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2013年1月20日 (日)

時代を体現した大横綱・大鵬さん/追悼(25)

第48代横綱・大鵬の納谷幸喜さんが19日亡くなった。
72歳だった。
現在の平均年齢からすれば、若い死ではあるが、横綱になったのが1962年であるから、すでに半世紀前のことである。
肉体的にも精神的にもストレスを強いられた人生だったと推察される。
その意味では、決して「早過ぎる死」とは言えないような気がする。

大鵬と聞いて、やはり「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉に触れないわけにはいかないだろう。
子供に人気のあるものの代名詞だった。
当の大鵬は、「冗談じゃない。金で強くなった巨人とは違う」と反発していた、という。
私も、巨人と一緒にするなよ、という大鵬の気持ちは理解できるが、所詮ガキのいうことであって、まあ強いものに憧れるというのは自然なことだっただろう。

同時に、柏鵬時代という言い方もされた。
美術史の白鳳時代を連想させるが、剛の柏戸と柔の大鵬という対照的な相撲だった。
同時に横綱昇進を果たしたり、まさに両雄という感じの良きライバルだった。
柏戸の本名は富樫剛で、名の通り一気に相手を押し倒す豪快なものだった。
対する大鵬は、型を持たないのが型であった。
優勝回数に大きな差(大鵬32回、柏戸5回)があるが、柏戸には成人男子にファンが多く、「大洋、柏戸、水割り」という言葉もあった。

1971年に貴ノ花(先代二子山親方・故人)に敗れて引退を決意し、一代年寄「大鵬」を襲名した。
36歳の時に脳疾患のハンディを背負ったが、不屈の精神で復活した。
以下は、毎日新聞に紹介されている人生である。

 北海道弟子屈(てしかが)町出身。ロシア人の父と日本人の母の間に樺太(サハリン)で生まれ、終戦直後に北海道に移り住んだ。中学卒業後に営林署に勤めていたところをスカウトされて二所ノ関部屋に入門し、1956年秋場所初土俵。59年春場所後に18歳10カ月で新十両、60年初場所には19歳7カ月で新入幕。その場所で12勝を挙げて敢闘賞を受賞した。
 その後も史上最年少昇進記録を塗り替えて出世。入幕4場所目に新三役になると、三役3場所目の60年九州場所で初優勝し20歳5カ月で大関へ。大関5場所目の61年秋場所には、柏戸との優勝決定戦を制して柏戸とともに横綱昇進。新入幕から所要11場所での横綱昇進は歴代最速。21歳3カ月は北の湖にしか破られていない。
 横綱昇進時は187センチ・133キロ。バランスの取れた体と、右、左どちらの四つでも取れる攻め手の豊富さで優勝を重ね、横綱5場所目の62年名古屋から63年夏場所まで6連覇、さらに66年春場所からも6連覇を達成。全勝優勝も8回記録。その強さと人気から、9連覇を果たしたプロ野球の巨人や、世代を問わない好物と並び称され「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉も生まれた。
 68年にはひざのけがで4場所連続休場したが、休場明けの同年秋場所2日目から69年春場所初日まで、双葉山に次ぐ当時昭和以降2位の45連勝をマーク。2日目に戸田に敗れたのも、先に戸田の足が出たのを審判団が見落としたもので、これ以降、判定にビデオ映像が参考資料として使われるようになった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130119-00000037-mai-spo

樺太からの引き揚げの経緯に始まり、戦後の復興と高度成長を体現したような存在だった。
おりしも私の住んでいる地域では、西武百貨店が地方展開の1号店としてオープンした西武沼津店が今月末をもって閉店する。
地方の疲弊を象徴するような閉店である。

大鵬という巨星が墜ちて、確かにある時代が終わったという感じがする。
合掌。

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