかし、2項に次のような除外規定がある。

  前項第三号から第五号までに該当する商標であつても、使用をされた結果需要者が何人かの業務に係る商品又は役務であることを認識することができるものについては、同項の規定にかかわらず、商標登録を受けることができる

井村屋の「あずきバー」は、まさに長年の使用によって、消費者が「井村屋の」あずきバーであることを認識できるもの、といえる。
商標権が認められて当然といえよう。

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2013年2月27日 (水)

石原莞爾と2・26事件/満州「国」論(15)

昨日は2・26事件の発生から77年目の日であった。
昭和11(1936)年2月26日、陸軍の一部皇道派将校に率いられた1400名の兵が、首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃、陸軍省・参謀本部・警視庁などを占拠した。
大雪が降っていたことは、写真、映画などで私も見知っている。

翌27日に東京市に戒厳令が施行され、28日になると戒厳司令部の香椎長官は次のような「兵に告ぐ」というビラを撒く。

今からでも遅くないから原隊へ帰れ。抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ。

このビラを読んだ兵や下士官たちは、「逆賊」という言葉に動揺し、大勢は帰順して、一部の幹部は自決し、残りは全員逮捕された。
斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害され、岡田啓介首相のは難を逃れたもの松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりになって殺されるという大事件はあっけない結末を迎えた。

この事件については、膨大な研究書や文学作品がある。
人によって評価はマチマチだろう。
しかし、激動の時代を象徴する事件だったことは間違いないだろう。

昭和 6年 9月18日 満州事変
昭和 7年 1月 8日 桜田門天皇狙撃未遂事件
             1月28日 上海事件
             3月 1日 満州国建国宣言
             5月15日 5・15事件(犬養首相殺害)
昭和 8年 3月27日 国際連盟を脱退
昭和11年 2月26日 2・26事件
昭和12年 7月 7日 蘆溝橋事件
昭和13年 4月 1日 国家総動員法公布
昭和16年12月 8日 日本軍真珠湾を奇襲

まさに日本が坂道を転がる如く、戦争の泥沼にはまり込んでいくのが分かる。
その出発点となったのは、満洲事変であったといってよいであろう。

満洲事変。
その立役者は、板垣征四郎と石原莞爾ということも、まあ定説といっていいだろう。
小澤征爾の名は、国際的に通用する日本人の代表格といっていいだろうが、征爾の名前は、板垣征四郎の征と石原莞爾の爾をとって命名された。
満州青年連盟などの運動に携わった征爾の父小澤開作は、2人に傾倒していた。
「智謀石原、実行板垣」と称せられていたように、石原莞爾は脳力に秀でていた。

謀略によって満洲事変を起こし、それを契機として約1万の関東軍をもって、あっという間に、23万といわれる張学良軍を撃破して満州を領有する。
関東軍の方針は領有から建国に転換し、満洲「国」を建国するが、敗戦と共にはかなく消えた。

満州国の建国の理念として、『五族協和の王道楽土』 というコンセプトである。
五族協和とは満州人、蒙古人、漢人、日本人、朝鮮人で、これらの民族が協力して 『多民族国家』 を形成し、欧米諸国のような覇道によらずに王道をもって治めると謳われた。
⇒2011年11月22日 (火):イーハトーブと満州国/「同じ」と「違う」(35)・満州「国」論(1)

満州「国」建設は、石原莞爾の主導によるものと考えていいだろう。
石原の構想は、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向し、日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだとした。
その背景に、石原独自の最終戦争論があった。
すなわち日米決戦に備えるためのステップとして満蒙独立があり、それを実現するための民族協和であった。

満州「国」建設を主導した石原莞爾は、2・26事件に対しては、断固鎮圧すべしという立場でブレなかった。
陸軍首脳の多くがどっちつかずの態度であったのに比して大きな違いである。
2・26事件が起きた時、石原は参謀本部作戦課長だった。
東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。

この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。
もちろん 「正当」というのは、昭和天皇から見てである。

満洲事変や2・26事件の背景として、東北地方農村部の疲弊があった。
現在も、東日本大震災、とりわけ福島原発事故によって、東北地方に大きな犠牲を強いている。

1930年代の日本は世界恐慌の直撃を受けて大不況の真っただ中。特に東北地方は「昭和東北飢饉(ききん)」といわれる飢饉に襲われ、娘の身売りが相次いだ。2・26事件が起きた一因にはこうした農村の疲弊があったと指摘されている。
・・・・・・
 2・26事件当時と現代の世相がどうしてもだぶってみえてしようがない。リーマン・ショック後の先行きが見通せない景気、大震災による東北地方の疲弊、震災と原発事故に対応が後手後手となっている政治への不信、そして、保身に走る政府首脳と国民そっちのけかのような政治家の権力闘争劇…。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110515/stt11051507010001-n1.htm

確かに、80年前の国情と重なる部分があるように思う。
「歴史は繰り返す」といわれるが、繰り返さないのが人間の知恵というものだろう。

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2013年2月26日 (火)

日銀人事のアベノミクス/花づな列島復興のためのメモ(195)

政府が次期日銀総裁に黒田東彦アジア開発銀行(ADB)総裁、副総裁に岩田規久男・学習院大教授と日銀の理事の中曽宏氏を起用する方針を固めた。
いわゆるアベノミクスを具現化する人事ということになる。

黒田氏は、1999年から2003年まで財務官として、円売りドル買いの市場介入を指揮した。
2005年にアジア開発銀行総裁に就任した。
財務官当時からデフレ脱却にむけた金融政策の重要性を主張し、物価目標の導入も唱えてきた。
大胆な金融緩和路線をとる安倍首相の強力な推進者ということができる。

これを受けて、25日の為替は円安ドル高が進み、1ドル=94円77銭前後と約2年10か月ぶりの水準となった。
また、株式も、日経平均株価(225種)は前週末比276円58銭高の大幅高になった。
2008年秋のリーマン・ショック後の高値を更新した。

このような市場の反応は、アベノミクスの予定した成果であろう。
円の対ドル下落と日経平均で表される株価の上昇は、自民党総裁に安倍氏が選出された頃からの一貫した流れである。
130226
日本経済新聞2013年2月26日

ところが、1日経つと、イタリアの総選挙の結果を受けて、為替と株が反転した。

下院は緊縮派の中道左派の勝利だったが、上院では過半数獲得となる勢力がないことが確実になり、今後の再選挙など混乱が懸念される結果だった。パニック的にユーロ売りと円買いの動きが広がった。ドル円は一時90.85レベル、ユーロ円は118.70台まで急落した。
http://www.gci-klug.jp/fxreview/2013/02/26/018419.php

26日後場の日経平均株価は前日比263円71銭安の1万1398円81銭と3営業日ぶりに大幅反落した。終値での1万1400円割れは22日以来2営業日ぶり。前半は、イタリアの政局懸念や財政再建への不透明感から、対主要通貨で再び円高方向に推移するとともに、株価指数先物にまとまった売り物が出て下げを主導した。
http://news.finance.yahoo.co.jp/detail/20130226-00231733-mosf-market

今後の動向はにわかには予想できない雰囲気であるが、政策は真空の中の実験ではないから、アベノミクスによる円安・株高にも当然副作用がある。
そもそも、デフレ脱却が目的で、円安・株高は直接の目的ではない。

 麻生氏は、安倍晋三政権の経済政策について「デフレ不況からの脱却を目標としており、為替や株を目的としているわけではない」とし、「日本経済がデフレから脱却し、繁栄していくことが、アジア、韓国のためになる」と語った。
http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPT9N0BH01G20130225

しかし、円安という自国の通貨の価値を低落させることが、 日本経済の繁栄になるのだろうか?
⇒2013年2月14日 (木):円安と経済成長の両立は可能か?/花づな列島復興のためのメモ(193)

アベノミクスの3本の矢といわれるのは、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起す成長戦略」である。
財政政策が利権の構造と結びついていては、成長は期待しえない。
また、増税による生活者の負担が大きくなれば、景況の回復なども望めまい。
それにしても、経済政策は、何が正しいのか素人には分かりにくい。

 

 

 

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2013年2月25日 (月)

『脳の中の経済学』と将来事象/闘病記・中間報告(59)

脳という臓器は不思議である。
私のように、脳血管障害の後遺症患者にとっては、脳の働きを知ることは切実な問題でもある。
最近はMRI(特にfMRI)によってその一端を知り得るようになった。
⇒2012年12月23日 (日):『脳のなかの水分子』とMRI/闘病記・中間報告(56)
⇒2011年8月13日 (土):予兆を感知できるか?/闘病記・中間報告(26)
⇒2010年6月30日 (水):ロボットによる脳進化の理解

しかし、その働きの全貌はまだほとんど分かっていないと言うべきだろう。
特に高次脳機能と呼ばれる機能は、人間が人間らしく存在する上で重要であるが、不思議なことが多い。

高次脳機能障害とは、交通事故や脳血管疾患などにより脳に損傷を受け、言語・思考・記憶・行為・学習・注意などの知的な機能に障害を抱え生活に支障を来たすことをいう。
高次脳機能障害は、精神・心理面での障害が中心となるため、外見上は障害が目立たず、本人自身も障害を十分に認識できていないことがあり、家族からも理解されにくい状況にある。障害は、診察場面や入院生活よりも、在宅での日常生活、特に社会活動場面で出現しやすいため、医療スタッフからも見落とされやすい。障害を知らない人から誤解を受けやすいため、人間関係のトラブルを繰り返すことも多く、社会復帰が困難な状況に置かれている。身体の障害は完治または軽症で精神障害とも認められずに、医療・福祉のサービスを受けられず、社会の中で孤立してしまっている状況にある当事者もいる。

http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/glossary/HBD.html

高次脳機能を実際の人間行動のあり方から解明しようとする試みの1つが、行動経済学である。
経済学は、合理的な判断をする人間を前提として、理論の枠組みを作ってきた。
しかし実際の人間行動は、合理的な判断から期待されているものと乖離していることが少なくない。

なぜ、「理論的に導かれる判断」と「実際に行われる判断」が違うのか?
行動経済学は、「合理的な行動」という仮説に拘らない。
「非合理な人間」を解明しようとするアプローチであり、いわば「非合理を論理的に」明らかにしようという矛盾のような学問である。

行動経済学をさらに進めて「神経経済学」と呼ばれている分野が発展しつつあるらしい。
「非合理的な判断をする人間」を、脳の中のしくみと関連させて解明できないか。
その理解のために、経済学の枠組みを利用しようという発想である。
行動経済学の方から脳神経学に接近する動きと、脳神経学から経済学に接近しようという動きが合流して、「神経経済学」が誕生した。

大竹文雄、田中沙織、 佐倉統『脳の中の経済学)』ディスカバー・トゥエンティワン(1212)は、おそかく初めての同分野の入門書である。
文部科学省の「脳科学研究推進プログラム」(脳プロ)という脳科学プロジェクトの一般向け成果報告の一環として、著者らによる鼎談が行われた。
この鼎談を元にした第1部を、第2部の大竹、田中両氏の対談で補足するという構成である。

夏休みの宿題を、いつやっていたか?
「近くのものが大きく見え、遠くのものが小さく見える」というのは、空間だけでなく時間についてもあてはまる。
誰だって、今日1万円貰える方が1年後に1万円貰えるよりは嬉しいだろう。

後になるほど小さくなるそのなり方を割引率という。
そして、割引率に個人差がある。
たとえば、指数割引と双曲割引である。

指数割引というのは、時間軸の小さくなり方の比率が一定である。
年率1%ならば、最初の1年間も次の1年間も1%である。
2年後は(1-0.01)×(1-0.01)=0.9801になる。

双曲割引の場合は、小さくなっていくなり方、つまり減衰の仕方が双曲線になっている。
最初の割引が大きく、時間の経過とともに小さくなっていく。

夏休みの宿題を最後にやるというのは双曲割引の一例である。
双曲割引の場合は、今と明日の割引に差がある。
ということは、今立てた「明日の計画」が明日になれば違ってくる。
計画の実行は明日から明日へ、先延ばしされることになる。
私にも身に覚えのあることである。

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2013年2月24日 (日)

満州で生まれ、現在も刊行されている同人誌/満州「国」論(14)

2013年2月21日の日本経済新聞の文化欄に、「満州の実相 書き残す」という記事が載っている。
筆者は、秋原勝二さんという作家である。
今年の6月には100歳を迎えるということだが、現在も執筆活動を続けている。
見事な高齢者の1人だろう。

1932年(昭和7年)というから、80年前になる。
満鉄(南満州鉄道)の文学好きの人たちが集まって、「作文」という同人誌を発刊した。
満鉄は、昭和20年、敗戦によりわずか13年と5ヵ月で消失した満州「国」の基幹企業であるが、もちろん満州「国」と運命を共にした。
⇒2011年11月22日 (火):イーハトーブと満州国/「同じ」と「違う」(35)・満州「国」論(1)

静岡県駿東郡小山町に、富士霊園という名前の広大な霊園がある。
そのもっとも標高の高い部分の一角に、「満鉄留魂碑」というものがある。
満鉄ゆかりの人たちでつくる「満鉄会」が毎年留魂祭を行ってきたが、去年で終わりになったそうである。
Photo_2

デザインされたMの真ん中をレールが貫いているのが、満鉄(The South Manchuria Railway Co., Ltd.)のマークである。
横に、満鉄留魂碑建立の趣旨が記された碑銘碑がある。
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留魂祭を主催してきた満鉄会も、さすがに高齢化が進み事実上活動を停止した。
Wikipediaでは以下のように説明している。

会員は多い時で約1万5000人いたが、その後は会員の高齢化に伴って減少した。2010年(平成24年)10月19日に最後の大会を開催し、翌2013年(平成25年)3月末をもって事実上解散することを決定した。ただし、同年4月から3年間は情報発信のみをおこなう「満鉄会情報センター」として存続するとしている。

そんな中で、秋原さんは奮闘している。
「作文」は、1942年、第55集をもって休刊せざるを得なかった。
戦争になって、統制が進んだ中の一環である。
秋原さんは、誤解されがちな満州の実相を文字にしようと復刊を願った。
実際に復刊が叶ったのは、1964年で20人ほどの同人が集まったということである。

現在の同人は3人、「作文」は第205集まで発行している。
秋原さんの情熱に倣いたいものだ。

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2013年2月23日 (土)

東京都は太陽光利用でイニシアティブを取れるか?/花づな列島復興のためのメモ(194)

第2次安倍政権の茂木経産相は、エネルギー政策として原発を積極的に位置付けている。
⇒2012年12月29日 (土):安倍政権と原発政策/花づな列島復興のためのメモ(179)
安倍首相自身も、原発の新増設に意欲的だ。

 安倍晋三(Shinzo Abe)首相は12月30日、出演したTBSの番組で「新たにつくっていく原発は40年前の古いもの、事故を起こした東京電力福島第1原発とは全然違う。何が違うのかについて国民的な理解を得ながら、新規につくっていくことになる」と語り、原子力発電所の新増設に意欲を示した。日本経済新聞(Nihon Keizai Shimbun)などが31日に報じた。  
 企業寄りとされる安倍政権が、民主党前政権が打ち出した「原発稼働ゼロ方針」から180度転換し原発再稼働へ向かって動くことは広く予想されているが、12月26日に首相に就任して以来、安倍氏が原発新設を支持する考えを示したのは初めて。

http://www.afpbb.com/article/politics/2918589/10043865

私は、民主党の原発政策にもいかがわしさを感じていたが、現実問題として新増設を受け入れる地域があるであろうか?
福島第一原発の事故は、野田前首相の「収束宣言」から1年以上経つが、事実はいまだに収束していないと考えるべきだろう。
そんな雰囲気の中で、猪瀬東京都知事が、太陽光利用に前向きな姿勢を見せた。

 自然エネルギーをめぐる都の施策は大震災で変わった。石原慎太郎前知事の下では温暖化防止策の一つだったが、首都の電力の支えに位置付けられた。
 「経済を太陽光で賄えるわけない」「家庭のソーラー電気はミニマム(最小限)なこと」。原発重視の前知事の言葉からは、太陽光への思い入れは聞き取り難い。
 これに対し、猪瀬知事は「国内の電力需要を相当程度賄うぐらいの覚悟が必要だ」(著書「東京の副知事になってみたら」)。東京電力の老朽火力発電所の更新や地熱発電の拡大など「電力をつくる側」の改革を試み、今回は「使う側」の意識改革を促そうとする。
 「家庭やオフィスなどの電力消費が多い東京でやることに意義がある」。こう評価する慶応大大学院の小林光教授(環境政策論)は、欧州のエコ先進国並みに四割程度を自然エネルギーで賄うのは可能との立場だ。「過剰な電力を原発から受けていたことに、多くの都民が3・11で気付いた。史上最多票の信託を受けた知事が、個人の実践を生かして発信するのはタイムリー。エコ普及の正念場だ」と注目する。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013022190070429.html

太陽光発電の実用化には課題が多いといわれる。
コスト高であることは別にしても、供給が不安定である。
電力は需要に応じて供給することが原則となっており、安定的で良質の電力が必要である。
しかし、天候による変動や昼夜による日内変動が大きく、それを平滑化しなければならない。
そのためには、安価で一定の容量を持つ蓄電池求められる。

小容量の蓄電池は、価格が下がり始めてきたようである。
しかし、臨時に使うのではなく、日常的に実用レベルで使える容量のものは、まだまだ高価である。
普及のためには、価格破壊的なことが必要とされる。

 同様の持ち運べる蓄電池では、シャープが9月にリチウムイオン電池を使い、大型冷蔵庫を約3時間半動かせる製品を31万円で発売。日立マクセルも今春、ポータブル蓄電池(16万円)を発売している。ワンゲインの梅千得(ばい・ちえる)社長は「非常用電源ならば(リチウムイオン電池など)過剰な機能は不要。まず安価で普及をはかる」と強調した。
 家庭用太陽光発電装置などに接続する定置型の蓄電池は1キロワット時あたり30万円弱からで、導入に150万円以上かかるケースがほとんど。容量こそ小さいが非常時などの対策として持ち運び型蓄電池の低価格化が進めば、市場拡大に拍車をかけそうだ。

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/121223/biz12122322210008-n1.htm

都の補助金で普及が進めば、量産化が可能になる。
量産できればコストダウンし、さらに普及が進む、という循環が期待できる。
力の強い自治体が、脱原発のイニシアティブを取れるか否かは、この国の将来にとっての分かれ道になるだろう。

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2013年2月22日 (金)

弥生時代の北九州と南九州/やまとの謎(82)

足立倫行氏の「ひととき」に掲載されている『古代日向の光と影-天孫降臨の地の不思議』に、宮崎県埋蔵文化財センター所長・北郷泰道氏の見解が紹介されている。
南九州では、北九州と同時期に稲作が始まった。
しかし、南九州ではシラス土壌と低湿地への海水の浸入のため、水田が広がらなかった。

弥生時代の北九州や畿内が水田七、畑三なら、南九州は水田三、畑七だった。
北九州や畿内が、稲作による権力集中的な集村型社会であるのに対し、南九州は個別性の強い散村型社会であり、社会構造がまるで異質だった。
弥生時代の南九州は海運も発達していて、青銅器を経ることなく、磨製石器からすぐに鉄器に移行し、北九州の青銅器文化圏とは対立した。
このような特徴を持つ古代の南九州が、『魏志』倭人伝に登場する狗奴国ではないか、というのが北郷氏の説である。

これは、邪馬台国が宮崎平野にあったとする中田力氏の『日本古代史を科学する 』PHP新書(1202)とは相いれない。
考古学的知見はもちろん重要である。
北郷氏は、古墳時代に入って広大な南九州を束ねたのは諸県君であるとする。
本庄古墳群を基盤とした諸県君は、生目古墳群に移った頃から力を増した。
生目古墳群の大古墳(100m超)の被葬者が、景行天皇の妃になった日向髪長大田根、御刀媛、その子で日向国造の祖とされる豊国別皇子ではないか。

諸県君は、娘たちを相次いで王妃に差し出すことで勢力を伸ばした。
しかし、海水の侵入により新田開発が困難になって、西都原の台地へ勢力を移した。
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西都原の古墳群は諸県君グループの共同墓地で、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメの墓という伝承があって陵墓参考地に治定されている男狭穂塚は諸県君牛諸井、女狭穂塚は髪長媛ではないかとする。
髪長媛の子と孫の世代に大事件が起きる。

第20代安康天皇が弟の妃として髪長媛の娘を迎えたいと、大草香皇子に使者を送った。
大草香皇子は喜んで豪華な冠を使者に託したが、使者は欲に目が眩んで冠を横領し、大草香皇子が反対であると虚偽報告をした。
鮟鱇天皇は、大草香皇子を攻め滅ぼしてその妻を自分の皇后にし、子供の眉輪王も引き取った。

事情を知った眉輪王は安康天皇を殺害した。
安康天皇の弟のオオハツセ(雄略天皇)は、眉輪王を匿った円大臣もろとも焼き殺した。
天皇家の一大不祥事である。

こうした事件を背景に、日向に対する罪の意識が記紀編纂時にも作用し、神話の舞台として別格の扱いとなったのではないか、というのが北郷説である。
狗奴国を受け継ぐ日向は、現実的にも重要な地域であった。
6世紀前半に継体天皇が筑紫君磐井を倒し、朝鮮半島への北回り航路を掌握して、南回り航路を中継していた日向は凋落した。

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2013年2月21日 (木)

日向神話の特徴/やまとの謎(81)

邪馬台国はどこにあったのか?
諸説が競い合って、決定打はなかなか出ない。
畿内説と九州説が2大説ということになっているが、それぞれ弱点もある。
私は、『魏志倭人伝』に出てくるのだから、基本は『魏志倭人伝』に基づくべきだろうと考えている。

その点、最近考古学の方で有力だといわれる纏向遺跡を中心とする畿内説には賛成しかねる。
素直な実感として、『魏志倭人伝』からは、九州の匂いはするが近畿の匂いはしてこない。

しかし、九州説も、具体的な場所となると、かなりいろいろな説がある。
九州を南と北に大別すれば、北九州に倭と呼ばれた時代に、何らかの中心的権力が存在したことは間違いないであろう。
一方、南九州にも遺跡が存在しているが、あまり注目されていないような気がする。

そんななかで、中田力氏の『日本古代史を科学する 』PHP新書(1202)は、邪馬台国=宮崎平野説をかなり納得的な論理で展開していて斬新感を覚えた。
⇒2012年11月20日 (火):「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ

日向といえば、出雲と並ぶ神話の宝庫である。
大山誠一氏は、『天孫降臨の夢―藤原不比等のプロジェクト 』NHKブックス(0911)において、次のような問いを立てている。
藤原不比等は、なぜ天孫降臨というようなある意味で荒唐無稽なストーリーを構想したのか?
そして、どういう理由で、高千穂峰をその地に選んだのか?
⇒2012年12月25日 (火):天孫降臨と藤原不比等のプロジェクト/やまとの謎(73)

東海道・山陽新幹線の車内誌「ひととき」に、「アキツシマの夢」という古代史の舞台を探訪する連載がある。
2013年2月号の第40回は、足立倫行氏が『古代日向の光と影-天孫降臨の地の不思議』を寄稿している。

アマテラスオオミカミは
日本を統べよとニニギノミコトに命じ、
ニニギノミコトは日向の高千穂峰に降臨した。
日向国は、いまの宮崎県と鹿児島県の一部にあたる。
神が最初に降り立った日の本の地は、
なぜ畿内でも北九州でもなく、この地だったのか。
神話の裏に隠された真実とは--。

足立氏の「週刊朝日」の『古事記を歩く』という連載の120713日号の第3回が、『天孫降臨した古代日向「もう一つの顔」』であった。
⇒2012年7月 9日 (月):天孫降臨の高千穂峰/やまとの謎(66)
足立氏によれば、日向に降臨した天皇家の最初の祖先たち(日向三代)の神話は、南方系の海に関わるものが多い。
それでは、日向神話にはどのような特徴がみられるであろうか?
みやざきの神話と伝承101 概説」から抜粋してみよう。

記紀神話の中心は、全体としては1つの筋をもっていて、日本国と皇室の創生の物語が中心となっている。
その物語の舞台は3つあって、出雲、日向、大和である。
出雲の場合は大方が独立した物語で展開する。
それに対して、日向と大和の場合は、神の世界から日向へ、日向から大和へと連続した物語として展開する。
日向を舞台とした物語は、「神」の世界から「神と人」の世界として展開する。

日向神話は、アマツカミ(天神)とその子孫がクニツカミ(地神)のヒメ神と、さらにはワタツミノカミ(海神)のヒメ神と結婚し、人皇であるカムヤマトイワレビコノミコトが誕生するという構成になっている。
これは、アマツカミ(天神)によるクニツカミ(地神)とワタツミノカミ(海神)の統合の上に人皇初代が生み出されたという古代の人々の考えが表わされていて、これが日向を舞台としている神話の特色である。
なぜ古代国家のなかでも、都から遠くはなれた僻遠の地にある日向が、これらの物語の舞台になったのであろうか。

それは以下のように考えられる。一口でいえば、この物語が創りだされる時代に、日向が朝廷と深いかかわりを持っていて、日向を無視できない事情があり、また物語の展開の上で最もふさわしい土地とみられる要素があったことが考えられる。歴代天皇にかかわる日向の女性が物語のなかにしばしば登場するのもそれらを示唆しているものと思われる。

日向神話には人間は生きていく上で、生と死という重大事をはじめ、人間の存在を問うさまざまな問題が描かれている。
例えば次のような物語である。

(1)人にはなぜ死があるか
地上に天降ったニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメを見染めて、結婚をクニツカミの父神に申し込んだ。
父神は姉ヒメでシコメ(醜女)ではあるが、永遠に続く生命をもった大地の象徴であるイワナガヒメをもさしだすことを申し出た。
ところがニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけを選んだ。
コノハナサクヤヒメは、春には花が咲きほこるが、やがてはかなく散って行く限りある生命の象徴であった。
ミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれてくる神々や人皇たちは、生あるものは必ず死を迎えるという有限の生命をもってうまれてくることになった。

(2)疑心と嫉妬は人の性である
ニニギノミコトと結婚したコノハナサクヤヒメは一夜にして身ごもった。
ミコトは一夜をともにしただけで身ごもるとは、自分の子供ではないのではないかと疑念をもった。
このことを大変悲しんだヒメは、出口のない産屋に入り、火を放って無事に出産することで身のあかしをたてた。

(3)好奇心と海陸での生活
トヨタマビメはホオリノミコトのミコを生むために、鵜の羽の産屋を作りはじめた。
ミコが生まれそうになったとき、ヒメはホオリノミコトに「子を生むときは私の身は本国(ワダツミの世界)の姿になるので見ないでください」と頼んだ。
ふしぎに思って覗いてみると、8丈もある大きな鰐がのたくっていた。
トヨタマビメは本姿を見られたことを恥じて海への道をふさいで海宮に帰った。
好奇心に駆られ自制できなかったアマツカミの末孫である人間に、ワダツミノカミは道を閉ざして海と陸を往来ができないようにした。

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2013年2月20日 (水)

中国論をこえた浩瀚な学識・中嶋嶺雄さん/追悼(28)

現代中国論の中嶋嶺雄さんが亡くなった。

現代中国研究が専門の国際社会学者で、国際教養大理事長兼学長の中嶋嶺雄(なかじま・みねお)さんが14日午後10時26分、肺炎のため秋田市の病院で死去した。76歳だった。葬儀は18日に近親者のみで営まれた。3月17日午後1時から秋田市雄和椿川の国際教養大多目的ホールで大学葬が行われる。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0219/TKY201302190191.html

私は、35年ほど前、長期的な企業経営のあり方について検討するプロジェクトに関わったことがある。
その時、専門委員の1人として、中嶋さんもプロジェクトに参画していた。
中嶋さんは、主として国際環境が、今後どう推移していくかということを期待されていたと思う。

私は末席に座って、諸先生のご意見を拝聴するばかりであったが、中嶋さんの発言には、専門分野の枠を越えた見識が窺えた。
中嶋さんはたくさんの著作を出されているが、私はその上澄みを舐めた程度の読書体験しかない。
Wikipedia から覚えのある著書を抽出してみる。

『中国――歴史・社会・国際関係』(中央公論社[中公新書], 1982年)
『中国の悲劇』(講談社, 1989年)
『三つの中国――連繋と相反』(日本経済新聞社, 1993年)

こうしてみると、古い著作ばかりである。
最近の中嶋さんの活動については、マスメディアを通じてしか知らない。
しかし、秋田県に設立した国際教養大学の功績は広く知られている。
同大学の初代理事長兼学長として、同大学の高い評価に貢献してきた。
大学のサイトに乗っている学長の語る理念は以下のようである。

2004年4月、これまでの日本には存在しないグローバル・スタンダードの大学を創り、世界に挑戦するという決意を胸に、国際教養大学は開学しました。以来、我々が掲げる教学理念、すなわち、大学にとって不可欠な教養教育と外国語のコミュニケーション能力を培う「国際教養」は、多くの人々の共感を得てきました。
本学では、秋田杉の森に囲まれた美しい環境の中で、学生諸君に「これまでの人生で、これほど勉強したことはない」というほどに、勉学と向き合ってもらいます。「すべてを英語で学び、英語で考える授業」「外国人留学生と共に暮らす1年間の寮生活」「世界トップレベルの提携大学への1年間の留学」など、学生たちはチャレンジを積み重ねます。

中教審の外国語専門部会で、国際化に対応するための提言をまとめたが、その提言を実践したといえよう。
まさに有言実行である。
Wikipediaには、同大学の特徴が以下のように紹介されている。

学生の多様性
在学生は全国各地から集まっている。在学生の出身高校所在地別学生数でみると、秋田県が約16%、北海道・東北地方・関東地方の合計で約57%、中部・北陸・およびその以西の合計で約39%、外国等が約4%である。
一方、主に提携大学から来る留学生は世界各地から来ており、日本語や日本文化専攻の学生とそうでない学生がいる(日本語の全く話せない留学生も数多くいる)。2010年秋学期では、25カ国・地域から163人であった。人数が多いうえ、全員が日本人学生と同じ学内の寮やアパートに住んでおり、日本人学生と留学生との距離が近い学風を有する。
留学の必須
国際教養大学の卒業要件には最低1年間の海外留学が含まれている。つまり留学なしにこの大学は卒業できない。特定の単位数と必修科目を修め、TOEFL550点及びGPA2.5以上の条件を満たせば自分の好きな時期に留学でき、多くは2年次の秋から3年次の秋まで留学する。留学先の大学では、自分の専攻分野のカリキュラムに合致する授業を1年間で30単位程度履修する(これは国際教養大学での履修単位数と変わらない)。原則として提携大学への交換留学という形をとるが、例外的に提携先以外の大学への留学も認められる。但し、その際は国際教養大学を休学し、私費で留学しなければならない。2011年現在、海外提携大学は35の国と地域の118校に及ぶ。
教員の5割が外国籍
外国人教員比率は日本の大学の中では第2位の高さである。2011年時点では、専任教員の約55%が外国籍である。

以上の紹介からも、日本の大学としては桁外れのユニークさを持っていることができる。
この学校から、学校秀才を越えた逸材が輩出してくるであろうことが予測できる。
日中間の関係が微妙になっている時期に、もっとも聞きたいオピニオンを発する人を失った。
合掌。

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2013年2月19日 (火)

伊豆半島と能登半島/「同じ」と「違う」(56)

日本地図を180度反転させてみると、伊豆半島と能登半島がほぼ似た形をしている。
静岡県→富山県、伊豆半島→能登半島、駿河湾→富山湾という関係である。
⇒2011年1月18日 (火):馴質異化-地図の上下/知的生産の方法(7)
伊豆半島の地図と、反転させた能登半島の地図を並べてみよう。
Photo_2

Photo_3

同じ縮尺である。
もちろん細部は異なるが、形やサイズがよく似ていると言っていいだろう。

2013年2月13日付の静岡新聞に、佐藤洋一郎氏の「伊豆半島と能登半島」と題する時評が載っていた。
佐藤氏は、植物遺伝学の研究者で、現在は総合地球環境学研究所の副所長・教授である。

佐藤氏は、伊豆半島と能登半島は、「おどろくほど似ている」という。
公共交通の便が悪く、県都からも遠い。
山がちで目立った製造業がない。

もちろん違うところはたくさんある。
先ず天候である。
今の時期、かたや紺碧の空から陽光が降ってくるが、他方は鉛色の空から雪が降ってくる。
桜や菜の花が咲き誇るのに対し、大地が雪で覆われていて生命の息吹が感じられない。
魚の種類や旬もまったく違う。
伊豆半島と能登半島は縁遠い存在である。

そこで佐藤氏は、縁遠い両地域が、交流を図ったらどうかと提案する。
伊豆-能登サミットである。
自分にあって相手にないもの、逆に相手にあって自分にないもの。
こういう学びあいの交流が双方にとって有益ではないか。

三島駅北口にある「大岡信ことば館」で『家持と女たち』という展示をやっている。
Photo_4
「大岡信の万葉集展」というシリーズ企画の第4回である。

Img_22932
⇒2011年7月 9日 (土):「大岡信ことば館」における『私の万葉集とことば』座談会
⇒2012年8月26日 (日):大岡信『二人の貧窮者の問答』/私撰アンソロジー(15)

家持は『万葉集』の編集に深く関わった。
⇒2008年6月 7日 (土):『万葉集』の編纂過程
⇒2008年6月 8日 (日):大伴家持とその時代
2008年7月11日 (金):大伴家持の生涯

家持は、天平18(746)年から天平勝宝3(751)年まで、越中守として赴任した。
上記展示の中に越中の国庁の位置図がある。
現在の高岡市伏木で、小矢部川の河口近くである。
小矢部川が、家持の歌に出てくる射水川である。
Img_2296

国庁があった付近は、伊豆半島で言えば沼津の付近である。
旧制沼津中学(現沼津東高校)出身の大岡さんに相応しい場所だ。
両半島の交流の材料の一つとして、大岡さんの万葉集論はどうだろうか、などと妄想した。

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2013年2月18日 (月)

「日本」という国号はいつから使われたか?/やまとの謎(80)

日本という国号の表記はいつ始まったのか?
高森明勅『謎とき「日本」誕生』ちくま新書(0211)の第一章は、「国号「日本」はいつ始まったのか」と題されている。
高森氏は、日本という国は、古代以来国の名前が変わらないでずっとつづいている、という意味で、世界においても稀有な国家であるとしている。
そしてこの国号がいつ始まったのかを問う。

日本という国号がしっかり確認できる早い例として、『日本書紀』が挙げられる。
舎人親王らの撰で、西暦720(養老4)年元正天皇に献じられている。
この官撰の歴史書(正史)の第一号が書名に「日本」を冠していたことは間違いないが、712(和銅5)年にできたとされる『古事記』には、1か所も「日本」は出てこない。

それでは、712年~720年の間に、「日本」という国号の表記が確立したのか?
高森氏は、そう速断してはならない、と書いている。
編集の方針が異なるからだ。
『日本書紀』は国際的な意識を背景としているのに対し、『古事記』には対外的な感覚が希薄であると考えられるからだ。

それでは、『古事記』成立以前に、「日本」という国号はあったのか?
高森氏は、Yesという。
なぜならば、702(大宝2)年に遣唐使として、楚州塩城県に到着した粟田真人らは、「日本国の使いである」と言っている。
日本の国号について、Wikipediaでは以下のように解説している。

「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の安倍氏に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は劉徳高や郭務悰、司馬法聡らの使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。但し『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている。

しかし、唐の都長安に到った真人らは、倭から日本への国号の変更について、明快な説明をしなかった。
中国の史書はさまざまな異説を載せているからである。
真人らは、最重要任務ともいうべき国号の変更について、なぜ明快な説明をしなかったのか?

ここで高森氏は、逆に「倭国」という言い方がいつまで行われていただろうか、と問う。
そして、『日本書紀』天武三年三月七日条に次のようにあることに注目する。

凡そ銀の倭国にあること、初めてこの時に出ず。

『日本書紀』は、わが国のことを原則的に「倭国」とは表記していない。
例外的な個所であるが、これは原資料の表記が遺存したものと考えられる。
とすれば、天武三年(674年)ころまでは、「倭国」が使われていたと考えられる。
大宝元年に完成した大宝令には、「日本」という国号が使われていたことが、注釈書『古記』から明らかである。
とすると、674年から701年年の間のいずれかの時点ということができる。

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2013年2月17日 (日)

体罰、懲戒、指導/「同じ」と「違う」(55)

学校教育法上は、体罰は禁止されている。
しかし、現実に体罰は後を絶たない。
それは、平成19年2月5日付の文科省の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」の「別紙」の「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」における「1 体罰について」の記述に起因していると思われる。
⇒2013年2月13日 (水):体罰はいかなる場合もゆるされないか?/花づな列島復興のためのメモ(192)

文科省の「通知」には、以下のように記述されている。

(4) 児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではなく、・・・・・・和60年2月22日浦和地裁判決)などがある。
(5) 有形力の行使以外の方法により行われた懲戒については、例えば、以下のような行為は、児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常体罰には当たらない。
○ 放課後等に教室に残留させる(用便のためにも室外に出ることを許さない、又は食事時間を過ぎても長く留め置く等肉体的苦痛を与えるものは体罰に当たる)。
○ 授業中、教室内に起立させる。
○ 学習課題や清掃活動を課す。
○ 学校当番を多く割り当てる。
○ 立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。
(6) なお、児童生徒から教員等に対する暴力行為に対して、教員等が防衛のためにやむを得ずした有形力の行使は、・・・・・・体罰には該当しない。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/dai1/siryou4-2.pdf

この「通知」に例示されている「起立させる」、「清掃させる」、「当番を割り当てる」、「叱って席につかせる」などは、言ってみれば「当たり障りの無いもの」である。
現実の現場では、「叱っても席につかない児童はどうするか」、「スポーツの指導で有形力で示さなければならない場合はどうするか」等の微妙な問題が起きてくる。
体罰、懲戒、指導を明確に区別することは、果たして可能だろうか?

行為の類型では、おそらく区別することは難しいだろう。
これらを区分するのは、両者の主観ではなかろうか?
両者の主観が一致していれば、問題は起きにくい。
しかし、両者の主観が乖離していれば、片方は指導のつもりでも、他方は暴力と受け取るのではないか。

問題になっている女子柔道日本代表の園田隆二監督も、彼の主観では指導のつもりだった。

暴言や暴力などのパワーハラスメントを実際に行ったのかについて、園田監督は「事実です。わたし自身は、暴力という観点で、選手に手を上げたという認識は全くありません。選手に対して、ここでひと踏ん張りしてほしいとか、そこで頑張ってほしいところっていう気持ちがありまして、1つ乗り越えてもらいたい部分、精神的な部分もありますし、そういうところを1つ乗り越えてもらうために、手を上げてしまったっていう事実はあります」と語った。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00239659.html

彼は、選手たちに勝ってほしいという気持ちで厳しい稽古をする中で、その気持ちが一方通行だったことが衝撃だったと語っている。
大阪市立高校の部活の指導者についても同様ではなかろうか_?

いわゆるセクハラの問題についても、相手の嫌がる行為はクロだといわれる。
しかし、その線引きはなかなか微妙である。
次のような説明をしているサイトがあった。

たとえば「君はストッキングなんか穿かない素足の方がきれいだし、雰囲気に合っているね」という発言があったとする。この同じ台詞を、韓流スターのような、職場のあこがれのプリンスから言われたら、彼女は、どんなに寒くてもこの先二度とストッキングを穿かないだろう。
 逆にこの同じ台詞を、しょっちゅう、隙あらばお尻を触ったり、失礼なことばかり言う人が言ったら、どうだろうか。

http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-2280.html

基本的には常識で判断するしかないと思うが、世の中の常識自体が変わってきているので住みにくい。

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2013年2月16日 (土)

『万葉集』における表記の多様性/やまとの謎(79)

『万葉集』にはいくつかの謎がある。
そのうちのいくつかについては、「やまとの謎」の例としてすでに挙げた。
⇒2010年12月20日 (月):『万葉集』とウィキリークス/やまとの謎(20)
⇒2011年7月12日 (火):『万葉集』を書いたのは誰か?/やまとの謎(34)
⇒2011年11月27日 (日):柿本人麻呂の時代と日本語/やまとの謎(49)

特に、『万葉集』が書かれた時代は、日本語の表記方法が整備されつつあった時代ということになる。
先ずは万葉仮名として、日本語の音韻を書き記す工夫を行った。
漢字という表意文字を、意味を捨象して表音文字として使用するというイノベーションである。
⇒2008年11月15日 (土):音韻と表意文字
⇒2008年2月 9日 (土):上代特殊仮名遣い

それが「仮名・かな・カナ」として整理され、日本語は豊かな表記方法を持つに至る。
⇒2012年11月29日 (木):日本語の表記の豊かさと仮名の創造/知的生産の方法(26)
⇒2010年7月10日 (土):日本語のコミュニケーション/梅棹忠夫さんを悼む(3)

歴史読本編集部編『最新 日本古代史の論争51 』新人物往来社(1206)に、古橋信孝氏が、『『万葉集』をめぐる謎』という項目を書いている。
その中に、「なぜ表記の方法が多様なのか」という項目がある。
古橋氏の論旨は大要以下の通りである。

『万葉集』の表記には2通りがある。
1つは、漢字の意味を使ったもの(訓仮名)であり、もう1つは漢字の音を使ったもの(音仮名)である。
ほとんどが音仮名で書かれているのは、東歌、防人歌の東国の方言を活かそうとしたものが中心である。

音仮名がいわゆる万葉仮名であり、Wikipediaでは以下のように説明している。

楷書ないし行書で表現された漢字の一字一字を、その義(漢字本来の意味)に拘わらずに日本語の一音節の表記のために用いるというのが万葉仮名の最大の特徴である。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれる
・・・・・・
『万葉集』や『日本書紀』に現れた表記のあり方は整っており、万葉仮名がいつ生まれたのかということは疑問であった。正倉院に遺された文書や木簡資料の発掘などにより万葉仮名は7世紀頃には成立したとされている。実際の使用が確かめられる資料のうち最古のものは、大阪市中央区の難波宮(なにわのみや)跡において発掘された652年以前の木簡である。「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」と和歌の冒頭と見られる11文字が記されている。
しかしながらさらに古い5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣には「獲加多支鹵(わかたける)大王」という21代雄略天皇に推定される名が刻まれている。これも漢字の音を借りた万葉仮名の一種とされる。漢字の音を借りて固有語を表記する方法は5世紀には確立していた事になる。
平安時代には万葉仮名から平仮名・片仮名へと変化していった。平仮名は万葉仮名の草書体化が進められ、独立した字体と化したもの、片仮名は万葉仮名の一部ないし全部を用い、音を表す訓点・記号として生まれたものと言われている。
万葉仮名を「男仮名」と呼ぶのは、和歌を詠む時など私的な時や、女性に限って用いるものとされていた平仮名が「女手」とされたのに対し、公的文章に用いる仮名として長く用いられたためである。

万葉仮名のくずし字から平仮名ができた。
変体仮名とも呼ばれ、以下のようなものである。
Ws000000
現在でも蕎麦屋の表記などで使われている。
300pxsoba_restaurant_by_nyaa_birdie
変体仮名

私は、家の近くの赤橋の字が最初読めなかった。
Akabasi_01
三島市観光情報

「は」は「者」という字のくずし字であるが、知らない人には「む」にしか読めない。
巻17以降は、大伴家持の歌日記のようであるが、やはり音仮名で書かれている。
何故だろうか?

古橋氏は、家持も日本語の音を活かそうとしたのではないか、とする。
日本語を書きとめようとしたとき、散文は漢文に翻訳して書いたが、歌をは一字一音の音仮名で表記した。
『古事記』『日本書紀』はそういう表記をしている。

和歌は、枕詞など口誦を装う様式として、柿本人麿が確立した。
それは文語体としての漢詩文に対する口語体としての和文の成立であった。

家持は、人麿の確率した和歌が文語体化してきていると感じたのではないか。
それで、口語体の回復を考えたのであろう。
古橋氏は、このように推論する。

口誦性は、短詩型文芸にとって重要な要素であるとかねがね感じていた。
記憶を定着させる作用は、口誦の良さが決め手ではなかろうか。
⇒2011年7月 3日 (日):長谷川櫂『震災歌集』/私撰アンソロジー(3)
⇒2013年1月 2日 (水):貞観地震の津波は「末の松山」を越えたのか?

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2013年2月15日 (金)

万葉百人一首/私撰アンソロジー(18)

『万葉集』には4516首の歌が収められている。
作者の総数は約450名とされる。
⇒2008年6月 5日 (木):『万葉集』とは?

『万葉集』に収められた歌が詠まれた時代は以下のように区分されている。
Ⅰ.伝承期
仁徳朝~推古朝
Ⅱ.第1期(開花期)
舒明朝(629~641年)から壬申の乱(672年)までの期間。
Ⅲ.第2期(最盛期1)
壬申の乱の平定後(672年)から平城京遷都の和銅3(710)年までの期間。
Ⅳ.第3期(最盛期2)
平城京遷都から天平9(737)年までの期間。
Ⅴ.第4期(爛熟期)
天平10(738)年から天平宝字3(759)年までの期間。

この時代は、一言で言えば日本という国のアイデンティティが確立していく時期であった。
河上徹太郎の「青春は感受性の形式を確定する時期」という言葉を援用すれば、『万葉集』の書かれた時代は、日本人の「感受性の形式が確定する」時代だった。
⇒2008年5月27日 (火):偶然か? それとも……③『雲の墓標』
⇒2008年6月 6日 (金):『万葉集』とは?…②日本という国の青春期

膨大な『万葉集』には、秀歌・名歌が少なくなく、成立以来、多くの日本人に愛唱されてきた。
この中から数首を選択するというのは無謀な試みではあるが、すでに『万葉集』を母集団としたアンソロジーも出版されている。
ここでは、その中の一冊・山城賢孝『口ずさんで楽しむ万葉百人一首 』から、私の好みで7首を選んでみた。
Photo_2

有間皇子は、孝徳天皇の遺児で阿倍内麻呂の孫である。
658(斉明4)年、謀反を計画した容疑で捕らえられ、中大兄の命令で処刑されてしまう。
⇒2008年3月12日 (水):天智天皇…③その時代(ⅱ)
謀略の匂いが芬芬であるが、挽歌は有間皇子からはじまっている。
2008年9月27日 (土):弓削皇子の刑死…梅原猛説(ⅶ)

大伯皇女の歌は、死んだ弟の大津皇子を偲んで詠んだ歌である。
弟を思う気持ちが痛々しい。
⇒2007年12月24日 (月):当麻寺…①二上山
⇒2008年1月30日 (水):大来皇女

志貴皇子が『万葉集』に遺した歌はわずかに6首に過ぎないが、いずれも秀歌と評価されているものである。
⇒2008年10月 5日 (日):『万葉集』と志貴皇子
掲出歌については、、“むささび”をどう捉えるかが解釈のカギになる。
“むささび”の歌は、動物のムササビそのものを詠んだものなのか、それとも“むささび”は寓喩として使われているのか?
ムササビは、移動するときには、木の一番高いところから、滑空してつぎの木に飛ぶ。
だから、猟師は、ムササビが木末に駆け登ろうとするところを狙い撃ちして射止めるといわれる。
はたして、“むささび”は、大津皇子の寓意なのか、あるいは梅原猛氏のいうように弓削皇子の寓意なのか、はたまた志貴皇子自身の寓意なのか。
⇒2008年10月 4日 (土):“むささび”の歌は寓意なのか?

私は、志貴皇子自身という説を採りたい。
大友皇子や大津皇子などの宿命を眺めつつ、自らの位置を見つめて自戒する志貴皇子ということである。
この歌の次には、長屋王の歌が置かれている。
⇒2008年10月 3日 (金):志貴皇子の“むささび”の歌の置かれた位置
大浜巌比古『万葉幻視考』集英社(7810)は、「この歌が先にあったにもかかわらず、またしても『むささび』となってしまった人よ、という編者嘆きを私はこの配列に見る」と書いている。
⇒2008年10月13日 (月):志貴皇子の歌の二重性

柿本人麿の歌は、草壁皇子の薨去を詠んでいるのではないかという説がある。
原表記を見てみよう。

東野炎立所見而反見為者月西渡  (1-48)

小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)では、反歌4首が、「起承転結」の構成にあるという那珂通高氏の説に拠りつつ、48番歌の「転」について、以下のように考察している。

私は、これは明らかに「日=軽皇子・月=草壁皇子」を象徴する人麻呂の意匠であり、暗喩であるとはっきり言い切れると思う。

48番の「月西渡」は、現在「月傾きぬ」と訓じられている。
小松崎氏は、この歌(だけ)が叙景歌であるはずがなく、「月」すなわち「草壁皇子」の「西渡」すなわち「死(薨去)を意味している、としている。
つまり、安騎野は、草壁皇子の「思い出の地」や「記念の地」というよりも「臨終の地」と考えるべきではないのか、ということである。
⇒2008年8月29日 (金):安騎野の朝

さらに小松崎氏は、人麻呂の歌は告発の意匠ではないか、とする。
つまり、軽皇子による草壁皇子殺害の可能性も含めて、ということである。
⇒2008年8月30日 (土):皇子たちの鎮魂歌

弓削皇子は、梅原猛『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、高松塚の被葬者に比定された。
そうかどうかは置くとしても、『万葉集』は、大宝元(701)年前後の風潮を、累々たる屍のイメージで表現しようとした、とする梅原説は納得的である。
⇒2008年10月 1日 (水):紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ)

この辺りの解釈は、『万葉集』の性格を理解する上のキモであると考えられる。
特に上記の第2期、第3期には、悲劇の皇子たちが多いことが改めて理解される。
大浜巌比古氏は、『万葉集』とは、非命に斃れた亡霊たちにたむける鎮魂の歌集である、としたが上記の撰については当てはまっているといえよう。
⇒2008年7月18日 (金):『万葉集』とは?…③大浜厳比古説

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2013年2月14日 (木)

円安と経済成長の両立は可能か?/花づな列島復興のためのメモ(193)

アベノミクスという言葉が流行っている。
安倍晋三首相が、第2次安倍内閣において掲げた一連の経済政策を指している。
デフレ経済からの脱却を目指し、インフレターゲットを設定して、大胆な金融緩和措置を講ずるという金融政策を柱にしている。

素朴な疑問としては、日本銀行の独立性はどうなるのか、ということがある。
日本銀行法は次のように定めている。

(日本銀行の自主性の尊重及び透明性の確保) 
第三条  日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。
  日本銀行は、通貨及び金融の調節に関する意思決定の内容及び過程を国民に明らかにするよう努めなければならない。

安倍首相は、総選挙の時から、従来の日銀の政策に批判的であった。

 世論調査で首相の最有力候補とみられている自民党の安倍晋三総裁(58)は、日銀に2%のインフレ目標を受け入れるよう求めている。これは日銀がめどとして公表している1%の2倍だ。デフレ下にある日本の消費者物価指数はゼロ%近辺かゼロ%を下回る水準となっている。「幸いにも来年は日銀総裁の交代時期だ」と安倍氏は述べた。
 新政権は9人で構成される日銀政策委員の過半数を、金融緩和にもっと積極的な人材に交代させることが可能だ。
 安倍氏は日銀が自身の要求に従わない場合、1998年に改正・施行された日銀法を見直すことも視野に入れていると表明している。これは中銀の独立性を良しとする現在の経済学的常識に逆行する脅威だ。再選を気にする政治家達は、将来のインフレ懸念よりも、目先の経済成長を重視する傾向があると考えられている。

衆院選で脅かされる日銀の独立性

既に白川総裁が任期を前にして辞任を表明するなど、政府のテクニカル・ノックアウト勝ちとなっている。
後任がどうなるかは未定だが、もちろん国会承認人事の1つである。
公正取引委員長の国会同意人事案が事前報道されたということで一悶着あったばかりである。

Photo_2
 民主党が豹変(ひょうへん)したのは、輿石東参院議員会長が主導した「抵抗優先」の国会対策に批判が高まったからだ。そもそも、杉本氏の人事は「民主党が与党時代に各党に根回ししていた案」(幹部)という負い目もある。池口修次参院国対委員長も13日、今さらながら「もともと(事前報道が)賛否に影響を与える話でない」と本音を漏らした。
 ただ、今回の混乱で明らかになったのは、野党がその気になれば同意人事の手続きをストップできるという「事前報道ルール」の破壊力だ。

http://sankei.jp.msn.com/smp/politics/news/130213/plc13021323170027-s.htm

アベノミクスは、円安・株高を招来し、世論の支持率も高いようである。

Photo_3 安倍内閣の支持率は昨年12月の発足以来、上昇を続け、支持率が下がり続けることが多かった最近の内閣と明らかに違う傾向を示している。
 デフレ脱却などを目指す経済政策「アベノミクス」が評価されていることに加え、これまでの政権運営で目立った失点がなかったためとみられる。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130211-OYT1T00424.htm?from=ylist

日本の上場企業の多くは、製造業が占めている。
大部分は輸出産業であり、円安が有利である。
その意味で、アベノミクスは現時点では、すなわち(超)短期的には、成功と言っていいであろう。
しかし、アベノミクスの「3本の矢」は、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起す成長戦略である。
民間投資は需要があってこそ、実現する。

自国通貨を弱体化させる政策で、本当に成長が可能なのか?
金融を緩和し円安に誘導するというのは、お札をたくさん刷って(発行して)お札(通貨)の価値を下落させるということである。
私には、その理路が分からない。

円安で喜ぶ輸出主導の製造業というのは、概して言えばこれからの衰退産業であろう。
衰退産業を保護しても有効需要は生まれない。
増税とインフレが相まって、中長期的にはむしろ倹約志向がたかまるのではないか、つまり有効需要の減少である。
結果として、経済成長は阻害されるのではないか。

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2013年2月13日 (水)

体罰はいかなる場合もゆるされないか?/花づな列島復興のためのメモ(192)

体罰の問題が噴出している。
運動の名門高校から発火し、まさに燎原の火の如く燃え広がった。
女子柔道日本代表の問題も、パワハラといわれていることは、体罰的なことであろう。
⇒2013年2月 3日 (日):「プロセス」と「結果」の関係/花づな列島復興のためのメモ(187)
⇒2013年2月9日(土):コーチングと体罰/花づな列島復興のためのメモ(191)

これから体罰にどう向き合うか、いろいろな意見が出ると思われる。
体罰とは何か?
Wikipediaでは、次のようである。

体罰は、父母や教員などが、子供や生徒などの管理責任の下にあると考えられる相手に対し、教育的な名目を持って、肉体的な苦痛を与える罰を加えることを指す。この場合の苦痛とは、叩くなどの直接的なものから、立たせたり座らせるなどして動くことを禁ずるなど間接的なものも含む。体罰に明確な定義はなく、一般的に身体刑や虐待や暴行や訓練とは異なる行為とするが、該当することもある。軍隊や部活動等における先輩から後輩への指導が肉体的苦痛を伴う時も、体罰とされることがある。

ここで「いかなる場合でも体罰は許されないか?」という疑問が湧く。
学級が荒れて、授業ができない、いわゆる学級崩壊や死に至るイジメなどを、指導できるのか?
問題は生徒だけではない。モンスター・ペアレントといわれるような保護者もいる。
「出席停止処分」という制度はあるけれども、義務教育でこれを実施すると必ず「教育を受ける権利を奪った」との抗議があるらしい。

学校教育法の規定は、次の通りである。

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

明確に体罰を禁止している。
したがって、体罰は制度的に存在しえないはずである。

しかし、平成19年2月5日付の文科省の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」の「別紙」の「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」において、「1 体罰について」で、以下のように説明されている。

(4)児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではなく、裁判例においても、「いやしくも有形力の行使と見られる外形をもった行為は学校教育法上の懲戒行為としては一切許容されないとすることは、本来学校教育法の予想するところではない」としたもの(昭和56年4月1日東京高裁判決)、「生徒の心身の発達に応じて慎重な教育上の配慮のもとに行うべきであり、このような配慮のもとに行われる限りにおいては、状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力の行使が許容される」としたもの(昭和60年2月22日浦和地裁判決)などがある。

どうも回りにくい表現であるが、「場合によっては体罰もOK」と解釈するのが自然であろう。
とすれば、「場合によっては」の「場合」の解釈が問題になるはずである。

そして、「場合」の解釈は、日本社会では「空気」によって決まる、というのが山本七平の卓見である。
「空気」とは何か?
その場の雰囲気であり、その背景にある社会通念とか世の大勢である。
⇒2008年4月28日 (月):山本七平の『「空気」の研究』

空気は目に見えない。
しかし、きわめて強い力を持っている。
気の弱い人間はそれに抗することができない。

密室のような閉鎖社会では、「空気」はどのように作用するか?
不可視であるが故に、力の強い側の恣意になることは容易に推測できる。
日本代表チームのような一流の選手でも、反対はできない。
今回のように、決死の覚悟で、一致団結した行動に出る以外にはないであろう。
「万国の労働者よ、団結せよ!」と同じことである。

校内暴力やいじめなどにおいて、「有形力」が必要であるようなケースもあるかも知れない。
しかし、透明性のある形で行われるべきである。
そうすれば、恣意的な判断がまかり通ることもなくなるであろう。
「有形力」を行使される側も納得できるのではないか。

私は学校現場の事情に詳しくないが、今年度から武道が必修化されたと聞く。
武道の中でも柔道が最もポピュラーであり、実際に話題になっているのは柔道が中心であるようだ。
柔道界が、女子日本代表や内村容疑者のような不祥事が続くとすれば、武道の必修化そのものを見直すことにならないか。

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2013年2月12日 (火)

地口における「キレ」と「コク」/知的生産の方法(36)

地口という言葉遊びがある。
「デジタル大辞泉」では、次のような解説が載っている。

じ‐ぐち〔ヂ‐〕【地口】

1 世間でよく使われることわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作りかえる言語遊戯。「下戸(げこ)に御飯」(猫に小判)などの類。上方では口合いという。
道路に沿った敷地の長さ。また、家屋の間口。

じぐちあんどん【地口行灯】
 
江戸中期ごろから流行した、地口を書いた行灯。多くは戯画を描き添え、祭礼の折などに路傍に立てたり軒先に掛けたりした。

各地で、町興しとして、地口行灯が点されるイベントが行われている。
三島市でも、中心街で「三島宿 地口行灯」が7〜12日に開かれた。
今年は川柳と合わせて1277点の応募があり、地口部門大賞には三島南高の水越愛さんの作品「一食即髪のクッキー」(元句・一触即発の空気)が、準大賞には日大三島高の弦間彩華さんの「訳あり物ばかり」(元句・竹取物語)が選出された。
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地口の評価軸はどう考えられるか?
三島市の場合は知らないが、地口のそもそもの趣旨からして、元句がよく知られていることわざや成句であって、その元句とかけ離れた内容になっていること、発音が元句と似通っていることなどが挙げられよう。
大賞作も準大賞作も悪くない出来だとは思うが、抜群というわけではなさそうである。

たとえば、次の作などは、大賞に勝るとも劣らないと言えないだろうか?
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「金は転写のまがい物」とある。
元句は、「金は天下の回りもの」で、よく知られているし、音も十分に似ているだろう。

あるいは、次の作はどうであろうか?
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「党首選をリードするのは保守安倍、右寄り左撃ちやはり首相」である。
元句は、「投手戦をリードするのは捕手阿部、右投左打やはり主将」であった。
発音は実にうまく音を捉えている。
しかし、元句が「世間でよく使われている」という条件を満たしていない?

隣の「押忍無礼」というのも面白いと思った。
確かにオスプレイは礼儀正しいとは言いかねるのではないか。
「キレ」と「コク」という視点で考えると、「キレ」は音の嵌り具合、「コク」は作品の自立性(元句からの意味の乖離度合)ということになるであろうか?

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2013年2月11日 (月)

先見性の故に陥った罠・江副浩正さん/追悼(27)

ルクルート社の創業者江副浩正氏が亡くなったことが報じられている。
真にベンチャー精神に富んだ企業(起業)家だったと思う。

 8日に肺炎のため東京都内の病院で死去したリクルート(現リクルートホールディングス)元会長の江副浩正(えぞえ・ひろまさ)さん。76年の人生は、新しい情報ビジネスを開拓するなど「情報化時代の寵児(ちょうじ)」と呼ばれる一方、戦後最大級の汚職事件、リクルート事件で有罪判決を受けた。晩年は「社会に貢献したい」とオペラ歌手の育成など文化活動に取り組んだ。
 江副さんは、東大在学中に手がけた学生新聞の広告事業を基に、一代で情報産業グループを築き上げた。07年に出版した自著「リクルートのDNA」(角川oneテーマ21)では、「成功する起業家の二十カ条」の一つとして、「若くかつ就職しないで起業すること」と企業家としての持論を披露するなど、情報ビジネスの生みの親としての成功体験を振り返っていた。
 江副さんの下で約10年間勤め、民間出身者として杉並区立和田中学校校長を務めた藤原和博さんは江副イズムを受け継いだうちの一人。藤原さんは「リクルート出身者は現在、さまざまな分野で経営者などとして活躍している。それは江副氏がこれだけ人材の採用や育成に力を入れたからだ」と話す。

http://mainichi.jp/select/news/20130209k0000e040169000c.html

私は、江副さんは直接存じ上げない。
しかし、リクルート出身の学者、経営者は何人かの方に話を聞いたことがある。
上記の藤原氏と同様に、いずれも、リクルートという会社に在籍していたことを誇りにしていた。
いわゆるリクルート事件が大きく報じられた跡である。

戦後最大の贈収賄事件ともいわれるリクルート事件の発端は、朝日新聞のスクープだった。
1988年(昭和63年)6月18日、川崎駅前再開発における便宜供与を目的として小松秀煕川崎市助役へ、リクルート・コスモス株が譲渡されていたことが報じられた。
同社は、譲渡の時点では未公開であったが、1985年(昭和60年)10月30日に店頭公開され、譲受人は差額益を手にした。

公開を予定している株式を公開前に譲渡すること自体は、当たり前の商行為である。
そこに利権の構造が絡んでいることが発覚したわけである。
未公開株の譲受人の名前が、マスコミ各社の後追い報道によって明らかにされていった。

取引相手は、1984年12月20から31日の期間に39人、1985年(昭和60年)2月15日に金融機関26社に、4月25日に37社および1個人わたると言われる。
中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮沢喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長等々。
森喜朗は約1億円の売却益を得たとされ、時の大蔵大臣である宮澤は「秘書が自分の名前を利用した」と釈明した。

私は、この事件の全容について、詳しくは知らない。
しかし、時はバブル経済の最高潮の時期であり、私の在籍していた会社も株式公開を計画していたので、一定の興味は持ってみていた。
率直な印象は、多くの政治家が、「秘書が・・・」とか「妻が・・・」といった弁解を口にしたのを見聞し、信用できない人たちという印象を拭えなかった。

結局、江副氏は、東京地裁で懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受け、それで確定した。
その後、保有するリクルート株をダイエーに売却し、私財を投じて、財団法人「江副育英会」を設立して、文化活動に取り組んだ。
今こそ日本には、江副氏によって蒔かれ、育てられたベンチャー精神が必要だと思う。
見通しが利きすぎたがゆえに嵌った罠といえよう。
合掌。

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2013年2月10日 (日)

カワセミと放射性物質/原発事故の真相(57)

三島市の市鳥は、「カワセミ」である。
Wikipedia によれば、次のようなとりである。

Photo_3カワセミ(翡翠、翡翆、魚狗、川蟬、学名:Alcedo atthis)は、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ属に分類される鳥の一種。水辺に生息する小鳥で、鮮やかな水色の体色と長いくちばしが特徴で、ヒスイ、青い宝石、古くはソニドリ(翠鳥、鴗〈「立」偏に「鳥」〉)と呼ばれることもある。
全長は17 cmほどで、スズメよりも大きいが、長いくちばし(嘴峰長3.3-4.3 cm)のため体はスズメほどの大きさ。日本のカワセミ科のなかでは最小種となる
・・・・・・
カワセミの青色は色素によるものではなく、羽毛にある微細構造により光の加減で青く見える。これを構造色といい、シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理。この美しい外見から「渓流の宝石」などと呼ばれる。特に両翼の間からのぞく背中の水色は鮮やかで、光の当たり方によっては緑色にも見える。漢字表記がヒスイと同じなのはこのためである。

三島市の源兵衛川は、市民グループにより美しい水環境が維持されている。
平成の名水百選」に選ばれたり、フジサンケイグループが主催する「地球環境大賞」の「環境地域貢献賞」を受賞している。
⇒2009年4月24日 (金):水の都・三島と地球環境大賞

その源兵衛川の水の苑緑地は、カワセミの観察地点となっている。
休日になると、野鳥観察を楽しむカメラマンたちが、大口径のカメラを携えて集まってくる。
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東京新聞の2013年2月3日の「こちら特報部」欄に、放射能汚染の影響を調べる目的で、カワセミの生態を記録しているカメラマンのことが載っていた。
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カワセミが棲息している池に設置されている積算線量計は12年春に故障したが、その時点で積算線量は35mSv(ミリシーベルト)だった。
それは、国際放射線防護委員会が定める平常時の上限の30倍以上である。

放射線のカワセミの生態への影響はどうか?
4月ごろに産卵するのが7月になっても巣にヒナの餌を運ぶ様子は見られなかった。
放射性物質が原因かどうかは分からないが、このようなデータの公的な収集体制はどうなっているのであろうか?

地域の生物に異変が見られ、やがて人間にも異変が生じる。
食物連鎖の頂点にいる人間への影響は、一般に遅延事象として現れる。
水俣病の教訓である。
⇒2012年8月25日 (土):水俣病の因果関係/因果関係論(19)
⇒2012年8月 2日 (木):水俣病と福島原発事故/「同じ」と「違う」(49)/因果関係論(18)

われわれは、水俣病から何を学んできたのだろうか?

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2013年2月 9日 (土)

コーチングと体罰/花づな列島復興のためのメモ(191)

運動部の部活動や運動選手の指導のあり方が大きな問題になっている一方で、コーチングという言葉が、ビジネス界では広く使われるようになっている。
歴史的に見れば、スポーツにおけるコーチングの方がずっと先行し、ビジネスについて言われるようになったのは比較的新しい。
どうして運動選手の育成という長い歴史を持っている分野で、指導法が混迷しているのか?
また、いわゆる体罰の問題は、コーチングの観点では、どう捉えられるのだろうか?

コーチングの研修のサイトには、以下のようなことが記されている。

「コーチ(Coach)」という言葉が登場したのは1500年代のことで、もとは「馬車」という意味。そこから「大切な人をその人が望むところまで送り届ける」という意味が派生し、1840年代には、英国オックスフォード大学で、学生の指導をする個人教師のことを「コーチ」と呼ぶようになった。その後、スポーツの世界、そしてマネジメントの世界へと広がり、1990年代にアメリカでコーチの養成機関が相次ぎ設立されるなど、その役割の意味や価値が広く世の中に認められるようになった。

つまり、コーチ(ング)は、専門的なスキルを必要とするものであり、その養成のための機関ができている、ということである。
そのスキルに基本はどういうものか?

コーチングの3原則というものがあるという。
1.双方向のコミュニケーションであること(インタラクティブ)
2.継続的にコミュニケーションを交わすこと(オンゴーイング)
3.相手にあったコミュニケーションスタイルをとること(テーラーメイド)

上記をみれば、コミュニケーションのやり方であると理解できる。
柔道の女子日本代表の問題について、朝日新聞2013年2月7日に、山口香さんへのインタビュー記事が載っている。
山口さんは、「女三四郎」のニックネームで呼ばれた元世界王者で、筑波大大学院の准教授である。

印象に残るポイントをピックアップしてみよう。

1.彼女たち(15人のトップ選手)の行動は、「気づき」の結果である。
何のために柔道をやり、何のために五輪を目指すのか?
山口さんは、今回の一番のポイントだという。
村山昇氏が『プロセスにこそ価値がある (メディアファクトリー新書)』(1206)で示した下図の構造の通りであろう。
Photo
⇒2013年2月 3日 (日):「プロセス」と「結果」の関係/花づな列島復興のためのメモ(187)

2.全柔連に欠けているのはダイバーシティである。
ダイバーシティ(diversity)とは「多様性」の意味。
現代は多様性の時代で、いろんな視点が必要。全柔連の理事に女性がいないが、女性の視点も1つだ。
外部からの登用でも、他のスポーツでも、外国人でもいい。

ただ、日本人とダイバーシティについては、次のように言われている。
「日本は同質を重んじる文化」である。
日本語の「違う」という言葉は、different(異なる)の意味とwrong(正しくない)の両方の意味があるが、「異なるのは悪いことだ」という価値観が根底にあるといわれる。
ダイバーシティを、日本人が真に理解、賛同し、推進するのは簡単ではない。

山口さんは、キーワードは、「リスペクト」と「オープンマインド」であるという。
柔道に限らず、運動・スポーツでは、強いものが絶対になりがち。先輩後輩という関係もある。
しかし、「強い-弱い」を越えて、相手を尊敬し、広く開かれた組織として多種多様な意見を取り入れていくことが大切。

体罰や暴言が、コーチングと無縁であることは明らかであろう。

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2013年2月 8日 (金)

詐欺事件の横行と高齢社会/花づな列島復興のためのメモ(190)

アフガニスタン通貨への投資詐欺容疑で、利殖詐欺グループが静岡県の警察に逮捕された。

 大仁、三島、沼津の3署と県警生活経済課は5日、詐欺の疑いで東京都品川区東五反田、会社役員の男(30)、同区中延、会社役員の男(26)、栃木県那須塩原市、無職の男(25)の3容疑者を逮捕した。
 逮捕容疑は共謀して2012年6月、営業実体のない外貨取り扱い会社「ケーケーコーポレーション」のパンフレットを滋賀県内の無職女性(69)に送った後、「封筒が届いた人にはアフガニスタン通貨を買う権利がある」「投資額1千万円で年利12%、3千万円で年利16%」などと虚偽の内容で電話勧誘し、1千万円をだまし取った疑い。3人は容疑を否認しているという。
 大仁署などによると、30才の会社役員の男は仲間が集めた現金の回収、26才の会社役員の男はパンフレット類の配布などに携わり、無職の男は被害者から現金を直接受け取る役割だったという。会社役員の男2人は都内に登記したペーパーカンパニーの役員にも名を連ねるなど、グループの中心的なメンバーだったとみられる。
http://www.at-s.com/news/detail/474564272.html

こんな詐欺が横行しているのが信じがたい。
少し冷静に考えれば、10%以上という好条件の投資話が、封筒が届いた人という条件で舞い込むはずがない。
69歳といえば、普通は思慮分別がついているだろう、と思う。

「封筒が届いた人には権利がある」という選別の仕方がイージーではないか?
なぜ自分が権利者として選ばれるのか?
「年利12%とか16%」などは、今どき有利過ぎる条件ではないか?
1つでも疑わないというのは、不自然であろう。

言葉を変えて言えば、アフガニスタン通貨投資詐欺などの被害者は、認知力に問題があるといえよう。
欲に目がくらんだためか、病気等でボケているか、である。
これに比べれば、息子を騙る振り込め詐欺などは、同情すべき点があるようにも思うが、ちょっとした注意で防げないものか。

詐欺というのは、山崎和邦『詐欺師と虚業家の華麗な稼ぎ方 人はこうして騙される』中経出版(0511)によれば、以下のようなプロセスを経る。
第一段階:サギろうとする相手(これを「カモ」と称する)を、ごく自然に錯覚に導くことである。
⇒2009年5月 4日 (月):詐欺の第一段階としての錯覚誘導
第二段階:カモが誘導された錯覚に基づいて意思決定するように仕向けることであり、これを「瑕疵ある意思決定」という。
⇒2009年5月 5日 (火):詐欺の第二段階としての瑕疵ある意思決定
第三段階:相手(カモ)に財物を提供させることである。
⇒2009年5月 6日 (水):詐欺の第三段階としての財物の受け渡し

しかし、アフガニスタン通貨詐欺の被害者にも同情したくなる世相ではある。
上記の事件は、静岡新聞の最終面裏のトップ記事であるが、同じ日の1面には次のような記事が載っている。
3
紙面には、セミナーの様子の写真も載っている。
新聞社がミャンマーへの投資を呼び掛けるセミナーを主催しているのである。

去年のことではあるが、カンボジアへの事業への投資目的の詐欺事件があった。

 カンボジア政府公認のバス事業などへの投資名目で出資金を募った事件で、同様の手口で9人から約7380万円をだまし取ったとして、警視庁生活経済課は28日、詐欺容疑で、貿易会社「オネスティジャパンインセプション」元社長、中村修作容疑者(49)=東京都中央区勝どき=ら10人を再逮捕した。
 同課によると、中村容疑者ら9人は容疑を認めているが、同社ナンバー3で管理課長だった難波由美容疑者(39)は容疑を否認している。これまでの被害者は13人、被害総額は約1億1千万円に上るが、同課は全国の1100人から約16億7000万円を詐取したとみて全容解明を進める。
 逮捕容疑は、平成23年5~9月、「カンボジアのバス事業に投資すれば、300%の利益が上がる」などと嘘をつき、足立区の無職男性(70)ら9人から計約7380万円をだまし取ったとしている。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121129/crm12112901300000-n1.htm

アフガニスタンにしろカンボジアにしろミャンマーにしろ、一般にはあまり馴染みがないだろう。
そこが詐欺グループの目の付けどころでもあるのだろうが、自分のよく知らないことに、大金を投じるものだろうか。

こうした詐欺の被害者は、どうしても高齢者が多いようである。
判断力が衰えているところを狙っているのだろう。

核家族化の結果、老人世帯が多くなった。
山田洋次監督が小津安二郎監督の『東京物語』をリメイクした『東京家族』を観たが、東京で暮らす子供たちに、邪魔扱いされる老夫婦の姿が他人事とは思えなかった。
2

今、老人たちは、生活の不安を感じているのではなかろうか。
年金は給付水準が低くなってくる。
医療費等の社会保障は、負担額が増えてくる。
うまい利殖話があれば、ちょっと乗ってみようかという気にもなる。

かくして、詐欺は不滅である。

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2013年2月 7日 (木)

情報の漏洩と事実の隠蔽/原発事故の真相(56)

日本原子力発電敦賀原発の活断層調査で、事務作業のトップが、評価報告書案を日本原子力開発幹部に事前に渡していた。
原子力規制委員会の田中俊一委員長は6日の定例記者会見で、「組織の問題というより、今の時点では個人の考え違いがあったと思っている」と述べた。
これを個人の問題として済ませるならば、事態は繰り返されるだろう。
行為そのものは、個人が起こすものであり、個人的な問題といえばそうに違いない。
しかし、そういう個人が発生しないようにするのが、組織の責任であろう。

証券等の取り引きにおけるインサイダー取引の場合を考えてみよう。
インサイダー情報を利用するのは、ほとんどの場合個人であろう。
しかし、個人が不当に利用することがないよう、規定を設けたり、教育をしたり、風土を形成するのは組織の役割である。
調査側の発言はこの辺りを衝いている。

6日午前の規制委の定例会合では、活断層調査を担当した島崎邦彦委員長代理から「個人の問題ではなく、組織全体に隙があったのでは」との発言があった。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201302/2013020100854&rel=y&g=soc

原子力規制委員会は、再発防止策として事業者との面談のルールを定めた内規の改正を決めた。

 内規は職員が単独で電力会社などと面談することを禁じているが、名刺交換などを想定した「儀礼上のあいさつ」は対象外で、面談しても公表していなかった。
 名雪氏は単独での面談で原電幹部に報告書案を漏洩。規制庁はあいさつを5分以内に限定する改正案を示したが、委員から「例外なく対応すべきだ」との指摘があり、あいさつも2人以上の同席を必要とした。面談記録はすべて公表する。
 名雪氏は昨年12月以降、原電幹部らと8回面会。1月22日、庁内の執務室で原電幹部に報告書案を公表前に渡し、今月1日に更迭された。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130206/crm13020611270005-n1.htm

名雪氏の更迭は当然であるが、規則を改定しても、魂が入らなければ実効性はない。
情報の漏洩と事実の隠蔽はメダルの裏表であろう。
東電が国会事故調に虚偽の説明をして、調査を妨害していたことが明らかになった。

 東京電力が、福島第1原発1号機の現地調査を申し込んだ国会事故調査委員会に対し、原子炉建屋内が実際には光が差しているのに「真っ暗」と虚偽の説明をしていたことが分かった。国会事故調は、緊急時に原子炉を冷却する「非常用復水器」が地震で壊れた可能性があるとして現地調査を計画したが、この説明で断念した。事故調の田中三彦元委員は7日、調査妨害だとして、衆参両院議長らに再調査を求める要望書を提出した。
・・・・・・国会事故調の事故原因究明チームのメンバーは、非常用復水器が地震で破損した恐れがあるとみて、4階を現地調査する方針を決め、
東電に申し入れた。
・・・・・・玉井部長は撮影日が、建屋が放射性物質の飛散を防ぐためのカバーで覆われる前だったとしたうえで「現在はカバーに覆われて真っ暗」と説明。放射線量が高い区域もあり、建屋内に入って調査するのは危険であることを強調し同行を拒否んだ。
・・・・・・東電広報部は玉井部長の説明について「カバー設置前だから明るく、設置後は真っ暗というのは事実誤認だった。正確に確認しないまま答えた。でも意図的にやったことではない」としている。
 国会事故調は、昨年7月に報告書をまとめた後、解散している。

http://mainichi.jp/select/news/20130207k0000e040180000c.html

Ws000000
朝日新聞2013年2月7日

国会事故調が現地調査をすれば、何が分かったのだろうか?
それは、東電にとって、どう具合が悪かったのだろうか?

天網恢恢疎にして漏らさず。
東電は隠蔽することにより、いっそう深く墓穴を掘ったような気がする。
国会事故調は、国政調査権に基づいて調査を行っている。
その調査を虚偽の説明で妨害するとは、当然重罪であり刑事罰の対象でもあろう。
そのリスクを冒してまで、守ろうとした事実を知りたい。

国会事故調の報告書は、重要な機器・配管類の損壊が、津波ではなく地震により起きた可能性を、全面的には否定できない、とする点が他の事故調と異なるポイントであった。
⇒2012年7月25日 (水):政府事故調の報告書/原発事故の真相(41)

「非常用復水器が地震で破損した恐れがあるとみて」現地調査をしようとしたのだろう。
これを必死に食い止めたということは、破損の原因は津波だけではなく地震の結果であること示すようなモノが現場に残っていたのではないか。
津波対策だけに焦点を絞ると、再び「想定外」のことが起きることになろう。

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2013年2月 6日 (水)

自治体のネーミング戦略/花づな列島復興のためのメモ(188)

地域活性化のために自治体が、ネーミングにあれこれアイデアを絞っている。
一つは、ネーミングライツ(命名権)である。
市の保有施設に名前をつける権利を売却して、財政の一助とし、企業側はPR活動とする。

たとえば、新潟市中央区にあるスタジアムについて、東北電力が命名権を取得し、「東北電力ビッグスワンスタジアム」という名前をつけている。
Stadiumnigata
http://soccer.suppa.jp/stadium-nigata.html

しかし、東日本大震災以降の経営悪化のため、今年いっぱいは延長するが、来年以降は更新しない方針だという。
当然、業況が悪化すれば広告宣伝費は圧縮優先度の高い費用である。

したがって、元気な企業が命名権を取得することが多くなる。
プロ野球チームを持つことと同じである。
プロ野球チームの名前は親会社(株主)によって決まるから、球団名をみれば、時々の経済の主役の一端が窺える。
たとえば、現「福岡ソフトバンクホークス」は次のような変遷をしている。

1938年 南海鉄道を親会社とする「南海軍」が結成される
1946年 球団名を「グレートリング」に改称、愛称は「近畿」
1947年 球団の親会社が南海電気鉄道へ移行し、球団名を「南海ホークス」に改称
1988年 南海電鉄が球団をダイエーに売却し、球団名を「福岡ダイエーホークス」に改称
2004年 ダイエーが持つ球団株式をソフトバンクが譲受、球団名を「福岡ソフトバンクホークス」に改称

業種的には、鉄道→小売り→IT企業と変わった。
まさに時代の変化を映す鏡のようである。

ネーミングライツはごく当たり前の売買の対象になってきたが、自治体の名前を売りに出すという泉佐野市の意向にはびっくりさせられた。
⇒2012年3月27日 (火):地名論あれこれ/花づな列島復興のためのメモ(41)

自治体が愛称を付ける動きも広まっている。
香川県の「うどん県」は広く知られているが、瀬戸内海を挟んだ岡山市が「桃太郎市」を宣言した・
二番煎じというよりも、パロディ感覚だという。

しかし、大分県が「おんせん県」という名前を商標登録申請したところ、群馬県等の反発を招いた。
確かに大分県には、別府や湯布院などの全国的に人気のある温泉地がある。
しかし、湧出量日本一の草津温泉などがあり、かねてから「温泉県」をセールストークにしてきた群馬県にとって、商標権が認められると権利が独占的になる可能性がある。
もちろん火山のあるところ温泉あり、で日本中が温泉県だともいえる。
大分県の場合は、商標登録しようとしたことが裏目に出たようだ。

「うどん県」「おんせん県」「桃太郎市」などを「ゆる名」というらしい。
いわゆる「ゆるキャラ」という「ゆるいマスコットキャラクター」の流行から、名前に広がった。
都道府県別の「ゆるキャラ」登録数は下図のようである。
Ws000000
http://www.yurugp.jp/

ずいぶん沢山の数があるものだと思うが、私の住んでいる三島市にも「みしまるくん」と「みしまるこちゃん」というゆるキャラがある。
実は、子どもの頃から知っているデザイナーの作品である。
Photo
http://yurui.jp/archives/51801303.html

「みしまるくん」と「みしまるこちゃん」は見るとおり可愛らしいし、三島市の各種イベントに出演している。
この種のゆるキャラは、差別化を図るのが狙いだろうが、似たようなものが多いような気がする。
もっと内実を掘り下げて考えないと、なかなか活性化にはならないのではないか。

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2013年2月 5日 (火)

無間地獄の闘病生活・市川團十郎さん/追悼(26)

歌舞伎界を代表する市川團十郎さんが、3日亡くなった。
4月に予定されている歌舞伎座のこけら落とし興行を迎えないまま、66歳でこの世という舞台から永遠に去っていった。
私は歌舞伎というものを詳しくは知らないが、若い頃東銀座にオフィスのある会社に在職していたことがあり、歌舞伎座界隈はそれなりに馴染みがある。

産経新聞の記事は、團十郎の人となりを次のように伝えている。

Photo_2 歌舞伎そのものを象徴していた21世紀の歌舞伎をリードする存在だった。
 團十郎家は江戸歌舞伎の特色である荒事の創始者。代々の團十郎は江戸時代から人気抜群で、團十郎家は「随市川」といわれるような特別な存在だった。團十郎さんは生まれたときから義務と重責を担っていた。
 しかし、昭和37年、十一代目を襲名した父は3年後に56歳で急逝してしまう。團十郎さんが19歳のときだった。その10年後には母を亡くす。古典芸能の世界で、後ろ盾となる親がいない苦労は大きい。白鸚や松緑の叔父らに教わることはできたが、後に「40年代はがむしゃらの時代です。父が死んでからは舞台、舞台、舞台。右も左も分からないまま夢中で、なりふり構わずの状態でした」と回想している。
 新之助時代は、尾上辰之助さん、尾上菊之助さん(現菊五郎)と三之助ブームを起こし、海老蔵になってからは父親と同じように“海老さま”と呼ばれ、「大器」という評判をとった。そして60年の團十郎襲名は「演劇界の今世紀最大の祭典」とされた。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130204/trd13020407120002-n1.htm

今日の各紙のコラムは、團十郎一色である。
冒頭部分を引用する。
日本経済新聞「春秋」

初代市川団十郎がさる大名屋敷に招かれた。酒食が入り、「荒事をして見せよ」と求められた団十郎、肌を脱いでまわりの障子や襖(ふすま)をビリビリと踏み破り、「これが荒事にて御座候」とやった。はらはらする家臣をよそに、大名はすこぶるご機嫌で褒美をとらせた――。
▼江戸は元禄のころの逸話が伝える初代の荒事が豪胆にして少し乱暴なら、亡くなった十二代目団十郎さんは、豪胆は豪胆でも、おおらかさが際立っていた。荒事を演じるとき、荒ぶる心、英雄の豪快さ、勧善懲悪の正義、邪心のない心を大切に勤めている、と団十郎さんは書いた。その通りだった、と今は懐かしむしかない。・・・・・・

朝日新聞「天声人語」

勧進帳(かんじんちょう)の弁慶は、安宅(あたか)の関で機転を利かせて義経をまず逃がし、勇躍あとを追う。手足をはね上げる「飛び六方(ろっぽう)」で花道を急ぐ幕切れは、荒事(あらごと)らしい見せ場だ。市川団十郎さん66歳。弁慶の包容力で伝統芸を守り抜くも、早すぎる六方となった▼19の時に先代に逝かれた。家芸の「歌舞伎十八番」などを父からきちんと教われなかった苦労ゆえ、自らは持てる技と心のすべてを子に、まだ見ぬ孫に伝えたい。そんな思いは、晩年の闘病を支えもしただろう・・・・・・

毎日新聞「余録」

 歴代団十郎(だんじゅうろう)は「目玉の役者」という。怪力の武人や鬼神が大暴れをして江戸っ子を熱狂させた初代以来の「荒事(あらごと)」では、目を見開いてのにらみはその超人的力を表す所作(しょさ)だった。やがて団十郎その人のにらみに魔を払う力があると思われた▲「吉例にまかせ、一つにらんでお目にかけます」。こう述べてキッとにらむのは、江戸時代には正月の仕初式(しぞめしき)で団十郎だけに許されていた所作だったという。今もにらんでもらえば風邪にかからぬというまなざしの呪力だ・・・・・・

産経新聞「産経抄」

 歌舞伎の「襲名」が、世間でもてはやされるようになったのは、昭和37(1962)年の、十一代目團十郎襲名からだ。その襲名興行で、当時新之助を名乗っていた16歳の團十郎さんは、『助六』で福山のかつぎを演じた。トレードマークの大きな目は、クスッと笑う観客の姿を見逃さなかった。
 ▼芸の未熟を痛感して、かえって役者になる決心が固まったという。師であり、後ろ盾になるはずの父が、56歳の若さで他界するのは、それからわずか3年後だった。江戸歌舞伎を代表する市川宗家を背負い、19歳の若者の苦難の日々が始まる。・・・・・・
 

東京新聞「筆洗」

 明治期を代表する思想家の高山樗牛(ちょぎゅう)は、結核と闘いながら、自らの思想を研ぎ澄ました。「われ病にかゝりてこゝにまことの人生を見そめき」(『わが袖の記』)との言葉には、大病を得たことで本当の人生を学んだという真摯(しんし)さがにじんでいる▼一度は大病を克服した十二代目市川團十郎さんも、「おまけの命」をもらった恩返しをしたいという気持ちが謙虚な人柄に磨きをかけ、芸を一層の高みに昇華させたように思えた・・・・・・

静岡新聞「大自在」

 身内が不祥事を起こし、カメラに囲まれたらどんな顔をすればいいのか。まして大名跡などと呼ばれる家系だとしたら。「自覚のなさがなせる業」。2010年、長男で歌舞伎俳優の市川海老蔵さんがトラブルで顔を殴られて大けがを負い、大騒動となった際、長男の行為をこう断じた団十郎さんの真摯(しんし)な受け答えが忘れられない
▼昨年12月の中村勘三郎さんに続き、節分の夜、団十郎さんが66歳で亡くなった。新しい東京・歌舞伎座の4月開場を前にした歌舞伎界にとって、かけがえのない柱だった・・・・・・

「いずれも各社を代表する名文家である。
見識を競うような感じの團十郎さんを哀惜する文章だ。
本来なら、文章の書き方の手本として定評のある読売新聞も掲載すべきだろうが、なぜか有料サイトしか利用できないようになっている。
渡邊恒雄氏が主筆などといって権勢をふるっている新聞をわざわざ買う気はしないので、掲出していない。
ついでにいえば、朝日も2日か3日で有料化するが、コラムくらいは無料で開放すべきではないか。

Photo_5歌舞伎界に詳しくない私でも、家系図をみればその位置は想像できる。
歌舞伎の名跡のなかでも最も権威のある名である。

どのコラムも、苦難の人生であったこと、にもかかわず大らかな人柄であったことを伝えている。
歴代の團十郎が「目力」の強い人だったそうである。
世襲ならではといえよう。

2004年5月に白血病で倒れ、「無間地獄」と自ら呼んだ闘病生活を続けながら芸を磨き続けた。
驚異的な精神力である。
それが伝統の力というものかも知れない。

私は、長男の海老蔵さんが2010年11月に不祥事を起こした時(被害者ではあるが不祥事であろう)、真摯に、「本人の自覚のなさに怒りを感じる」と謝罪をしていた父としての姿が印象に残る。
その海老蔵さんが、涙はこらえつつ、「大きな器で見守ってくれる、愛のある人だった」と語っている。
病魔との闘いが、器を大きくしたのであろうか。
「荒事」は幕を閉じ、静謐な眠りにつく時がきたといえるのであろうか。
合掌

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2013年2月 4日 (月)

「二重らせん」という認識の枠組み/知的生産の方法(35)

二重らせんといえば、DNA の構造として有名である。
ワトソンとクリックにより、DNAの二重らせん構造が1953年に低唱され、彼らはこの業績により、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
2
http://www.tmd.ac.jp/artsci/biol/textbook/geneteng.htm

かのライナス・ポーリングもDNAの立体構造について研究し、ワトソンとクリックの論文の数ヶ月前に三重らせんモデルを提案していたそうである。
後にDNA密度測定により二重らせんが正しいことが証明された。
ポーリングは、3つ目のノーベル賞を逃したことになるのか?

「科学」岩波書店のの2003年2月号は、「二重らせん発見50周年」という特集を組んでいる。
それからちょうど10年が経ったわけであるが、特集のまえがき部分に次のような記述がある。

2人が明らかにしたDNAの二重らせん構造は、まずその構造に由来する見事な複製メカニズムに驚きがありました。そしてまた、生物がすべてDNAという遺伝情報を有していることを示したのです。誤解を恐れずに言えば、ヒトが初めて生物学における「定理」を見つけた出来事と言えるかも知れません。ヒトは、ようやく自らの存在を生物の延長線上で相対的に位置づけられるようになったのです。

生物学におけるDNAの二重らせん構造の意義は、以上では尽くし切れていないにしても、その一端は窺えよう。
しかし、DNAの二重らせん構造のイメージは、より膨らんでくる。
たとえば、畑山博『宮沢賢治の夢と修羅―イーハトーブのセールスマン』プレジデント社(9509)は、「はじめに」で次のように書いている。

 ヒマラヤを越えるとき、その鶴たちは、激しい上昇気流にをつかまえ、二列になり、互いに相手の列を回り合う二重らせんのようになって突進します。
・・・・・・
 そしてそういうことに慣れてくると、歴史もまた、ある出来事と出来事の因果関係の流れが、二重らせんのように絡み合いながら進行しているということに気付きます。
 二重らせんというのは、この世のとても大事な法則の一つなのかもしれないと、私は思っています。

物事には「陰」と「陽」という2つの側面がある。
「陰」と「陽」は、静止の場合には美しいシンメトリーを構成している。
しかし、ある方向性をもって動き出すと+-で、-になって滅びの方向に行ってしまう。

畑山さんは、二重らせんを考えれば、+-だけでなく、++や--の組み合わせもできる、という。
弁証法と同じようなことだろうか?

「キレ」の思考 「コク」の思考』東洋経済新報社(1211)の村山昇さんのサイトから借用しよう。
Photo
この図式自体は馴染みがある。
弁証法の基本である。
⇒2011年1月11日 (火):起承転結の論理/知的生産の方法(6)
⇒2012年5月 9日 (水):リハビリの弁証法/闘病記・中間報告(49)

自律した個が集まった組織は強い、というようなことがいわれる。
自律の対概念として、他律が考えられる。
Photo_3

自律と他律は往々にして両立しない。対立物と考えてもいいだろう。
これを両立させるのは、止揚に似た合律ではないか。
Photo_5

個と組織の間で、合律が生み出され発展していく。
Photo_6

つまり、個と組織の間に次のような相互関係がある。
Photo_2
個と組織が相互に影響を与えながら発展していくわけである。
図は2次元で描かれているが、時間軸を入れて考えれば、個と組織の二重らせん構造ということになるであろう。

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2013年2月 3日 (日)

「プロセス」と「結果」の関係/花づな列島復興のためのメモ(187)

柔道界が大荒れである。
アテネ、北京の両オリンピックで金メダルを獲得した内柴正人被告が準強姦罪に問われている事件で、懲役5年の実刑判決が下った。
内柴被告は控訴する意向らしいが、全日本柔道連盟は会員資格を永久停止(=除名)にするという。
酒に酔っていた女子学生に乱暴を働いたという容疑である。

争点は、合意があったか否かということらしいが、問題にすべきは合意の有無ではないだろう。
指導する立場の人間が、泥酔させるような酒を飲ませること自体、指導する資格がなかったことを証明している。
量刑の程度はともかく、実刑は当然であると思う。

一方で、柔道女子日本代表の園田隆二監督が、暴力行為とパワーハラスメントを告発されている。
当初、全柔連は留任させる意向だったが、報道が大きくなり、結局本人からの進退伺いを受理して辞任となった。
こちらは、スポーツにおける指導のあり方における暴力性をどう考えるか、という問題である。
学校の部活動における体罰問題と同様であるが、暴力性といえば聞こえが悪いが、身を以て示したともいえる。

しかし、園田監督の処遇に関する全柔連の判断は頂けなかったと言わざるを得ない。
問題の認識が浅すぎるというか、事態を甘く見過ぎていたのだろう。
しばらくほとぼりが冷めるの待っていれば、問題は収束するだろう・・・、という態度がミエミエである。
連盟は認識した時点で、自ら調査して判断すべきだった。
これでは仲間意識、隠蔽体質と言われても仕方がない。

私は高校時代に、部活動として空手部に在籍していた。
国学院大学出身の外部の指導者だったが、体罰とは無縁であった。
空手部の部活において、よく耳にしたのは「空手道」という言葉であった。

「空手道」という言葉は、多分に「柔道」の影響を受けていたであろう。
「柔道」という言葉は、講道館の創始者・嘉納治五郎による。
「道」には、自己の修養とか人間形成といったことが含意されている。
Wikipediaでは次のように説明している。

武芸 (日本) - 日本における価値観。哲学とも言われ、一つの物事を通じて生き様や真理の追究を体現することや自己の精神の修練を行う事。「残心」に代表される日本独特の所作や価値観を内包する。
・武道 - 剣道・柔道・弓道・空手道など
・芸道 - 茶道・華道・書道・日本舞踊など
・その他 - 近年、近代では武芸に含まれない物事などにも道を付けて表現する事がある。

このような観点からすれば、園田氏の指導法自体問題であると思うが、全柔連の対応を見れば、柔道界全体を覆う体質が問われているといえよう。
もとろん、柔道だけでなくスポーツや教育にも当てはまる問題である。

より一般化して言えば、「プロセス」か「結果」か、ということになる。
園田氏には、オリンピックの成績がプレッシャーとして作用して、ああいう指導になったようである。
金メダル至上という結果主義である。
日本のお家芸といわれているプレッシャーは分からないでもないが、余りにも嘉納治五郎の理念とは乖離している。

「キレ」の思考 「コク」の思考』東洋経済新報社(1211)の著者村山昇氏に、『プロセスにこそ価値がある (メディアファクトリー新書)』(1206)という著書がある。
村山氏は「結果を出す」がプレッシャーとなる様を下図のように表現している。
Photo_4
自分の能力と時間をどう使うか(=プロセス)を考える余裕がない状態である。

一方、自分のやることの意味を的確に掴んでいれば下図のようになる。
Photo_3
目的がモチベーション・やる気となって作用している。

ある小学校に下図のようなポスター(?)が貼ってあるそうである。
Photo_5

毎日の積み重ねの大きさを教えようとしているのであろう。
今どきの小学生は、べき乗の概念まで勉強するのか、と思うが、365回掛け算を繰り返す計算自体は小学生でも理解できることかも知れない。
しかし、現実には、飽和という現象もあるし、プラトーと呼ばれる一時的な停滞期もある。
計算通りには行かないのが現実である。
指導者の役割は、計算と現実の差異や足踏み状態にあるとき、それが最終的な飽和なのかプラトーなのかを見極め、被指導者の特性をうまく引き出すことではないだろうか?

結果は大事である。
しかし結果だけを求めても、押しつぶされることになる。
結果を生み出すのはプロセスせあるから、プロセスの充実こそ力点を置くべきであろう。
プロセスにおいて暴力・暴言などの威力で指導することは、指導力の欠如を表していると考えられる。

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2013年2月 2日 (土)

センター試験問題の「コク」と「キレ」/知的生産の方法(34)

東京新聞の「大波小波」欄は、都新聞時代からの名物コラムだといわれる。
昭和8(1933)年からというから、80年の歴史を持っていることになる。
匿名コラムではあるが、錚々たるビッグネームが書いてきたらしい。
中村光夫、尾崎秀樹、埴谷雄高、大岡昇平などが書いていたことが明らかにされている。

現在の筆者は不明だが、「様々なる意匠」という署名で、2月1日付で『国語の学力と文学』と題する一文が掲載されていた。
内容は、今年のセンター試験の国語の問題についてである。

平均点が過去最低だったというのだが、その原因として、出題文が受験生に不慣れな小林秀雄と牧野信一だったからである、というのが各予備校の見方らしい。
これを読んで、私は時代は変わったのだなあ、と思った。
牧野信一はともかく、小林秀雄の文章が受験生に不慣れだとは!

私の高校生の頃は、小林秀雄の評論は受験問題頻出というような記憶がある。
ネットを覗いてみると、以下のような事情らしい。

 いまからざっと三十年前、昭和五十年頃までに大学入試を経験した人たちは、小林秀雄と聞いて身を乗りだす人と、そっぽを向く人とに分れる。
 当時、国語の問題の出典第一位は、いまも同じで「朝日新聞」だったが、二位には夏目漱石と小林秀雄が並び、以下に大きく水をあけていた。しかも、小林秀雄は難解で通っていた。文科系・理科系を問わず、小林秀雄を制する者よく大学入試を制すとさえ言われていた。
 しかし今日、若い人たちに小林秀雄はさほどに知られていない。昭和五十年頃を境として、大学入試の出題数が急速に減ったからだ。国語にかぎらず受験生をただ落とさんがための奇問・難問が年々ふえ、入試問題の見直しが行なわれて、受験生泣かせの代表とされていた小林秀雄はぱったりと出題されなくなったのだ。
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/610209.html

今年出題されたのは『鐔』という作品らしいが、私は未読である。
「様々なる意匠」氏によれば、小林に「特有の断定や論理の飛躍だらけで、論理展開を正確に解読できる評論とはいいがたい」ものらしい。

牧野の文章もまた、ヌエのようで、何を伝えたいのか不可解、とした上で、「様々なる意匠」氏は、以下のように続けている。

 しかし、である。このような古色と独創に包まれた文章をわざわざ好んで味わい興じる力をこそ、文学は必要とする。テクニカルな「文意把握」の学力に、アkンベをしてみせた出題だとすれば、それも一つの見識とはいえないか。
 近年の国語教科書は主張が明晰な論説文が主で、文学作品は甚だ乏しい。・・・・・・これがわが国語の「学力」だとすれば悲しい限りだ。国語ではなく「文学」と「哲学」の授業が必要ではなかろうか。

この「様々なる意匠」氏の一文を読んで、これはまさしく村山昇『「キレ」の思考 「コク」の思考』東洋経済新報社(1211)のテーマではないかと思った。
「主張が明晰な」文章は、「キレ」のいい文章であろう。
一方、小林秀雄の評論は、「コク」の思考の産物と言えるのではないか。

「学力」もまた、アサヒスーパードライのように、「コクがあるのにキレがある」ことが望ましい。
⇒2013年1月17日 (木):「キレ」の思考と「コク」の思考/知的生産の方法(28)
世界に通用する学力には、「キレ」が必要条件であろうが、「コク」も求められよう。
問題は、「コク」の学力を評価する試験問題が可能か否かである。

村山氏の上掲書では、「コク」と「キレ」を以下のように表現している。
Photo_7

解釈の幅が広いということは、正解の幅も広いあるいは曖昧だということである。
ということは、そもそも試験にはなじまないということであろう。
特に、センター入試のようにマークシート方式では所詮測ることが不可能ではないか。

とすれば、「コク」の思考・学力に優れている学生を入学させたい大学は、センター試験の配点を小さくし、「コク」の思考・学力を試す独自の問題を作成して、ウェイトを高くするしかない。
それはかなり面倒なものであることが予想されるが、そこが本丸だとしたら、手を抜くことは大学の自殺行為であろう。

一般に、教育の問題は、人間を対象にする以上曖昧さと不可分であり、正解というものを規定し難い。
試験で測定できるのは、ほんの一部の学力に過ぎない。
それは私が学校優等生でなかったからということでなく、社会経験からそういうことだろうと考える。

入試問題には、客観的な評価がし易い「キレ」の学力が重視されがちである。
しかし各大学が競うべきは、「コク」を含めた思考力ではないだろうか?

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2013年2月 1日 (金)

事故時の避難の基準について/原発事故の真相(55)

東京電力福島第一原発事故で、江東区の国家公務員宿舎に避難していた郡山市の無職男性が孤独死していた。

今月5日に見つかったが、死後約1か月経過していた。同住宅では2011年5月にも避難者の40歳代男性が孤独死しており、自治会は見回りなどの対策をとる。
東京都都営住宅経営部などによると、死亡していた男性は同市から11年11月末に自主避難してきた。

(2013年1月31日07時46分  読売新聞)

亡くなられた男性は49歳とのことである。
郡山市といえば、原発から相当距離があるように感じられるが、非難に至った経緯はどういうことだったのだろうか。
11年11月といえば、事故発生から8カ月以上経過している。
その間はどうしていたのだろうか?

原子力規制委員会は、原子力事故時の対策指針の改定案を30日決めた。
指針の改定案のポイントは以下のように説明されている。
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東京新聞2013年1月31日

非難を、距離だけでなく線量で決めるのは前進のように思える。
しかし、この線量にかかわらず、実際の事故時は規制委の判断で避難する範囲を決めるという(東京新聞記事)。
自治体が作成する地域防災計画はどういうことになるのだろうか?

 東京電力福島第1原発から3キロ圏内の福島県大熊町に住んでいた根本友子さん(65)は「実際の避難は想像を絶する厳しさ。車は動かないし、事態が分からずパニックになる。事故があったときに対応できるような仕組みにしないと作った意味がないと思う」と避難の難しさを口にする。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130131/dst13013100550000-n1.htm

次のようなデータもある。
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東京新聞2013年1月31日

この図が示しているのは、避難基準をオーバーするのは3月15日以降であったことである。
爆発で空中に放出された放射性物質は、高く舞い上がり、その間地上の線量は低いままである。
この避難基準では、避難中の被爆も想定される。
地域防災計画の策定は困難なものとなることが想定される。
また、実際に事故が起きた時、計画通りに避難することにも困難ではないだろうか。

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