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2013年1月30日 (水)

PT(理学療法士)三好春樹氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(9)

<老い>の現在進行形』春秋社(0010)で吉本隆明さんと対談した三好春樹さんは、PTである。
⇒2013年1月28日 (月):『<老い>の現在進行形』と未病の概念/闘病記・中間報告(58)
Amazonの紹介によれば、「新しい理念の展開を実践する希有な理学療法士」である。
「新しい理念」というのは、西洋近代医学の、すなわち「キレ」の思考による理学療法に対して、ということであろう。
多くの“まじめ”なPTは、西洋近代医学流の療法を実施していることから、稀有ということになるのだろう。

三好さんは、老人介護にかかわっている現場の人たちに向けて、『Bricolage』という月刊誌を刊行している。
その行為自体が、紛れもなく希有なことであったと思われる。
現在はブログ等で、「新しい理念の展開」等を試みている例も知られているが、三好さんの試みは先駆的なものといえよう。

三好さんは、『Bricolage』の連載において、江藤淳の遺書について触れている。
題して、「あえて“諒”とせず」。

江藤淳の遺書が、「乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」と結ばれているのに対して、“諒”とせず、というのである。
私は、江藤淳が自殺して遺書が公開されたとき、“諒”としたいと思った。
しかし、自分が脳梗塞に罹ってみると、果たして“諒”とすべきか否か、答えは出せないような気がしている。
⇒2010年9月 6日 (月):江藤淳の『遺書』再読

『Bricolage』の三好さんの文章は、客人と三好さんの対話形式である。
これは、吉本さんの読者ならばお馴染のスタイルである。
個人誌『試行』に連載していた「情況への発言」という論考の形式である。

これは、三好さんが、吉本さんに傾倒していたことの表れであると思われる。
これをエピゴーネンとみる人もいようが、要は内容次第であろう。
吉本さんの、江藤淳の死に対する見方については既に触れた。
⇒2010年9月24日 (金):吉本隆明氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(7)
⇒2010年9月28日 (火):吉本隆明氏の読み(続)/江藤淳の『遺書』再読(8)

吉本さんは、江藤淳の『遺書』に、森鴎外の遺言書と同様の、「自己限定による意志的な死」を感じ取る。
森鴎外が、自分は石見の国の人、森林太郎として死にたいとした自己限定と同じような、である。
吉本さんは、「文藝春秋」五月号に掲載された「妻と私」という江藤淳の手記の読後感が生々しく残っていた。
後に、江藤淳『妻と私 (9907)として単行本化される手記である。
そこには、
夫人を看取る看護の記録だけではなく、自身の排尿不能、入院、手術それから退院までの記録が書かれている。

前立腺炎で入院したことのある吉本さんにとって、排尿不良は実感をもって迫ってくる。
江藤淳は、これらの困苦が重なった結果として自死を選んだのだろう。
しかし、江藤淳の遺書はあくまで脳梗塞の発作によって自分が形骸化したためだ、と読める。
そこに自己限定の意思があり、それは森鴎外と共通するものがある、というのが吉本さんの読み方であった。

そして、それを「いさぎよい」態度だと言っている。
本当かどうか分からないが、梅棹忠夫さんが、失明した後自殺を企てたという伝説を引き合いに出している。
私は失明後の梅棹さんの生き方からして、にわかには信じがたい。
⇒2010年7月17日 (土):ハンディキャップとどう向き合うか?/梅棹忠夫さんを悼む(5)

しかし、失明というハンディキャプはそれくらい大きいものだろうなあ、とも思う。
吉本さんは、生産的な活動ができなくなるとそういう気になると思う、と解釈している。
現実には、梅棹さんは、失明後も「月刊梅棹」といわれるくらいの文筆活動を行ったのだが、その心理の過程は余人の知り得るところではない。

三好さんは、先ず江藤淳が、脳梗塞になった自分を「形骸(ぬけがら)」と表現していることに異を唱える。
多くの脳卒中後遺症者と関わっている者として、「形骸」という言葉に抵抗があるというのだ。
それはそうだろう。私も1人の脳卒中後遺症者であるが、他人からはもとより、自分でも「形骸」とは思いたくない。

モノ書きというものは、どこかしら「いいカッコ」をするものだと、三好さんはいう。
吉本さんの「大衆の原像」というのは、書き物などをしない人のことを言っていたはずであり、そのことを念頭に置いているのであろう。
そして、自分の身を“処決”するというのは、潔さというよりインテリの弱さだろう。
障害をもって生き続けている老人の方が強いだろう、と。

三好さんも、江藤淳と同じ状況になったら、自分も分からない。
しかし次のように書いて筆を擱きたいと願うという。

老化は進み、以降物忘れや失禁で回りに多大の迷惑をかけ、老醜をさらして生きていくこととなると思う。乞う、諸君よ、それを諒とせられよ。

そして、江藤淳の追悼特集の中でおもしろかったのは、西部邁氏の追悼文だという。
西部氏は、江藤淳の『成熟と喪失』の「喪失ゆえの弱さを克服して成熟せよ」という主張に対し、「喪失そのものが成熟である、ととらえる精神の回路が必要だ」という。
身体機能の一部を喪失した私には分かるようなきがするが、西部氏の原文が手許にないので、引用でいうのは止めておこう。

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