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2013年1月24日 (木)

教職は聖職ではないのだろうか/花づな列島復興のためのメモ(183)

埼玉県など各地の教員の早期退職が話題になっている。

 埼玉県内の公立学校で今年度に定年を迎える100人以上の教員が、1月末での退職を希望していることが分かった。
  2月から退職手当の引き下げが予定されているため、駆け込みで前倒しの退職を希望しているとみられる。 これだけ大きな規模で年度途中での退職希望者が出るのは異例で、県教育委員会などは教員を臨時採用するなどして学校運営や授業に支障が出ないよう対応に追われている。
 昨年11月に官民格差を是正して退職手当を引き下げる国家公務員退職手当法の改正があったのに合わせ、埼玉県も関連条例を改正し、今年2月1日から施行を予定。退職手当を14年8月までに段階的に引き下げ、平均約400万円減額される。今年度の定年退職者は3月末まで勤める場合、月給約40万円とすれば退職金が約150万円の減額となる。1月末で退職すれば、2〜3月分の月給約80万円を除いても約70万円多くもらえる。
 県教委によると、1月末での退職希望者の内訳は、小学校約30人▽中学校約20人▽県立高校27人▽県立特別支援学校9人。中には教頭も含まれ、人事異動で対応する。
 さいたま市教委によると、同市採用分では、小学校8人と中学校11人の計19人となっている。
http://mainichi.jp/feature/news/20130122dde041100009000c.htmlうんい

このような事態をどう見るか?
教員も1人の生活者であるから、自分の損得とを優先することを是とするか?
日教組はこのような立場であろう。
しかし、組合組織率が低下してきている現在、全教員の何%くらいがこう考えているのだろうか?

 
それとも、教師は聖職(の1つ)であり、一般の労働者とは自ずから異なる。
生徒に与える影響を優先して、不利になっても我慢すべきだとするか?

私は、教育というのは、やはり他の一般的な労働とは異なる特性を持っていると思う。
もし、「1月末で退職すれば、2〜3月分の月給約80万円を除いても約70万円多くもらえる」という判断で早期退職するのだとしたら、今までの職業生活は、高々70万円と秤にかけるようなものだったのか。
そういう考え方の人は、教師としてどうこうというのではなく、人間として信頼できないような気がする。

『二十四の瞳』は、戦後映画史に語り継がれる名作である。
1954年の木下恵介監督、高峰秀子主演であった。
私が小学生の頃の作品であるが、大学の頃、研究室の旅行で小豆島に行ったことがあり、ここがあの映画の舞台かと思った。
Photo
Wikipedia

最近観た『北のカナリアたち』は、ストーリーは異なるが、女教師を主役にしていて、共通した印象の作品である。
原作は湊かなえ、主演は吉永小百、監督は阪本順治である。
Photo_2
http://www.cinematoday.jp/movie/T0010858

日本最北の島で小学校教師をしていた川島はる(吉永小百合)は、ある事故をきっかけに島から出て行ってしまう。
それから20年後、教え子の1人が殺人事件を起こしたことをきっかけに、かつての教え子たちに会うために島に向かう。
教え子たちは、それぞれ重い荷物を背負って20年を過ごしてきた・・・

音楽は川井郁子さんが担当している。
山奥のリハビリ病院で、知人たちからプレゼントして頂いたiPodで、彼女のレッド・ヴァイオリンというアルバムを良く聴いた。
この映画でも、ヴァイオリン特有の哀調を帯びた旋律が、主題とよくマッチしていた。
吉永さんは1945年3月生まれで、私と同学年であるが、若い頃よりも魅力を増しているように思う。

それはともかくとして、今更ながらではあるが、教師という職業は生きがいがあるだろうな、と思う。
私は、母方の祖父が、戦前にこの地方の校長を務めていたことなどから、家系的には教師と割合縁がある。
また、友人たちにも、教職に就いていた人もいる。
しかし、私自身の職業選択肢の中には教師や公務員はなかった。

今は死語であろうが、その昔「デモシカ先生」という言葉があった。
他の職業に就きたいのだが叶わず、先生にデモなっておくか、あるいは先生にシカなれない。
そんなニュアンスの言葉であった。
私は、教師よりも民間の企業で働いてみたいと思っていた。
高度成長期という時代環境もあるが、近所に旧制の工業専門学校(新制では大学の工学部に移行)出身のエンジニアがいて、憧れに近い気持ちも持っていた。

職業に貴賎はない、と言われる。
しかし、現実には、世間では何となく貴と賎の差を持っているような気がする。
教師というのは、明らかに「貴」に区分されるであろう。

貴なる者の条件は?
日本語では、「武士は食わねど高楊枝」という言葉がある。
武士は、貧しくて食事ができなくても、あたかも食べたかのように楊枝を使って見せる、ということである。
武士が清貧や体面を重んじる気風を指している。

あるいは、ノブレス・オブリージュという言葉もある。
直訳すれば、「高貴さは(義務を)強制する」。
学期末までの2~3カ月の期間を務めるのは、義務ですらないのではないか?

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