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2013年1月

2013年1月31日 (木)

西武沼津店の閉店と地方再生の可能性/花づな列島復興のためのメモ(186)

沼津駅前の西武百貨店が、今日(1月31日)をもって閉店した。
ショッピングセンターとの競合激化で売上高が大幅に減り、赤字基調からの転換は困難だと判断した結果である。
不採算店の閉鎖でコストを削減することは、常道ではあろうが、長い間地域の“顔”として機能してきたので、市民の間に寂寥感があるのは否めない。

店の5階連絡通路に、「お客さまからのメッセージ」が掲示されている。
Photo
その一部が、読売新聞2013年1月27日号に紹介されていた。

「小学生の頃、横浜へ単身赴任の父が帰ってくると大食堂で食事し、おみやげも買った。父も亡くなり店も閉店。思い出が遠くなるようでさみしい」
「父のボーナスが出ると家族で必ず来店」
「『家中、西武で買った物だらけだ』と笑っていた亡き父」
「子供連れで来るのが何よりうれしかった。エスカレーターに乗りはしゃいでいた子供たちが58歳、56歳。感謝です」
「大学を卒業する時、スーツを買った」
「勝負服は西武の服。それが祖母から母、私へ引き継がれた暗黙の習慣。なくなるなんて考えられない」
「高校生の頃、リップを買ったりし、背伸びしたおしゃれを覚えた」
「僕と妻が出会ったのはこの沼津西武。たくさんの思い出がつまった店。とてもさみしい。ありがとう」
「駅に降り立ち、西武のネオンが見えると『帰ってきたなあ』と思えた。そんなシンボルが無くなってしまう」

それぞれの人生と共にあった。
ローカル紙の沼津朝日新聞の2013年1月29日号には、四方多恵子さんの『ぬまづの華 西武』という投稿が載っている。

五十五年前の沼津。チンチン電車が通る駅前にそびえ立った百貨店。店内のエスカレーターに戸惑いながらも、新しい空気にふれられるうれしさで、皆、東京人になったような気がした。

オープンしたのは1957年である。
私はこの年中学生になったのだが、沼津から御殿場線というローカル列車に乗った地方に住んでいたので、それこそ“都会”の雰囲気であった。
西武百貨店の地方展開の1号店(軽井沢に夏だけオープンしていた店があったそうであるが)で、キャッチコピーの「沼津で東京のお買い物を」も新鮮だった。
オープン当時、都まんじゅうという洋風まんじゅうを、焼きながら販売するのが物珍しかった。
閉店セールで感謝印の都まんじゅうを売っていた。
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55年という時間は、ものごころついてからの大部分になる。
線香花火の最後のように、「大入り満員」が続いているが、沼津の実力からすれば閉店・撤退も致し方がないとは思う。
かつては先進的な商店街だった「アーケード通り」も、完全にシャッター商店街化している。

最近は、交通機関の結節点のような施設の商業施設化が盛んである。
東京スカイツリー(そらまち)が代表例だろう。
私もお上りさんよろしく出かけてみたが、肝心のスカイツリーは70分待ちということで諦めたが、そらまち商店街は賑わっていた。
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スカイツリーだけでなく、羽田空港、東京駅、大阪駅等リニューアルの事例は多い。
沼津はかつて静岡県東部における中心都市であった。
東海道新幹線が開通する前は、国鉄の基幹的な機関区だった。
駅弁も大いに繁盛していた。

沼津と三島の間を路面電車(合図の鐘がチンチンというのでだろうが、上記の四方さんの文章にあるように、チンチン電車と呼んでいた)が走っていたし、駅と沼津港の間に貨物専用線があった。
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http://saiseiron.com/archives/3487475.html

沼津港は再開発されて結構な賑わいをみせているが、駅周辺はこれからどうするのだろうか?

鉄道高架化が懸案事業であるが、市民の声は賛否両論である。
私は、今更膨大なお金をかけても回収ができないと思うので、他の方策を探るべきだと思うが。
沼津という街は時代の変化に立ち後れてしまった。
今となっては、逆転の発想で、弱みを強みに転換するしかないのではないか。

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2013年1月30日 (水)

PT(理学療法士)三好春樹氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(9)

<老い>の現在進行形』春秋社(0010)で吉本隆明さんと対談した三好春樹さんは、PTである。
⇒2013年1月28日 (月):『<老い>の現在進行形』と未病の概念/闘病記・中間報告(58)
Amazonの紹介によれば、「新しい理念の展開を実践する希有な理学療法士」である。
「新しい理念」というのは、西洋近代医学の、すなわち「キレ」の思考による理学療法に対して、ということであろう。
多くの“まじめ”なPTは、西洋近代医学流の療法を実施していることから、稀有ということになるのだろう。

三好さんは、老人介護にかかわっている現場の人たちに向けて、『Bricolage』という月刊誌を刊行している。
その行為自体が、紛れもなく希有なことであったと思われる。
現在はブログ等で、「新しい理念の展開」等を試みている例も知られているが、三好さんの試みは先駆的なものといえよう。

三好さんは、『Bricolage』の連載において、江藤淳の遺書について触れている。
題して、「あえて“諒”とせず」。

江藤淳の遺書が、「乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」と結ばれているのに対して、“諒”とせず、というのである。
私は、江藤淳が自殺して遺書が公開されたとき、“諒”としたいと思った。
しかし、自分が脳梗塞に罹ってみると、果たして“諒”とすべきか否か、答えは出せないような気がしている。
⇒2010年9月 6日 (月):江藤淳の『遺書』再読

『Bricolage』の三好さんの文章は、客人と三好さんの対話形式である。
これは、吉本さんの読者ならばお馴染のスタイルである。
個人誌『試行』に連載していた「情況への発言」という論考の形式である。

これは、三好さんが、吉本さんに傾倒していたことの表れであると思われる。
これをエピゴーネンとみる人もいようが、要は内容次第であろう。
吉本さんの、江藤淳の死に対する見方については既に触れた。
⇒2010年9月24日 (金):吉本隆明氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(7)
⇒2010年9月28日 (火):吉本隆明氏の読み(続)/江藤淳の『遺書』再読(8)

吉本さんは、江藤淳の『遺書』に、森鴎外の遺言書と同様の、「自己限定による意志的な死」を感じ取る。
森鴎外が、自分は石見の国の人、森林太郎として死にたいとした自己限定と同じような、である。
吉本さんは、「文藝春秋」五月号に掲載された「妻と私」という江藤淳の手記の読後感が生々しく残っていた。
後に、江藤淳『妻と私 (9907)として単行本化される手記である。
そこには、
夫人を看取る看護の記録だけではなく、自身の排尿不能、入院、手術それから退院までの記録が書かれている。

前立腺炎で入院したことのある吉本さんにとって、排尿不良は実感をもって迫ってくる。
江藤淳は、これらの困苦が重なった結果として自死を選んだのだろう。
しかし、江藤淳の遺書はあくまで脳梗塞の発作によって自分が形骸化したためだ、と読める。
そこに自己限定の意思があり、それは森鴎外と共通するものがある、というのが吉本さんの読み方であった。

そして、それを「いさぎよい」態度だと言っている。
本当かどうか分からないが、梅棹忠夫さんが、失明した後自殺を企てたという伝説を引き合いに出している。
私は失明後の梅棹さんの生き方からして、にわかには信じがたい。
⇒2010年7月17日 (土):ハンディキャップとどう向き合うか?/梅棹忠夫さんを悼む(5)

しかし、失明というハンディキャプはそれくらい大きいものだろうなあ、とも思う。
吉本さんは、生産的な活動ができなくなるとそういう気になると思う、と解釈している。
現実には、梅棹さんは、失明後も「月刊梅棹」といわれるくらいの文筆活動を行ったのだが、その心理の過程は余人の知り得るところではない。

三好さんは、先ず江藤淳が、脳梗塞になった自分を「形骸(ぬけがら)」と表現していることに異を唱える。
多くの脳卒中後遺症者と関わっている者として、「形骸」という言葉に抵抗があるというのだ。
それはそうだろう。私も1人の脳卒中後遺症者であるが、他人からはもとより、自分でも「形骸」とは思いたくない。

モノ書きというものは、どこかしら「いいカッコ」をするものだと、三好さんはいう。
吉本さんの「大衆の原像」というのは、書き物などをしない人のことを言っていたはずであり、そのことを念頭に置いているのであろう。
そして、自分の身を“処決”するというのは、潔さというよりインテリの弱さだろう。
障害をもって生き続けている老人の方が強いだろう、と。

三好さんも、江藤淳と同じ状況になったら、自分も分からない。
しかし次のように書いて筆を擱きたいと願うという。

老化は進み、以降物忘れや失禁で回りに多大の迷惑をかけ、老醜をさらして生きていくこととなると思う。乞う、諸君よ、それを諒とせられよ。

そして、江藤淳の追悼特集の中でおもしろかったのは、西部邁氏の追悼文だという。
西部氏は、江藤淳の『成熟と喪失』の「喪失ゆえの弱さを克服して成熟せよ」という主張に対し、「喪失そのものが成熟である、ととらえる精神の回路が必要だ」という。
身体機能の一部を喪失した私には分かるようなきがするが、西部氏の原文が手許にないので、引用でいうのは止めておこう。

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2013年1月29日 (火)

敦賀原発の活断層とアベノミクス/花づな列島復興のためのメモ(185)

原子力規制委員会の専門家チームは、敦賀原発直下の断層が活断層の可能性が高いとの評価報告書案を大筋で了承した。

130129_2 報告書案は、規制委の島崎邦彦委員長代理が中心になってまとめた。チームは、敷地内にある原子炉近くを通る大きな活断層「浦底断層」と、D-1断層が交わるとみられる地点に掘られた試掘溝で確認した地層のずれに着目した。
 このずれをたどっていくと、約九万五千年前の火山灰を含む地層より少し古い年代の地層に動いた痕跡があった。このことから、指針が今後も動く活断層の条件にしている「十二万~十三万年前以降に活動した可能性を否定できない断層」に当たると判断した。
 ずれはD-1断層とされる部分の近くにあり、ずれの方向などが似ており、「D-1断層かその延長部」と判断された。浦底断層が動けば、誘発されて動き、「直上の重要な施設に影響を与える恐れがある断層」と結論づけた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013012902000113.html

国の指針では、動く可能性がある活断層の上に原発の重要施設を建設することを禁じている。
規制委の田中俊一委員長も、原発直下を活断層が通っている場合、再稼働を認めない方針を示しているので、活断層を否定する決定的な証拠が出てこない限り、2号機の運転は不可能ということになる。
⇒2012年12月11日 (火):敦賀原発は廃炉へ/花づな列島復興のためのメモ(172)

時を同じくして、安倍首相が、第二次安倍内閣としての所信表明演説を行った。

 第183通常国会が28日召集され、安倍晋三首相は午後の衆院本会議で、第2次安倍内閣として初の所信表明演説を行った。首相は経済再生を「最大かつ喫緊の課題」と位置付け、デフレ脱却と円高是正によって「強い経済」を取り戻す決意を表明。日本人10人が犠牲になったアルジェリア人質事件について「痛恨の極みだ。テロ行為は決して許されない。国際社会と連携し、テロと闘い続ける」と訴えた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130128-00000036-mai-pol

経済再生に集中というところだろう。
いわゆるアベノミクスについては、さまざまな意見があるようである。
しかし気にかかるのは、被災地復興についての簡略さが目立つことと、原発事故を受けて今後の原子力政策をどうするかについての明示的な言及がないことである。
エネルギーと経済は切り離せない。

今までのスタンスを考えると、基本的には原発推進の立場であろう。
⇒2012年12月29日 (土):安倍政権と原発政策/花づな列島復興のためのメモ(179)
政府としても、規制委の結論に反して、原発を稼働はできないであろうが、今後の原子力政策をどう考えるのか?
もはや曖昧なままにしておくことはできまい。
アベノミクスは、今のところ高い支持率を獲得しているように見える。

 産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が26、27両日に実施した合同世論調査で、第2次安倍晋三内閣の支持率は、政権発足時の前回調査(昨年12月26、27両日)から9・5ポイント上昇し64・5%となった。不支持率は20・9%で前回比7・3ポイント減少した。2%の物価目標を柱とする日銀との共同声明や緊急経済対策など経済再生に向けた「ロケットスタート」の“実績”が評価された。
 第1次安倍内閣以降の歴代内閣の支持率を見ると、いずれも発足後には下降する傾向がある。第1次安倍内閣も発足時は63・9%だったが、2カ月後の次回調査では47・7%に減少していた。
 政権が掲げる個別の政策について尋ねたところ、日銀との物価目標の共同声明を60・7%が評価したのをはじめ、緊急経済対策や防災対策を中心にした公共事業費拡大、防衛費増額も評価する回答が上回った。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130128-00000514-san-pol

私は、高い支持率のアキレス腱は、原発問題にあると考える。
長期的なエネルギー源の構成の他に、中間貯蔵施設の問題、福島第1原発事故の収束の方針等、いずれも一筋縄では解決しない。
安倍政権の真価は、日本の叡智が問われるこれらの課題にどう答えを出すのかによって定まるといえよう。

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2013年1月28日 (月)

『<老い>の現在進行形』と未病の概念/闘病記・中間報告(58)

吉本隆明さんは、対談の記録を多く遺した人だ。
彼の言葉が他人(対談者およぶ読者)に浸み込んでいくことの証左であろう。
死者との対話ともいえる弔辞・追悼文にそれはもっともよく表れていると言えるかもしれない。
⇒2012年3月18日 (日):心にしみ通る吉本隆明の追悼文

1996年夏、伊豆市土肥の海水浴場で遊泳中に溺れ意識不明の重体になり緊急入院した。
1924年11月生まれだから、71歳の時ということになる。
以来、体調を崩されることが多かったようで、看護とか介護についても体験者ならではの発言がみられる。
三好春樹さんとの対談『<老い>の現在進行形』春秋社(0010)も、介護とかリハビリについて興味深いことが語られている。
「リハビリ老人「吉本隆明」の、もっとも切実で実感的な「老い」の体験」という案内が付されている。
ちなみに三好さんは、PT(Physical Therapist:理学療法士)であるが、特別養護老人ホーム等で、老人のリハビリに従事した経験を持つ。

対談集の終わりの方に、近代医学の限界といった話題が出てくる。
現在、私たちが出会う医者のほとんどが近代的な西洋医学に基づいて診療を行っているといえよう。
東洋医学的な療法は、民間療法などといって、下に見られている。

吉本さんが次のように言う。

 ぼくの自覚症状でいえば、前に比べれば、耳がすこし遠くなっているとかがあるんです。でもそれを言ったってしょうがないんです。お医者さんは、ぼくが自覚しているようにはわかってなく、精密検査でもひっかかってきません。何かで検査したことがあるんですが、「聞こえますか」と聞かれて、「聞こえます」と答えると、「だいたい年相応じゃないですか」とういうことですんでしまいます。

要するに、吉本さんは自分の身体について、「いいところなんてない」と思っているのに、医者は、「血糖値を除けば健全ですよ」と真剣には受け止めてくれないのである。
これに答えて三好さんは、次のように言う。

 一般的にいいますと、これまでは人間を元気と病気との二つに分けてかんがえればよかったんです。元気な人が何かあって発病する。病気になると病人ですから医者に診てもらって、治療してもらう。そして治癒してまた元気に戻る。つまり元気と病気と二元論でよかったわけですが、科学が発達して、医学が進んでくるとこれですまなくなったんです。たとえば糖尿病というのはインシュリンがないときは大勢死んでいたわけです。それがインシュリンによって死ななくてすむようになったんですが、じゃあそれで元気に戻れるかといったら戻れないんです。

糖尿病の人というのは、健常なときには感じなかったが、入院してみるとその比率の多さにびっくりする。
リハビリ病院で、4人部屋の場合、2人か3人は糖尿病であった。
三好さんは、病人というわけではないし元気でもない状態が慢性疾患で、老化というのも同じだという。
脳卒中も同じである。
命は助かるようになったが、手足がマヒ

して障害が残る。

人間を病気と元気に二分するのも、「キレ」の思考の産物といえよう。
ところが、実際はどちらとも言えない(=どちらとも言える)人が増えている。
私のような障害者は、病人ではないが、元気でもない。
障害とか老化とか慢性疾患を持った人は増えるばかりであろう。
私も回復期の病院に転院したとき、これは近未来の縮図ではないかと思ったことがある。
このような人に対して、病人を対象にしてきた近代医療は、無力ではないかと三好さんは言う。

最近耳にする未病という概念が当てはまる領域であろう。
Photo_2
http://blogs.yahoo.co.jp/knight_tukiomi_science/6907135.html

未病については、ホリスティック医学のアプローチが必要であろう。
ホリスティックとは西洋医学と東洋医学の統合である。
西洋医学は基本的に「キレ」の思考に基づいてきた。
医療の場にも(こそ)、「コク」の思考が求められる時代になってきたようである。

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2013年1月27日 (日)

『「いき」の構造』に学ぶ概念規定の方法/知的生産の方法(33)

九鬼周造は、男爵九鬼隆一の四男として1888年に生まれ、東大文科を卒業後、ヨーロッパに留学した。
ヨーロッパで、ベルグソン、ハイデッガー等に学び、29年に帰国して京大教授となる。
そして、学問追究と並行して祇園で派手に遊んだことで知られる。
日本文化とヨーロッパ文化を、共に身をもって体験した人であり、それが彼の哲学のテーマとして生きている。

彼は、日本人の精神構造を理解するためのキーワードとして「いき:粋」という「日本独特の」言葉を選び、その中に「わが民族に独自な「生き」かたの一つ」が含まれているのではないか、と発想した。
⇒2013年1月21日 (月):「コク」の思考と『「いき」の構造』/知的生産の方法(31)
⇒2013年1月22日 (火):抽象的概念を規定する方法/知的生産の方法(32)

それでは九鬼は、「いき」という現象をどう考察しているか?

九鬼は、「いき」の徴表として、まず異性に対する「媚態」を挙げる。
異性との関係がないところに「いき」は成立しないが、異性と完全なる合同をとげて緊張性を失う場合も「いき」は消失する。
第二の徴表は、気概を示す「意気」である。
また、第三の徴表として、あっさり、すっきり,瀟洒などに通じる「諦め」を挙げる。
上記を総合して、最終的に、「『いき』を定義して『垢抜して(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)』ということができないであろうか」としている。

そして、外延的構造については、「我々はここに、『いき』と『いき』に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に『いき』の意味を明晰ならしめねばならない」として、「上品」「派手」「渋味」を挙げ、これらの関係を吟味して有名な直方体の構造に到達する。
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村山昇『「キレ」の思考 「コク」の思考』東洋経済新報社(1211)では、次のように書いている。

 九鬼の場合、こうした風流をめぐるびにおいて美的価値を一つひとつ言葉上で定義するのではなく、直六面体のモデル上に相対的な位置関係で示すというアイディア自体が優れて独創的である。モデル化はある意味、アート作品をこしらえる作業にも通じるところがある。

他のものとの相対的な関係を示すのに、われわれはよくポジショニングという2次元平面での位置関係の図を用いる。
たとえば、ビール業界(銘柄)については、以下のような図で示される。
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http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/const/lessons/marketing/_asset/pdf/marketing002.pdf

上図では、「キレ-コク」が同一軸の対極として設定されているが、コクというのは、「ライト-ヘビー」を含んだ概念のような気がする。
とすれば、下図の如くか?
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http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110912/1037729/?P=2

あるいは、政党の公約等を比較するのに使われる。
⇒2012年12月 3日 (月):総選挙における各党のポジショニング/花づな列島復興のためのメモ(167)

われわれは、2次元に馴染んでいる。
紙媒体の制約もあろうが、認識する能力の限界も関係しているように思う。
九鬼は、「いき」の構造を3次元の空間で考えたわけである。

 

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2013年1月26日 (土)

体罰問題をどう考えるか?/花づな列島復興のためのメモ(184)

大阪市立桜宮高校の体育系学科で、部活動の顧問教諭から体罰を受けた生徒が自殺した問題は、教育における今日の問題を集約しているかのようである。
大阪市教育委員会は、同校の体育科の募集中止を決めた。
橋下市長は満足げではあるが、それで一件落着とは行くまい。

体罰はいかなる場合でも非か?
今の教育現場のことを知らないでいうのだが、一般論として、体罰がいいか悪いかと問われれば、良くないということになろう。
しかし、学級崩壊という話もよく聞く。
横行するイジメによる犠牲者も出ている。

こういう学級をどうするか?
教師の力量だけに任せていていいのか?
問題は生徒だけではない。モンスター・ペアレントといわれるような保護者もいる。
「出席停止処分」という制度はあるけれども、義務教育でこれを実施すると必ず「教育を受ける権利を奪った」との抗議があるという。

教師が畏敬すべき存在ではなくなっている。
大人、先生は尊敬されるべきであろう。
本質的には、そういう人に教師になって頂きたいと思う。
しかし、問題を起こす生徒は、そもそも他人を敬うということを知らないのではないか。
ある場合には、怖い体験も必要ではないか、という声もある。
かつて、戸塚ヨットスクールのあり方が問題になったことがある。
最後の手段としての体罰はあり得るのではないか?

2.募集中止という措置について。
桜宮高校の場合、自殺した生徒は体育科に属していた。
しかし、体罰が常態化していたのは、部活動の中だという。
学科の募集中止と体罰問題解決とがどういう因果関係にあるのか不明である。

体育科の募集予定委定員は、普通科で行うという。
大阪市教育委員会は、市長の顔を立てただけではないのか?
今回の措置は、逆教育効果(権力に従うフリをして、実質はそのまま)のような気がする。

3.高校入試段階で専門分化は必要か?
在校生やOBには、体育科として入学できないことを、大人の論理の押しつけではないのか。という批判があるようである。
桜宮高校はスポーツを中心にした教育で全国に有名で、体育系のクラスを志願する中学生がいることは事実だろう。
しかし、具体的にはどんなカリキュラムが用意されているのだろう?

市教委はスポーツに特色のあるカリキュラムにする方針だという。
しかし、これからの話のようだ。
スポーツに特色のあるカリキュラムとは、どんな特色だろうか?
「勝利至上主義ではなく他者を慈しむ心を育てる」といっても、イメージするのが難しい。
そういうことなら、普通科のカリキュラムの方が向いているのではないか?

体罰は、「注意をしても聞かない、もしくは理解できない」という子供に対する教育的な指導であろう。
現に、学級経営すら不可能になる生徒がいることは確かであろう。
そのような子をどう指導するか?

体罰は、しばしば当人の人格否定や心身に対する傷害(致死)になる可能性もある。
教育には一義的な正解はないのだろうが、そもそも学校というところが正解を求めているところでもある。
広く深い議論の場がどうしたら作れるであろうか?

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2013年1月25日 (金)

デジタルとアナログ/「同じ」と「違う」(54)

「キレ」の思考の「キレる」という言葉で連想するのは、最近では「すぐキレる」というような用法だろうか?
Wikipediaでは、「主に対人関係において昂ぶった怒りの感情が、我慢の限界を超えて一気に露わになる様子を表す、日本の俗語。同義の言葉には「激昂」「激高」などがある」と説明されている。
「感情が我慢の限界を超えて露わになる」つまり、感情失禁は、脳血管障害患者の後遺症の1つである。
⇒2012年11月11日 (日):感情失禁について/闘病記・中間報告(55)

しかし、「キレる」という場合は、ちょっと違うようである。
あるサイトでは、若者がキレるメカニズムを次のように説明していた。

人の目を気にして表面的にイイ子を演じて無気力になり、責任転嫁と妬みを増長させる責任論、そして、真面目で不器用で失敗に対する免疫がない…
どうでしょうか?これらの化学反応でキレる若者が誕生すると思いませんか?
http://motor.geocities.jp/w126_legend_bentley_rolls_royce/newpage120.html

このような「キレ」はマイナスイメージのものであるが、従前は、「切れる男」といえば、ビジネスパーソンかくあるべし、のプラスイメージのものであった。
要は「切れ味がいい」人間ということであろうが、Goo辞書では、以下のように説明している。

12
㋐刃物の切れ味が鋭い。「よく―・れる刀」
㋑見事な効果を示す。「技が―・れる」

㋒頭の働きが速く、物事をてきぱきと処理する能力にすぐれる。「頭が―・れる」「―・れる男」
つまり、このような使い方は、12番目に登場するものである。
もともとの意味は、最初に出てくる説明であろう。
力が加わって、ひと続きのもの、つながっているものなどが分かれる。「ひもが―・れる」「緊張の糸が―・れる」
つながっているものなどを、「切って」「分けて」認識するのがデジタルである。
デジタルという言葉は、digitからきている。
digitは、以下の通り(http://ejje.weblio.jp/content/digit)。
【名詞】【可算名詞】
1(
手・足の).
2
/ インチ》.
3(
個々の)アラビア数字

例えば、空に架かる美しい虹は、連続しているスペクトルであるが、われわれはこれを「7色」として認識する。
「セキ・トウ・オウ・リョク・セイ・ラン・シ=赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」である。
Ws000000
これらの色は、可視光線の波長に対応している。
赤が長波長側、紫が短波長側で、赤の外側(長波長)に赤外線が、紫の外側(短波長)に紫外線がある。
赤外、紫外は目に見えない。
Ws000002_2
http://www1.odn.ne.jp/haru/data-other/rainbow.html

元の虹のスペクトルは連続している。
つまり、アナログ量である。
比例を表すギリシャ語analogosが語源である。

パソコンなどの電子機器は、データを電気信号にして処理する。
信号は決めごとなので便利なように作ればよい。
例えば、虹は7色であるが、交通信号は「赤・黄・緑(青)」の3種類である。
必要性を満たした上で、なるべく単純にした方が操作性が良い。
「0,1」や「on,0ff」や電圧が「高い,低い」などでる。

例えば、オーディオ機器では、アナログの波形を以下のようにデジタル化している。
Ws000003

アナログ情報をデジタル化することが、今日の高度情報化といわれる社会を築いた原動力であろう。
デジタル化のメリットは次のように説明されている。

デジタルオーディオ信号ならば、例えばパソコンを使って録音や編集をすることもできるので便利です。
また、たった12cm径のCDに74分間の音楽を記録でき、さらにデジタル圧縮処理することで、
同じ長さの音楽をもっと小さな径のMD等に記録できます。
このようにデジタル信号は圧縮ができるので、大量の情報を保存するのにも便利です。
音だけでなく、もっと情報量の多い映像信号も圧縮技術を利用することで高速に記録や通信ができます。
特に通信では、1本の配線で複数の情報を通信するデジタル多重双方向通信が実現できます。
そして、電気信号の他にレーザー光による光通信もできるので、非常に高速で通信ができます。

http://www.amei.or.jp/report/DR_Div/base.htm

デジタル化と文明の発展とは切り離せない。

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2013年1月24日 (木)

教職は聖職ではないのだろうか/花づな列島復興のためのメモ(183)

埼玉県など各地の教員の早期退職が話題になっている。

 埼玉県内の公立学校で今年度に定年を迎える100人以上の教員が、1月末での退職を希望していることが分かった。
  2月から退職手当の引き下げが予定されているため、駆け込みで前倒しの退職を希望しているとみられる。 これだけ大きな規模で年度途中での退職希望者が出るのは異例で、県教育委員会などは教員を臨時採用するなどして学校運営や授業に支障が出ないよう対応に追われている。
 昨年11月に官民格差を是正して退職手当を引き下げる国家公務員退職手当法の改正があったのに合わせ、埼玉県も関連条例を改正し、今年2月1日から施行を予定。退職手当を14年8月までに段階的に引き下げ、平均約400万円減額される。今年度の定年退職者は3月末まで勤める場合、月給約40万円とすれば退職金が約150万円の減額となる。1月末で退職すれば、2〜3月分の月給約80万円を除いても約70万円多くもらえる。
 県教委によると、1月末での退職希望者の内訳は、小学校約30人▽中学校約20人▽県立高校27人▽県立特別支援学校9人。中には教頭も含まれ、人事異動で対応する。
 さいたま市教委によると、同市採用分では、小学校8人と中学校11人の計19人となっている。
http://mainichi.jp/feature/news/20130122dde041100009000c.htmlうんい

このような事態をどう見るか?
教員も1人の生活者であるから、自分の損得とを優先することを是とするか?
日教組はこのような立場であろう。
しかし、組合組織率が低下してきている現在、全教員の何%くらいがこう考えているのだろうか?

 
それとも、教師は聖職(の1つ)であり、一般の労働者とは自ずから異なる。
生徒に与える影響を優先して、不利になっても我慢すべきだとするか?

私は、教育というのは、やはり他の一般的な労働とは異なる特性を持っていると思う。
もし、「1月末で退職すれば、2〜3月分の月給約80万円を除いても約70万円多くもらえる」という判断で早期退職するのだとしたら、今までの職業生活は、高々70万円と秤にかけるようなものだったのか。
そういう考え方の人は、教師としてどうこうというのではなく、人間として信頼できないような気がする。

『二十四の瞳』は、戦後映画史に語り継がれる名作である。
1954年の木下恵介監督、高峰秀子主演であった。
私が小学生の頃の作品であるが、大学の頃、研究室の旅行で小豆島に行ったことがあり、ここがあの映画の舞台かと思った。
Photo
Wikipedia

最近観た『北のカナリアたち』は、ストーリーは異なるが、女教師を主役にしていて、共通した印象の作品である。
原作は湊かなえ、主演は吉永小百、監督は阪本順治である。
Photo_2
http://www.cinematoday.jp/movie/T0010858

日本最北の島で小学校教師をしていた川島はる(吉永小百合)は、ある事故をきっかけに島から出て行ってしまう。
それから20年後、教え子の1人が殺人事件を起こしたことをきっかけに、かつての教え子たちに会うために島に向かう。
教え子たちは、それぞれ重い荷物を背負って20年を過ごしてきた・・・

音楽は川井郁子さんが担当している。
山奥のリハビリ病院で、知人たちからプレゼントして頂いたiPodで、彼女のレッド・ヴァイオリンというアルバムを良く聴いた。
この映画でも、ヴァイオリン特有の哀調を帯びた旋律が、主題とよくマッチしていた。
吉永さんは1945年3月生まれで、私と同学年であるが、若い頃よりも魅力を増しているように思う。

それはともかくとして、今更ながらではあるが、教師という職業は生きがいがあるだろうな、と思う。
私は、母方の祖父が、戦前にこの地方の校長を務めていたことなどから、家系的には教師と割合縁がある。
また、友人たちにも、教職に就いていた人もいる。
しかし、私自身の職業選択肢の中には教師や公務員はなかった。

今は死語であろうが、その昔「デモシカ先生」という言葉があった。
他の職業に就きたいのだが叶わず、先生にデモなっておくか、あるいは先生にシカなれない。
そんなニュアンスの言葉であった。
私は、教師よりも民間の企業で働いてみたいと思っていた。
高度成長期という時代環境もあるが、近所に旧制の工業専門学校(新制では大学の工学部に移行)出身のエンジニアがいて、憧れに近い気持ちも持っていた。

職業に貴賎はない、と言われる。
しかし、現実には、世間では何となく貴と賎の差を持っているような気がする。
教師というのは、明らかに「貴」に区分されるであろう。

貴なる者の条件は?
日本語では、「武士は食わねど高楊枝」という言葉がある。
武士は、貧しくて食事ができなくても、あたかも食べたかのように楊枝を使って見せる、ということである。
武士が清貧や体面を重んじる気風を指している。

あるいは、ノブレス・オブリージュという言葉もある。
直訳すれば、「高貴さは(義務を)強制する」。
学期末までの2~3カ月の期間を務めるのは、義務ですらないのではないか?

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2013年1月23日 (水)

原発は本当にコスト優位性があるのか?/花づな列島復興のためのメモ(182)

原子力規制委員会の専門家チームにより、地震や津波に対する原発の安全基準の新基準の骨子素案が示された。

Ws000004 原子力規制委員会は22日、地盤をずらす活断層の上に原発の重要施設を設置してはならないことなどを明文化した新安全基準の骨子素案を公表した。同日開かれた地震と津波の安全基準について検討する有識者会合で示された。これまでも、国の耐震設計審査指針で活断層の上に原子炉を設置することは禁止されていたが、基準に明文化することで、法的根拠を持った規制が行えるようになる。
 骨子素案では、活断層の定義も変更。従来は「12万~13万年前以降」に活動した断層を活断層としていたが、「40万年前以降までさかのぼり評価すること」と拡大させた。近くの活断層に引きずられて動く断層も、活断層と同等に扱う方針。
 近くに活断層がある場合は、確実な揺れの予測ができないことを踏まえ、余裕を持って原子炉建屋などへの影響を評価しなければならないとした。
 一方、津波については、施設ごとに海底地形や地質構造などから想定津波を策定。想定津波に襲われた場合でも、重要施設に海水を流入させない構造にすることとした。
 
福島第1原発で電源喪失の要因となった崖崩れ対策については、斜面が崩壊しても「施設の安全機能が影響を受けない設計であること」を求めている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130123-00000118-san-soci

活断層と原発の関係については何度か触れた。
⇒2012年4月28日 (土):活断層の上の原発/花づな列島復興のためのメモ(57)
⇒2012年8月29日 (水):直下に活断層があっても原発運転?/原発事故の真相(44)
⇒2012年11月 3日 (土):大飯原発の活断層をどう考えるか/花づな列島復興のためのメモ(157)
⇒2012年12月14日 (金):活断層の上の原発を止められない?/花づな列島復興のためのメモ(173)

まったく当然のことであると思うが、やっと活断層が疑われる地盤には原発は建てられないことの制度的な対応ができるということである。
問題の活断層の定義問題について、復習しておこう。

活断層は、これまで12万~13万年前以降に動いたものと定義されてきた。
⇒2012年10月24日 (水):活断層定義問題と大飯原発の稼働/花づな列島復興のためのメモ(154)
新基準で、「40万年前以降」に強化される見込みだったが、素案では、「12万~13万年前の活動が否定できないもの。資料が十分でなければ40万年前にさかのぼって検討する」という表現に落ち着いた(東京新聞)。

具体的な自然科学的な事象についても、「活断層」の定義が問われているわけである。
「極めて近き時代まで地殻運動を繰り返した断層であり、今後もなお活動するべき可能性のある断層」を特に活断層(かつだんそう、active fault)という、のが根本の定義である。
「極めて近き時代」というのが曖昧のように感じられるが、地学的には、「新生代第四紀」である。

Ws000005_3要するに、「新生代第四紀」とは、地質学の区分における最近代(現代)ということだろう。
そして、「第四紀」とは、現時点の学界の定義は、以下のようである。

新しい第三紀と第四紀の境界は、従来の新第三紀と第四紀の境界だった181万年前の鮮新世・更新世境界から、258万年前の鮮新世ピアセンツィアン・ゲラシアン境界に移動させられた。これは、第四紀の研究者の間では258万年前を第四紀の始まりとすることが多いことを反映させたものである。
Wikipedia新生代

必ずしも安全基準が学説と一致しているべきというつもりはないが、その場合は、合理的な判断であることを説明する必要があろう。
特に、安全基準において、危険側に設定するのならば、基準策定の経緯を含め十分な開示がなされるべきである。

また、「原子炉や原子炉建屋を除く重要機器の一部は、地盤のずれなどを吸収するような設計であれば例外扱いできる」ことになっているという。
このような例外規定に関しても、なぜ例外を設けるのか、例外の条件はどのようなものかについて、明確にすべきであろう。

安全基準が従来より厳しくなったわけであり、必要な対策と想定される事故処理を行った場合、原発が本当にコスト優位性があるのか再検証してみることが必要ではないか。
⇒2011年12月14日 (水):原発の発電コストはいくらと見るのが妥当なのか?/原発事故の真相(13)
⇒2012年11月25日 (日):原発の立地をどう判断するか?/花づな列島復興のためのメモ(162)
2013年1月14日 (月):除染の実態(続)-汚染の拡散と健診の不正/原発事故の真相(54)

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2013年1月22日 (火)

抽象的概念を規定する方法/知的生産の方法(32)

「〇〇とは何か?」
こういう問いは、日常的によくあるし、少し厳密な議論をしようと思えば不可欠といえよう。
しかし、「そのための方法論は?」ということになると、学校でも、職場でも教えられた記憶がない。
九鬼周造『「いき」の構造』岩波書店(3011)は、「いき」というような曖昧で捉えどころのない概念にどうアプローチしていくか、格好のテキストともいえる。

「いき」の構造』の内容は決して平易というものではない。
しかし、構成といいボリュームといい、それこそ「いき」な書だと思う。

全体の構成は次の通りである。
  一 序  説
  二 「いき」の内包的構造
  三 「いき」の外延的構造
  四 「いき」の自然的表現
  五 「いき」の藝術的表現
  六 結  論

まず、内包的構造と外延的構造とはどういうことか?
goo辞書では次のように説明している。

外延:論理学で、概念が適用される事物の集合。例えば、惑星という概念の外延は水星・金星・地球・火星・木星・土星など。
内包:論理学で、概念が適用される事物に共通な性質の集合。例えば、学者という概念の内包は「学問の研究者」など。

ある疑念に含まれるものが外延で、それらに共通の性質が内包ということであろう。
中山元『思考の用語辞典』筑摩書房(0005)により、もう少し調べてみよう。

外延と内包は、英語ではextensionとintensionである。
語源的にいうと、ラテン語の伸ばす(tendere)という語に、外を意味するexと内を意味するinをつけたものである。
つまり、外延extensionは拡がりを示し、内包intensionは内側に含まれるものを示す。

「外延的な定義」といえば、その言葉(モノ・コト)に当てはまる実例を集めて、そのモノ・コトを定義するという方法である。
例えば「芸術」という言葉について考えれば、芸術と考えられるもの(文芸、音楽、絵画、映像など)の集合を考えるということである。
「惑星」ならば、水・金・地・火・木・・・である。

しかし、「惑星」か否かははっきりしているが、「芸術」か否かは必ずしもはっきりしていないのではないだろうか。
例えば、毛筆の書き文字などは、芸術である場合もあればそうでない場合もある。
楽器の演奏や陶芸なども同様であり、外延的な定義をすることは、芸術的な書き文字、楽器演奏、陶芸作品等を定義しなければならないのではないか?

一方、「内包的な定義」は、その言葉の本質的な属性を考える、という方法であり、「芸術とは○○である」と考えるということである。
この場合も、惑星ならば分かりやすいが、芸術などは難しい。
「芸術とは人に感動を与えるものである」は間違いではないだろうが、それだけか?

九鬼周造は、(「いき」の)自然的表現と藝術的表現を対比的に説明している。
自然的表現は、人の手によらないものであるのに対し、藝術的表現は人が意図して表現したものであろう。
しかし、人が意図して表現したものの中で、藝術的表現と呼ばれるための条件は何か?

外延的に、「あるものが芸術である」と言えるためには、「芸術とはどういうことか」が分かっていなければならない、言い換えれば内包が明確にされていなければならないのではなかろうか。
書き文字や楽器の演奏や粘土細工が、「これは芸術である」ということが正しいかどうかは、「芸術」という概念にそれらが含まれているかどうかが予め分かっていなければならないのではないか?
それは「どうどう巡り」ということにになってしまうように思われる。

また、内包的に「芸術とは○○である」といえるためには、芸術と比較対照されるものがあって、その差異が説明可能でなければならない。
比較対照されるもののなかで、共通するものを「類」、その中での違いを「種差」という。
芸術と非芸術、例えば書き初めの習字、リハビリのための粘土細工、騒音でしかない楽器の演奏、あるいはダジャレやスポーツなど、が同じ類(あるいは種)に属する(芸術)のか違う類(あるいは種)に属するのか(非芸術)、ということはどうやって決まるのだろうか。

それはその言葉の概念だけで決められるわけではない。
その語が適用されている現実を参照する必要があるだろう。
つまり、外延を考えることではないか。

芸術の外延である文芸、音楽、絵画、映像……などのすべての外延を貫く内包的な定義(芸術の本質)を規定することができるのだろうか?
そんなものはあり得ないのではないか、ということがウィトゲンシュタインなどによる最近の哲学の帰結らしい。
何だか当たり前のような、当たり前ではないような話ではあるが……。

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2013年1月21日 (月)

「コク」の思考と『「いき」の構造』/知的生産の方法(31)

私が、村山昇『「キレ」の思考 「コク」の思考』東洋経済新報社(1211)において、ヒザを打ちたくなった箇所の1つが、九鬼周造の『「いき」の構造』を挙げていたことである。
この書は、いわば「近代の古典」と考えられる。

私は、中公新書の第1冊目として、1962年に刊行された日本の名著―近代の思想 』で、この書の存在を知った。
多分、1963年に大学に入学してからのことである。
実際に岩波書店から出ていた本を読んだのは、だいぶ後のことだったはずである。
一読しただけでは、なんのことやら、という感じであった。

「いき」の構造』の優れた解説書に、安田武、多田道太郎『『「いき」の構造』を読む』朝日選書(7903)がある。
対談形式の解題の書であるが、二人とも、日本文化に造詣が深く、かつ読み巧者という定評の持ち主であるので、良くできた解説書になっている。
同書の冒頭に、次のようなやりとりがある。

多田:安田さんのテキスト(九鬼周造『「いき」の構造』岩波書店)は何版ですか。
安田:僕が持っているのは第十刷、昭和四十一年の版です。
多田:僕のが三十三年の第八刷ですから、その間あまり刷ってないですね。ところが最近また若い人がずいぶん読んでいるらしい。九鬼周造の名前は知らなかったけれども評判を聞いて読んだとか、題名に惹かれて読んだとか……。

私の本棚にあったのは、安田さんと同じ第十刷のものであるが、新刊ではなく古書である。
神保町の古書店のラベルが貼ってある。

林秀彦さんという脚本家がいた。
『鳩子の海』『七人の刑事』『若者たち』『ただいま11人』など、ある年代の人にとっては懐かしいと感じるのではなかろうか。
林さんは、こういうヒット作を次々と世に送り出したシナリオ・ライターだった。
三島北高校出身の女優で、最近は俳人の顔も持つ富士真奈美さんと結婚していたことがあった。

私は、ある偶然から、ゴールドコーストを見下ろす山の上の林さんのお宅を訪ねたことがある。写真で拝見していた通りの端正な風貌と紳士的な振る舞いが印象的であった。
写真というのは、『梗概』という小説のカバーに使われていたものである。
私が、『梗概』のことを話題にすると、多分オーストラリアでそういう人に会うことが少なかったためであろうと思うが、ちょっと嬉しそうな顔をされて、話が盛り上がる1つのきっかけになった。
林さんが帰国されたことは報じられていたが、改めて検索してみて。2010年に亡くなられていたことを知った。

林さんは、日本での生活に疲れ果て、日本ではもう生きていけないという思いで、オーストラリアに移住したという(『日本を捨てて、日本を知った』草思社(9906))。
そして、自己主張と嫉妬が渦巻くアングロ・サクソン文明の中で暮らすうちに、グローバル・スタンダードの美名に惑わされて、みずからの美点を捨てようとしている日本の姿に気づいた。
虹と同じで、その中にいると見えないものがある。
虹は、一定の距離をもって、しかも特定の角度でないとみえない。

オーストラリアの山の上という隔絶された世界に住んでみて、林さんは、日本にいた時には見えなかった日本という国の美しさを見たのだろう。
日本的な思考・美意識こそ、これからの文明の礎になるべきではないのか。
「キレ」の思考 「コク」の思考』において、村山氏も「日本人は、元来「コク」の思考において、民族コンピテンシー(強みとする能力)を発揮してきたはずである」としている。

その民族コンピテンシー(強みとする能力)は、日本語と共に存在する。
⇒2010年7月10日 (土):日本語のコミュニケーション/梅棹忠夫さんを悼む(3)
⇒2012年11月29日 (木):日本語の表記の豊かさと仮名の創造/知的生産の方法(26)
林さんのいう日本的な美意識の代表が「いき」の概念であり、思考の代表が『「いき」の構造』であった。
林さんは、『「いき」の構造』を、「知り合う若者には誰彼かまわず『死んでも読め』と薦めた」と書いている。

九鬼周造は、「一 序説」で、次のように問いかける。

先づ一般に言語といふものは民族といかなる関係を有するものか。

九鬼の考察を、大久保喬樹編『九鬼周造「いきの構造」   ビギナーズ 日本の思想』角川ソフィア文庫(1202)の表現で示せば、次のようである。

私たちは民族を形成して暮らしているが、その民族の特質は言葉を通じて現れる。言葉というものは、その民族の過去から現在までのありようを語るのであり、民族性の表現にほかならないのである。それゆえに、ある民族の言葉というものは、必ず、その民族のの暮らしに固有の特異な色合いを帯びているものなのである。

その日本語の代表として、九鬼周造は「いき」という言葉を選んだ。
つまり、「いき」という日本語は、民族的ニュアンスの著しい語ということになる。
言い換えれば、民族コンピテンシーが発揮される部分ではなかろうか。

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お詫び

単純な勘違いにより、重大なミスをしていたので、お詫びをします。
まったく迂闊なことですが、「2013年1月17日 (木):「キレ」の思考と「コク」の思考/知的生産の方法(28)」の項で、肝心の『「キレ」の思考 「コク」の思考』の著者名を誤記していた箇所がありました。

著者の村山氏から記事についてのコメントを頂きました。
村山氏からミスについてのご指摘はありませんでしたが、当該記事を読み返すうちに気がついたものです。
村山氏に対して大変失礼なことであったと反省しています。
もちろん、私の趣意は村山氏に対するリスペクトであることは書いている通りです。
今後も同書の内容については話題にさせていただく予定です。
訂正済みでありますが、陳謝する次第です。
なお、私の気がつかないだけで同様の誤りをしている可能性はありますが、私の迂闊さの故ですので、ご容赦願います。

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2013年1月20日 (日)

時代を体現した大横綱・大鵬さん/追悼(25)

第48代横綱・大鵬の納谷幸喜さんが19日亡くなった。
72歳だった。
現在の平均年齢からすれば、若い死ではあるが、横綱になったのが1962年であるから、すでに半世紀前のことである。
肉体的にも精神的にもストレスを強いられた人生だったと推察される。
その意味では、決して「早過ぎる死」とは言えないような気がする。

大鵬と聞いて、やはり「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉に触れないわけにはいかないだろう。
子供に人気のあるものの代名詞だった。
当の大鵬は、「冗談じゃない。金で強くなった巨人とは違う」と反発していた、という。
私も、巨人と一緒にするなよ、という大鵬の気持ちは理解できるが、所詮ガキのいうことであって、まあ強いものに憧れるというのは自然なことだっただろう。

同時に、柏鵬時代という言い方もされた。
美術史の白鳳時代を連想させるが、剛の柏戸と柔の大鵬という対照的な相撲だった。
同時に横綱昇進を果たしたり、まさに両雄という感じの良きライバルだった。
柏戸の本名は富樫剛で、名の通り一気に相手を押し倒す豪快なものだった。
対する大鵬は、型を持たないのが型であった。
優勝回数に大きな差(大鵬32回、柏戸5回)があるが、柏戸には成人男子にファンが多く、「大洋、柏戸、水割り」という言葉もあった。

1971年に貴ノ花(先代二子山親方・故人)に敗れて引退を決意し、一代年寄「大鵬」を襲名した。
36歳の時に脳疾患のハンディを背負ったが、不屈の精神で復活した。
以下は、毎日新聞に紹介されている人生である。

 北海道弟子屈(てしかが)町出身。ロシア人の父と日本人の母の間に樺太(サハリン)で生まれ、終戦直後に北海道に移り住んだ。中学卒業後に営林署に勤めていたところをスカウトされて二所ノ関部屋に入門し、1956年秋場所初土俵。59年春場所後に18歳10カ月で新十両、60年初場所には19歳7カ月で新入幕。その場所で12勝を挙げて敢闘賞を受賞した。
 その後も史上最年少昇進記録を塗り替えて出世。入幕4場所目に新三役になると、三役3場所目の60年九州場所で初優勝し20歳5カ月で大関へ。大関5場所目の61年秋場所には、柏戸との優勝決定戦を制して柏戸とともに横綱昇進。新入幕から所要11場所での横綱昇進は歴代最速。21歳3カ月は北の湖にしか破られていない。
 横綱昇進時は187センチ・133キロ。バランスの取れた体と、右、左どちらの四つでも取れる攻め手の豊富さで優勝を重ね、横綱5場所目の62年名古屋から63年夏場所まで6連覇、さらに66年春場所からも6連覇を達成。全勝優勝も8回記録。その強さと人気から、9連覇を果たしたプロ野球の巨人や、世代を問わない好物と並び称され「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉も生まれた。
 68年にはひざのけがで4場所連続休場したが、休場明けの同年秋場所2日目から69年春場所初日まで、双葉山に次ぐ当時昭和以降2位の45連勝をマーク。2日目に戸田に敗れたのも、先に戸田の足が出たのを審判団が見落としたもので、これ以降、判定にビデオ映像が参考資料として使われるようになった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130119-00000037-mai-spo

樺太からの引き揚げの経緯に始まり、戦後の復興と高度成長を体現したような存在だった。
おりしも私の住んでいる地域では、西武百貨店が地方展開の1号店としてオープンした西武沼津店が今月末をもって閉店する。
地方の疲弊を象徴するような閉店である。

大鵬という巨星が墜ちて、確かにある時代が終わったという感じがする。
合掌。

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2013年1月19日 (土)

物理学的パラダイムと生命論的パラダイム/知的生産の方法(30)

最近はひと頃のように、パラダイム・シフトとかニュー・パラダイムという言葉を耳にしなくなった。
しかし、東日本大震災、とりわけ福島原発事故を体験した現在こそ、新しいパラダイムが求められているのではなかろうか。
いわば文明のあり方といったものが問われているように思われる。
⇒2011年3月22日 (火):津々浦々の復興に立ち向かう文明史的な構想力を
⇒2012年5月24日 (木):「3・11」後社会のパラダイム/花づな列島復興のためのメモ(72)

村山昇『「キレ」の思考 「コク」の思考』東洋経済新報社(1211)の主張は、「キレ」の思考に偏り過ぎの弊害と「コク」の思考の復権を促すものともいえる。
そして、冒頭に以下のような図が示されている。
Photo

ニュートンの運動方程式は、近代科学技術の発展の基盤となったものである。
近代合理主義であるが、それは機械的世界観と要素還元主義を2つの柱としている。
機械的世界観とは、「世界は1つの巨大な機械と見なすことができる」とする考え方である。
要素還元主義とは、「対象を認識するためには、対象を要素に還元し、それぞれを個別に詳しく調べ、調べた結果を再び統合すればいい」とする考え方である。

近代合理主義は、世界は設計・制御可能な機械であり、それを適切に行うためには構成要素に分解して考えればいいとするものである。
すなわち、「分ければ分かる」である。
坂本賢三『「分ける」こと「わかる」こと』講談社文庫(0606)という著書があるように、「分ける」ことすなわち「分析」は、「分かる」ためのオーソドックスな方法である。

機械論パラダイムは、近代科学技術の華々しい“成功”を導いてきた。
その代表が物理学であり、20世紀は物理学の世紀でもあった。
化学や生物学などの自然科学の多くの分野で物理学の影響は大きく、物理学帝国主義などとも言われたりした。

近代合理主義の“成功”は、われわれの生活を飛躍的に向上させた。
しかし、その“成功”の結果として、さまざまな弊害も発生してきた。
環境問題や公害問題などが典型であり、ドネラ H.メドウズ成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート』ダイヤモンド社(7205)は、それを「見える化」したものといえる。
⇒2011年12月24日 (土):『成長の限界』とライフスタイル・モデル/花づな列島復興のためのメモ(15)

その限界をもたらしたものの要因の1つは、要素還元主義ではないか?
全体は単なる構成要素の集合としての性格だけでは考えられないことが多く、全体として捉えることによってはじめて理解できる性格を考慮しなければ解決しない「問題」が増えている、というような考え方が台頭してきた。
生命論パラダイムと呼ばれるもので、全体を全体として捉えようというホリスティックな考え方を柱としている。
福岡伸一『世界は分けてもわからない 』講談社新書(0907)である。

このような世界観を代表するのが、南方熊楠の描く「南方マンダラ」ということになる。
もちろん、ニュートン的な近代合理主義を否定しようということではなく、南方マンダラ的生命論パラダイムを適切に評価することが必要ではないか、ということである。
原発事故や最新鋭旅客機事故に接し、今こそパラダイム・チェンジの時代ではないかと思う。

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2013年1月18日 (金)

ボーイング787機の不具合と「キレ」の思考の限界/知的生産の方法(29)

連日、ボーイング社の新鋭機787のトラブルが報じられている。
昨秋から、燃料漏れやバッテリー火災などが続出していた。
16日には、山口宇部発羽田行き全日空692便が飛行中に機内で煙が発生し、高松空港に緊急着陸した。

この事態を受けて、17日には日米の航空当局による強制的な運航停止措置が発せられた。
1979年のDC10以来、実に34年ぶりの措置だという。
深刻な事態であることは疑い得ない。

全日空機が高松空港に緊急着陸したトラブルは、国土交通省運輸安全委員会により、メーンバッテリーが黒く炭化していたことが明らかにされた。
全日空機のリチウムイオン電池を搭載したバッテリーは、電解液が噴出し、炭化していたことが分かった。

B7872
787では、777型機のような従来の機体では油圧や空気圧で動かしてきた機器の多くを電気で動かすため、電力の使用量が大幅に増加している。このことを背景に、従来機ではニッケルカドミウム(ニッカド)電池を採用してきたが、787では民間航空機としては初めてリチウムイオン電池を採用した。このリチウムイオン電池を製造したのは、日本のジーエス・ユアサコーポレーション(GSユアサ、京都市)。GSユアサ社は05年の段階で仏タレス社を通じて787向けにリチウムイオン電池を供給することが決まっていた。
当時のGSユアサの発表では、(1)ニッカド電池に比べてエネルギー密度が2倍あり、同じ寸法であれば2倍の電力を供給できる(2)75分間で90%充電が可能(3)管理装置を搭載し、二重の安全性を保証している(4)角形密閉(メンテナンスフリー)構造で航空機の通常の使用環境よりもはるかに厳しい環境にも耐える設計となっている、といった点をアピール。まさに「小さいスペースで多くの電力が供給できる」という点が787の特性とマッチした形だ。
だが、リチウムイオン電池には、材料として使われている有機溶媒に発火性があるという問題点が指摘されてきた。

http://www.j-cast.com/2013/01/17161704.html?p=all

ボーイング787は、低燃費で長距離飛行が可能という触れ込みで、日本の航空会社が世界に先駆けて導入した最新鋭旅客機である。
機体には多くのIT機器が搭載されている。
言わばコンピュータの塊のようなものだろう。

これらの機器は電力で動く。
バッテリーは、電力供給の要であるが、そこに思わぬ弱点があったのだろうか。
福島原発事故でも、全電源喪失という「想定外」の事象が発生した。

787機の事故の報道を受け、関連企業の株価が下落している。

 GSユアサ株は16日も4・5%の下落し、2日間で9・2%も値を下げた。
 市場関係者からは「全日空や日航の減収は限定的だが、原因究明が長期化すれば、生産が一旦停止する可能性もある。航空会社よりも関連の素材や機器供給会社の方が、出荷ストップを余儀なくされ、業績に与えるリスクは大きい」(外資系証券)といった見方が出ている。
 株価もこれを反映。17日は全日空株が0・5%下落したのに対し、炭素繊維素材をボーイングに供給する東レや、内装品を出荷するジャムコは4%後半の下落率となった。
 また、16日のニューヨーク株式市場では、ボーイング株も前日比3・4%下落した。

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130117/fnc13011718150015-n1.htm

「キレ」の思考・「コク」の思考で考えれば、最新鋭旅客機は、「キレ」の思考の結晶あるいは精華であるといえよう。
「キレ」の思考とは、言葉を換えて言えば、要素還元的な思考であろう。
原子炉やボーイング787は、複雑系の性格を持っていると考えられる。

複雑系の概念をごく単純に要約すると、「システムを構成する要素の振舞いのルールが、全体の文脈によって動的に変化してしまうシステム」(井庭 崇、 福原 義久複雑系入門―知のフロンティアへの冒険 』NTT出版 (1998/06) )ということになる。
787機の場合、バッテリーの振る舞いのルールが変わってしまったのだろうか?

結果として、またしても「想定外」の事態である。
「想定内」ならば、当然対策が立てられているはずである。
複雑なハイテク装置の宿命のようなものだろう。

梅棹忠夫さんの表現に従えば、「文明の歴史は、人間・装置系の自己発展の歴史」ということになる。
福島原発事故に続き、私には複雑系となった装置系が人間の制御の範囲を越えている現象のように思える。
私たちは、文明を「コク」の思考に基づいて考えるべき時代にいるのではなかろうか。

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2013年1月17日 (木)

「キレ」の思考と「コク」の思考/知的生産の方法(28)

最近は、思考技術についての良書が数多く出版されるようになった。
私が某リサーチ・ファームに在職していた頃(1970年代)に、同僚たちと思考技術研究会というインフォーマルな組織によって、手探りの学習をしていた時代に比べると雲泥の差である。
⇒2007年11月22日 (木):コンセプチュアル・スキル
⇒2010年12月25日 (土):イシュードリブン/知的生産の方法(1)

私が、これは良書だ、と思ったのは、村山昇『「キレ」の思考 「コク」の思考』東洋経済新報社(1211)である。
「キレ」と「コク」といえば、まず思い浮かぶのは、ビールのテイストである。

【コク】
ビールを口に含むと、「にがみ」とか「しぶみ」とか、「すっぱさ」などといった味成分が舌の粘膜に吸着する。この味成分が、飲んでいる間にたくさん舌の粘膜に吸着すると、ビールにはコクがある、と感じる。
  【キレ】
ビールを飲み終えたときに、吸着した味成分がスッと舌から洗い流されると、ビールにはキレがある、と感じる。

サッポロビール・価値創造フロンティア研究所
http://www.sapporobeer.jp/kenkyu/frontia/kokukire.html

つまり下の粘膜に吸着するか、吸着した成分が洗い流されるか、ということであるから、両立し難い概念であると考えられる。
それを逆手にとって、「コクがあるのにキレがある」というコピーで市場を席巻したのがアサヒビールのスーパードライであった、

国内のビール市場は、4社が競う典型的な寡占市場である。
キリン、サッポロ、アサヒ、サントリーである。
中ではキリンが抜け出ていて、長らくガリバー的な地位を占めていた。

アサヒビールは、1980年代には後発の(ウィスキーが本業と考えられていた)サントリーと、最下位を争うという危機的な事態を迎えていた。
スーパードライが販売を開始したのが1987年。
圧倒的な人気を呼び、ついに1997年にはキリンを抜いてトップに立つという劇的な展開は、商品開発や市場浸透のサクセス・ストーリーとして、多くの人が知るところである。

それでは、「キレ」の思考・「コク」の思考とはどういうことか?
ビールでお馴染の言葉・概念を応用した感覚に先ずは脱帽するが、内容的にも目を見張るようなことが沢山ある。
著者のプロフィールは、奥付によれば以下のようである。

概念工作家、組織・人事コンサルタント、キャリア・ポートレートコンサルティング代表
企業の従業員・公務員を対象に、「プロフェッショナルシップ」(一個のプロとしての基盤意識)醸成研修、キャリア教育のプログラムを開発・実施している。

概念工作家とは余り耳にしない言葉であおるが、私自身、調査・企画といった業務に携わっていた頃、コンセプチュアル・スキルと呼ばれているものを工学的に、言い換えれば合目的的に、整理できないだろうかと考えて、コンセプチュアル・エンジニアリングという言葉を考えたことがあった。
したがって、概念工作家という村山氏の表現に違和感はなかった。
かの松岡正剛氏に『概念工作』というタイトルの著書があり、しばらく蔵書していた記憶がある。
書棚を整理する中で行方不明であり、Amazonで検索しても確認できない。

村山氏は、「キレ」の思考・「コク」の思考を次のような図で説明する。
Photo

つまり、思考の運動の座標軸を、以下のような3次元で考える。
・Logic-Image
・Abstract-Concrete
・Subjective-Objective

「キレ」の思考は、C(具象)×L(論理)×O(客観)領域を運動の範囲とする思考であり、「コク」の思考は、A(抽象)×I(イメージ)×S(主観)の領域を運動の範囲とする思考である。

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2013年1月16日 (水)

アレフに敗訴の警察は真摯な反省を

国松警察庁長官銃撃事件が起きたのは、1995年3月30日のことであった。
阪神淡路大震災が起きて日本社会が混乱する中で、上九一色村のいわゆるサティアンに強制捜査が行われたり、地下鉄サリン事件が発生するなど、落ち着かない日々の中でそれは起きた。
多くの人が、「またオウムか?」と思ったのではなかろうか?
⇒2010年5月 2日 (日):「恐竜の脳」の話(2)オウム真理教をめぐって

オウム真理教は、主な信者に、高学歴の理系人間が多いことでも注目された。
⇒2011年11月25日 (金):オウム真理教事件と知的基礎体力(?)

国松長官事件は、犯人を特定できないうちに時効期間の15年を迎えてしまい、終結せざるを得なかった。
警視庁は、2010年3月30日に捜査結果を発表した。
そのとき公安部長が、「犯人を特定できる証拠はなかったが、犯人はオウム真理教の信者グループによるテロ以外に考えられない」とした。
130116
東京新聞2013年1月16日

これに対して、オウム真理教から改称した団体であるアレフが、「オウム真理教の信者グループによるテロ」という表現が名誉棄損に当たるとして提訴した。
警察側は「アレフとは名指ししていない」などとして、これに反論した。
立件されなかった事件ついて、犯人を名指し(特定)することの可否が争われたわけである。

東京地裁は、「オウム真理教とアレフは実質的に同一団体と一般的に認識されている」と指摘して、公表により「アレフがかつて事件を実行した宗教団体だとの印象を受ける」とした。
法務・検察幹部にはこのような公表の仕方はまずい、という判断もあったようであるが、警察が押し切って公表した。
状況証拠からすれば、オウム真理教はきわめて疑わしいことは否定できないだろう。
しかし、疑いが濃いことと、犯人だと断定することには質的な差異がある。
いわゆる千里の径程があるといえよう。

東京地裁が、「無罪推定の原則に反し、重大な違法性を有する行為」と指摘したことは当然であると思う。
東京地裁は謝罪文の交付まで命じている。
このところ、捜査側の重大なミスが多い。
警察側は、公益上必要な措置を強調するが、恣意性が入り込むことを避けられない。
たとえ善意からスタートしたことであったとしても、世の中を害する結果になることがあることはやってはいけないのである。

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2013年1月15日 (火)

反権力の闘士・大島渚さん/追悼(24)

今日の午後、映画監督の大島渚氏が亡くなった。80歳だった。

大島さんは京都府の出身で、京都大学を卒業後、昭和29年に助監督として映画会社の「松竹」に入り、入社から僅か5年という異例の早さで監督になりました。
昭和35年に発表した「青春残酷物語」や「太陽の墓場」など性や暴力を描いた社会派の作品が話題となり、日本映画の新しい波「ヌーベル・バーグ」と評されて、映画革新の代表的な存在になりました。
しかし、自身の学生運動を投影させた作品「日本の夜と霧」の上映を、映画会社が公開から4日で中止にしたことに抗議し、昭和36年に独立しました。
その後、低予算で芸術的な映画を製作する日本アート・シアター・ギルドと提携し、「絞死刑」や「新宿泥棒日記」などの話題作を次々と発表しました。
さらに大島さんは、フランスと合同で製作し、男女の究極の愛の姿を独特の映像美で描いた「愛のコリーダ」など作家性の強い作品を作り続け、昭和53年に発表した「愛の亡霊」は、カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞しました。
また、日本とイギリスなど、4か国の合作映画で、太平洋戦争中の日本軍の捕虜収容所を舞台に、歌手で俳優のデヴィッド・ボウイさんらが出演した作品「戦場のメリークリスマス」は、世界的にも大きな話題となりました。
一方で、テレビの討論番組やワイドショーにも数多く出演し、歯に衣着せぬ発言は映画ファンだけでなく多くの人たちに強い印象を残しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130115/k10014817051000.html

私にとっては、映画監督や討論番組の論客としてはもちろんだが、脳血管障害に倒れ、そこからリハビリによって社会復帰を遂げた人、という意味で大きな存在だった。
⇒2010年12月 2日 (木):大島渚の闘病生活/闘病記・中間報告(16)
大島さんのリハビリは、夫人で女優の小山明子さんが『小山明子のしあわせ日和―大島渚と歩んだ五十年』清流出版(1010)にまとめている。
Photo_2

小山さんの介護生活は決して順調なものではなかった。
自身が鬱になったりもした。

大島さんは、最初の発症から5年後に、再発している。
私も3年を経過したところだが、何とか再発を避けたいと念じている。

大島さんの印象は「怒れる人」であろう。
京都大学時代には、京都府学連の委員長を務めたという。
TVの討論番組でも、激昂するのが「ウリ」だった。

脳血管障害患者の後遺症の1つに、感情失禁ということがある。
⇒2012年11月11日 (日):感情失禁について/闘病記・中間報告(55)
大島さんも例外ではなかったようだ。
小山さんの努力は尋常ではなかったであろう。
怒れる反権力の闘士に、ようやく安息の時が来たのであろうか。
合掌。

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2013年1月14日 (月)

除染の実態(続)-汚染の拡散と健診の不正/原発事故の真相(54)

原発事故で汚染された地域の除染作業が行われている。
しかし、次々にその問題点が明らかにされつつある。
その一端について触れたが、氷山の一角に過ぎないようである。
⇒2013年1月11日 (金):除染の実態/原発事故の真相(53)

問題点の1つは、除染作業そのものについてである。
国が直轄で行っている除染で、除去土壌や枝葉が川に捨てられるなど不適正に処理されているとの指摘があった。

 指摘があったのは、福島県田村市、楢葉町、飯舘村の3市町村の除染現場。環境省の除染ガイドラインでは、除染で発生した放射性廃棄物は飛散防止のため、袋詰めなどの措置を取るよう求め、特措法で不法投棄を禁じている。しかし、一部の請負業者が、落ち葉などを川や崖下に捨てた疑いがあるとの指摘があり、環境省は来週中にも元請けゼネコンの現場責任者を環境省福島環境再生事務所(福島市)に呼び、事実関係を確認することにした。
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130105ddm012040135000c.html

これでは、飛散防止どころか、汚染の拡散である。
Photo
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2699.html

問題点の第二は、除染事業における作業員への給与・手当の支払いに関してである。
作業員の健康診断や安全講習の費用は国から出るにもかかわらず、業者が作業員本人に負担させていたことが分かった。

 被ばくの危険がある除染作業では、業者は作業員を雇う際に、白血球の数など詳細な健康診断を受けさせるよう国の規則で義務付けている。除染作業には不可欠の草刈り機も、使うには安全講習を受ける必要がある。
 福島県田村市で除染に従事している作業員らによると、採用の際に健康診断や講習を受け、その場で費用を自分で支払ったり、いったんは業者が支払った後に「立て替え金」として給料から天引きされた人が多くいた。
 しかし、健康診断も講習も、費用は放射線防護や安全管理に必要な経費として、発注元の国が業者に支払うことになっている。業者の負担はないため、作業員に費用を負担させれば、その徴収分は業者の不当利得になる。

130113
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013011302000086.html

熱力学の教えるように、放置すれば汚染は拡散する。
除染で発生した放射性廃棄物を袋詰するなどの措置を取るのは、汚染を拡散させないためである。
熱力学的には、エントロピーの増大を防ぐということである。
そのためには、汚染された物質をあつめて集中的に処理することではないか。
⇒2012年12月30日 (日):土壌中の放射性セシウム除去の新技術/花づな列島復興のためのメモ(180)

除染の実態は、犯罪行為の横行ではないか?
原発のコストとして、事故が発生した場合の処理費用を適正に見積もることが必要であろう。
確率が小さくても、無限大に近い費用であることを認識すべきだ。

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2013年1月13日 (日)

綱領なき悲喜劇-繰り返された内ゲバとまやかしのマニフェスト/民主党とは何だったのか(8)

私は、東日本大震災が起こる前、民主党政権の「期待」と「現実」の落差に愕然とし、「民主党とは何だったのか」について少し考えてみようと思った。
⇒2011年2月18日 (金):民主党とは何であったのか
⇒2011年2月27日 (日):菅政権への失望感をどう解消するか?/民主党とは何だったのか(2)
⇒2011年3月 1日 (火):「民主党A」と「民主党B」について/民主党とは何だったのか(3)
⇒2011年3月 3日 (木):民主党政権への伏流/民主党とは何だったのか(4)
⇒2011年3月 7日 (月):民主党は内ゲバ集団か?/民主党とは何だったのか(5)
⇒2011年3月 8日 (火):「啓蟄」とポスト菅の行方/民主党とは何だったのか(6)

ところが、東日本大震災が発生し、その作業そのものが意味がないに等しくなってしまった。
⇒2011年3月28日 (月):政権交代への伏流の概観/民主党とは何だったのか(7)
そして、昨年末の総選挙によって、民主党は惨敗し、下野することになった。
⇒2012年12月17日 (月):総選挙の結果をどう見るか?/花づな列島復興のためのメモ(175)
民主党の惨敗は「想定内」のことではあったが、小選挙区制の宿命であろうが、自民党の想定以上の圧勝である。

ここでもう一度、「民主党とは何であったのか」を問うことに、余り意味はないだろう。
しかし、曲がりなりにも、衆院で辛うじて野党第一党を維持している政党である。
民主党の総括をしておきたい。

「週刊新潮2013年1月17日号」に、横田由美子氏の『小説民主党/「内部ゲヴァルト」水滸伝/瀕死の最終章』が載っている。
「2011年2月24日号」の掲載分を紹介したことがあるが、この間に中間の掲載があったかどうか分からない。
しかし、野党に転落してもなお内ゲバを繰り返しているこの党に、復活の日はないのではなかろうか。

横田氏は、新春の新聞記事で、民主党の新代表となった海江田万里氏の伊勢神宮参拝後の記者会見の記事が、社民党の福島瑞穂党首より小さいベタ記事扱いだったことを紹介し、民主党が消失しかかっている姿であるとしている。
なぜ、新代表を選出し、反転攻勢に出ようとしているはずの民主党は、消失の雰囲気を漂わせているのか?

横田氏は、それを果てしなく内ゲバを繰り返す体質にあると見ているようである。
代表戦は、海江田氏と馬淵澄夫元国交省の間で争われた。
海江田氏は、今まで非主流派だった輿石東参院議員会長が推した候補であり、帰趨は投票前から明らかであった。
馬淵氏は、総選挙前の主流派・凌雲会が推した。
細野豪志氏や連舫氏らの有力候補が辞退する中で、主流派ではあるが真正主流派とはいえない立場の馬淵氏は、捨て駒としての意味も期待されていた。

そもそも、野田氏の解散宣言は全くの状況判断ミスであった。
その状況判断を主導したのは、野田前首相、安住淳前幹事長代行、前原誠司前国家戦略相、岡田克也前副総理の「四人組」だった。
彼らは、一貫して戦略ミス、状況判断ミスを繰り返した。

民主党内部は、横田氏の描くように、内ゲバを止揚できない集団だったといえよう。
内ゲバは組織の活力の一面ではあろうが、民主党の場合はあまりに程度が低い。

内部的な要因は別として、対外的には、やはりマニフェスト違反ということが大きいのではないか。
マニフェストに書いてあることは真摯に努力をせず、マニフェストに書いていない消費税増税に猛進する。
菅元首相は参院選でNoを突き付けられたことを反省しなかった。
⇒2010年9月11日 (土):菅首相続投で、本当にいいのだろうか?

また、野田前首相は野党の自公と談合するという始末である。
⇒2012年3月 7日 (水):与野党談合増税と復興/花づな列島復興のためのメモ(33)
⇒2012年8月 9日 (木):民自を自壊に導く茶番的談合/花づな列島復興のためのメモ(126)
財務省の洗脳かどうか知らないが、国民から見放されるのは当然であろう。

繰り返された内ゲバとまやかしのマニフェスト。

結局は、綱領によるアイデンティティの確立を図り得なかったことが根本の原因ではないか?
⇒2011年1月 5日 (水):綱領なき民主党の菅VS小沢の不毛な争い
⇒2011年8月24日 (水):綱領なくして漂流する民主党の出口戦略を問う
⇒2012年11月23日 (金):民主党政権への挽歌/花づな列島復興のためのメモ(160)
野合といわれても仕方がないのが、民主党の基本的性格であった。

 

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2013年1月12日 (土)

政権交代という共同幻想/戦後史断章(9)

2009年の総選挙に比べると、昨年末の総選挙は、熱気が感じられないものだったことは多くの人が言っている。
同じように政権交代が起きたのに、この違いは何だろうか?

書店をブラウジングしていたら、呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』筑摩書房(1212)という本が目に留まった。
「これだ!」と思った。

いうまでもなく、吉本隆明氏は「戦後最大の思想家」と評された人である。
昨年の3月に亡くなったが、多くの雑誌が追悼号を出していることからも、その存在の大きさ、影響力の広さが窺える。
私も、熱心な読者であったとはいえないが、影響を受けたと自認している。
2012年3月16日 (金):さらば、吉本隆明/追悼(20)

その吉本氏の代表作といわれているのが『共同幻想論』である。
難解な著書で私も何回か読破しようとトライした記憶がある。
呉氏は、その「共同幻想」という概念を逆手にとって、吉本人気は、結局共同幻想に過ぎなかった、と言っているようである。

吉本氏の影響力を表しているものとして、たとえば室伏志畔氏の論考を見れば十分であろう。
室伏氏は、次のように書いている。

私は幾度となく時代の曲がり目毎に吉本隆明から顔を張られた思いがある。そのたびに私は身構えを改めてきた。それを私に促したのは吉本思想が常に手放すことのない時代への批評的介入の見事さにあった。
⇒2012年3月20日 (火):『方法としての吉本隆明』/やまとの謎(59)

私は、呉氏の結論(?-実は未だ読了していない)に妙に納得した。
呉氏は、ネガティブな評価として使っているのだろうが、その存在あるいは言説が「共同幻想」となるとは、タダモノではないというべきであろう。

そして、2009年の総選挙の時の熱気というのは、「政権交代」という共同幻想が生み出したものではなかったか?
戦後の(イコール私の人生の)大部分が自民党政権によるものであった。
政治改革や行政改革が何度も叫ばれてきたが、結局は基本的な構造は変わることがなかった。
そして、国政に対する苛立ちが次第に煮詰まって、2009年の夏を迎えた。

この「政権交代」という共同幻想が「幻想」に過ぎないことを見事に示したのが、鳩山、菅、野田の3代の民主党政権であった。
この時期に、「3・11」という歴史的な災厄がわが国を襲ったのは、偶然に過ぎないだろうが、必ずしもそうは言えないという気もする。

そして、安倍氏の復帰という昨年末の熱気のなさは、もはや共同幻想が限りなく小さくなったことの反映だろう。
総選挙の結果は、自民党の圧勝だった。
しかし、それは「政権選択」の意識を伴わないものだった。
自民党政権という慣れ親しんだものへの復帰であり、人々は「羹(民主党政権)に懲りて、膾(第三極?)を吹いた」ようにも見える。

しかし、3年前と比べ、自民党の得票率が劇的に上昇したわけではない。
議席数は得票率を反映したものではないが、今の選挙制度の宿命であるから、当面はこの結果を受け入れざるを得ない。
そして、選挙だけが意思表示の手段ではないことを地道に考えていくしかないであろう。

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2013年1月11日 (金)

除染の実態/原発事故の真相(53)

「福島の復興なくして、日本の復興なし」と野田前首相は言った。
果して「福島の復興」は、どんな状況だろうか?

共同通信記者を務めた後、いわき市で会社員として勤務しながら、地域の未来について考える市民活動に参加している伊藤江梨さんという人が、福島の現況について、『ふくしまはいま、どんな状況なのか―若手世代が内側から見つめて』という寄稿を共同通信に載せている。
福島市で「ふくしま会議2012」が、昨年11月9~11日に開催された。
一昨年の第1回のふくしま会議のテーマは「分断と対立」だった。

よく知られているように、福島は、浜通り、中通り、会津という3つの地域で、風土や文化が相当異なっている。
私は学生の頃、浜通りの会社で工場実習をした経験があるが、比較的東京圏の影響を受けているといわれる浜通りでも、ネイティブ同士の会話はほとんどヒヤリング不能であった。
さすがに現在ではそんなことはないだろうが、先日、浜通り出身の若い知人と話をしていたら、会津の大学に進んだ彼は、当初会話がかなり困難だったと言っていた。
かように、福島といっても、多様であるので、震災後に福島の中の「分断と対立」がテーマになったのは、理解できる。
昨年は「子どもたちの未来のために」というテーマで行われた。

 一方で、警戒区域の避難者からの声があがることはなかった。着の身着のままで、行方不明の身内や家財道具一切合財を置いたまま避難し、いまも家から何十キロも離れた土地で暮らし、これから帰るめども全く立たずにいる避難者。まだ1年8か月。その間には原発城下町として、又は、賠償金受給者として、バッシングもたくさんあった。もしかしたら、整理のつかない混乱と喪失感とがまだ続いているのかもしれないが、それが語られることはまだ少ない。今も声を出せない人の声をまだ私は拾い切れていない。
……
 放射線量が高く、計画的避難区域に指定された飯館村では、村長が掲げる帰村や除染の方針について意見の違いが解消されないままにあるが、10月の村長選では現職の村長が無投票で再選。村民が避難する葛尾村長選も現職が74歳で7選目を果たした。衆院選では、投票率が過去最低を更新。自民党元職候補者が返り咲き、また従来通りの地元利益誘導や政治闘争が繰り返されるだろうと冷めた目線を送る市民は多い。

飯飯館村等の除染についてはさまざまな問題点が指摘されている。
田坂広志『官邸から見た原発事故の真実 これから始まる真の危機』光文社新書(1201)には、「除染について理解しておくべきこと」として、次の3点が挙げられている。
1.除染によって放射能が無くなるわけではない
2.すべての環境が除染できるわけでは
3.除染の効果があったかどうかは、分からない

3.については、放射線量の測定はできても、長期的健康被害に対する影響は分からない、ということである。
飯舘村民を対象としたアンケートでは、回答者の7割近くが、国が実施している除染の目標を達成しても帰村しないと回答している。
130111
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013011102000115.html

非難を余儀なくされている飯舘村民は、除染よりも生活再建支援を求めているといえる。
加えて、国直轄の除染事業で、下請け業者が、作業員の日給から半ば強制的に宿泊代や食事代を天引きし、国が支給する危険手当の一万円のほかは、一日千円程度しか支払っていない実態が明らかになった。
130111_2
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013011190070424.html

制度の趣旨から逸脱した不法行為である。
このようなダークサイドのビジネスが、復興の美名の下に行われている。
復興の道のりは遠い。

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2013年1月10日 (木)

「日本」という国名について/やまとの謎(78)

先頃、私の古い投稿に対して、 稲田麻緒という方からかなり長いコメントを頂いた。
⇒2008年5月16日 (金):「日本国」誕生
コメントは、抜粋すると、以下のようなものであった。

iPSの話題から、それならば歴史も新しい歴史ストーリーが出来るはずと考えて、インターネットにある歴史のDNA分析も1300年記念の年で完成、歴史断片の中から、初期化する要素情報を捜すことにしました。
私は、次のような仮説を立てました。
大山の西は、690年に統一された。
685年 白鳳寺院を各地に作らせる 高句麗の勢力あるところに白鳳寺院あり
689年 飛鳥浄御原令の発布をもって備前国、備中国、備後国に分割
    それから遅れること二十数年後、713年吉備津国滅亡、美作分割と丹波分割、出雲です
690年 撰善言司
711年には藤原の宮が焼失、(出張 二条城) ついに大阪城落城です。
712年 大長年号が終了する。
713年 好字令
703年 若光に王の姓が与えられる。
716年 各地の高句麗人が高麗郡に追い出される
724年 王若光 高麗郡司に初任  武蔵国司初任(百済)
731年 甲斐国司初任、諏訪国は廃止、信濃に併せる。
日本が日本となったのは大山の西が統一されたとき、690年、それから日本とはっきり意識するまでには、ヤマトが大和と表記され、日本がニホンと読まれるようになるまでやや若干の時間が掛かった。
国内は高句麗派とヤマト派の大きく二つの国に分かれていた。しかし渤海が成立して、高句麗派の朝鮮半島回帰の意味を失い、支持基盤が失われ、新羅との同盟から、親唐に意識が変わっていった。だから、吉備津国敗北と同時に、遣新羅使から遣唐使に変わり、白鳳時代は終わった。唐で遣唐使が日本と言って、710年平城京に移る。日本史が初期化したつもりです、歴史ストーリーに利用を期待しています。

私には、歴史の初期化という発想が興味深く思えたが、残念ながら現在の知識では論評することができない。
「日本という国の成立」について、100均ショップで売っている『日本の歴史事典』大創出版(0411)は、「もう一度勉強したい方に最適」をセールスポイントとしている。
ハンディでコンパクトにまとまっており、コスト・パフォーマンスが高いといえよう。
私は、手軽に俯瞰的にある時代をイメージしたい場合に、便利に使っている。
その1-2「弥生時代と邪馬台国」の項に、以下のような記述がある。

 中国の文献によれば、紀元前一世紀頃の日本には一〇〇余の小国があったとされ、また紀元五七年、(当時の日本)奴国の王が、後漢光武帝に使者を送り印綬を与えられるなど、この頃各地の王たちは中国や朝鮮半島と盛んに交易し、使者を送り先進文化を取り入れようとしていた。

良く知られているように、古代において、日本列島を中心とする地域は、中国各王朝から「倭」と呼ばれていた。
したがって、上記の「倭「当時の日本」」という表記は妥当でああろう。
しかし、その前の「紀元前一世紀頃の日本」というフレーズはどうであろうか?
別に直後に、「当時の日本」という書き方をしているから問題はないとも考えられる。
網野善彦『歴史を考えるヒント 』新潮文庫(1209)に目を通していたら、次のような記述がある。
冒頭の「Ⅰ「日本」という国名」のところである。

……しかし、国の名前であるならば、誰かがいつか何らかの意味を込めて定めたことになります。それでは、この国の名前が決まったのは、果していつだったのでしょうか。
……
 それでは、日本という国名が決まったのはいつなのかといいますと、現在の大方の学者の認めるところでは、淨御原令という法令が施行された六八九年とされています。
……
 いずれにしてもはっきり言えることは、このとき以前、つまり倭から日本に国名を変えた時より前には、日本国という国は地球上に存在しなかったということです。
……
「日本の旧石器時代」「弥生時代の日本人」といった表現を、今でも歴史学者は平気で使います。私も無意識にそういう言い方をしてしまうことがありますが、本当はこれは日本人の歴史意識を曖昧なものにする、決して言ってはならない表現だと思います。旧石器時代に日本という国はなく、弥生時代に日本人はいなかったのです。

私が知る限りでは、岩波新書に芹沢長介『日本旧石器時代 』(8210)という書籍がある。
芹沢長介といえば、わが国の旧石器研究のパイオニアであり、第一人者であった。
旧石器遺跡ねつ造事件に、芹沢の学説が影響していたのではないかとも言われている。

もとの研究分野は縄文時代だったが、彼は放射性炭素年代測定の結果によって日本列島に相当古くから人間がいた可能性を指摘し、議論を起こしつつあった。そのころ、岩宿遺跡で石器を発見したアマチュア考古学者・相沢忠洋の相談を受け、彼の発掘物を旧石器時代のものと確信して、発掘調査を行った。これまで日本に旧石器時代はないと見てきた考古学界に議論を巻き起こした。
以後、日本における旧石器時代の研究に尽力し、後期旧石器のみならず前期・中期旧石器もある可能性があると論じた。また、「遺物の年代は、層位が型式に優先する」との理論を提唱した。ただし、芹沢が掘り出した前期・中期旧石器に関しては、石器ではなく自然石が石器のように見える偽石器であるとする見解も強かった(前期旧石器存否論争)。それに対し芹沢は実際に前期・中期旧石器を出土させ、彼の論は学会の主流となった。
しかし、これらの発掘調査に関わっていた人物が藤村新一で、彼は芹沢の議論を補強するような旧石器を次々と発掘している。そして、旧石器捏造事件発覚によって殆どの遺跡が捏造であることが判明し、前期旧石器存否論争は振り出しに戻ってしまった。芹沢は「100万年前の石器を早く出せ」と口癖のように言い続け、藤村はそれに応じて「必ず見つける」と公言していた。捏造発覚が遅れたら、100万年前の地層から藤村が石器を「発見」していた可能性が高い。

Wikipedia

それはともかく、網野論法でいけば、『日本旧石器時代 』というタイトルは疑問であろう。

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2013年1月 9日 (水)

4つの事故調査報告書/「同じ」と「違う」(53)

福島原発事故について、政府、国会、東電、民間と4つの「事故調査報告書」が出ている。
事故の深刻さ、巨大さによるものであろう。
私は、どの調査報告書も精読はおろか、完読していない。
概要や気になる部分だけを流し読みしたに過ぎない程度の読み方で言うのはまことに気の引けることではあるが、「そうだったのか!」と池上彰さんの解説のようには分かった気がしない。
隔靴掻痒というか、腑にストンと納まるような気がしていないのである。

と思っていたところ、このところようやくこの疑問に応えるかのような著書が出版されている。
中でも、門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』PHP研究所(1211)は、現場で最悪事態に至るのを身を挺して食い止めた人たちの肉声を伝える感動的なノンフィクションである。
事故調査報告書に抜けているのは、止むをえないことではあるが、この現場の肉声であろう。
それは、ノンフィクションというジャンルでなければ書くことが難しいのではないかと思う。
ノンフィクションとはいえ、素材の選び方から構成・編集の仕方まで、主観の産物である。
筆者の力量が問われるところであるが、門田氏は一流シェフのような腕と言って良い。

また、日本科学技術ジャーナリスト会議『4つの「原発事故調」を比較・検証するー福島原発事故 13のなぜ?』水曜社(1212)も出版されている。
浅学にして「日本科学技術ジャーナリスト会議」なる組織を今まで知らずにいたが、「まえがき」に、4つの報告書が出揃ったところで、同会議の有志で「再検証委員会」を立ち上げ、事故調の結果を検証してみる、としている。
それぞれの事故調から独立した第三者の評価ということになろう。

最初に4つの報告書の比較表が載っている。
4

著者の代表者である柴田徹治氏は「まえがき」で、「4つの事故調で食い違っているところはどこか、足りないところはどこか」などを摘出すると書いている。
4つの調査報告書の「同じ」と「違う」を明らかにしようという試みである。

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2013年1月 8日 (火)

人麻呂終焉の地論争/やまとの謎(77)

柿本人麻呂の名前を初めてめにしたのは、小倉百人一首の中でだったと思う。

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

天智天皇、持統天皇に次いで、3番目の歌であるが、当時はその位置について考えてみることもなかった。
もちろん『万葉集』を代表する歌人であるが、選ばれたこの歌が、そんなに秀歌とも思えなかった。
「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」までが、「ながながし」に係る序詞である、というような解説を読むとよけいそういう気がした。

「あしひきの」は「山」に掛かる枕詞である。
枕詞の代表選手とも言えるが、「語義・かかり方ともに未詳」と説明されている。
⇒2009年9月30日 (水):枕詞と被枕詞(続)/「同じ」と「違う」(11)
今でも、この歌の優れている所以が分からない。

しかし、人麻呂には、私の愛唱する歌もある。
⇒2011年6月21日 (火):柿本人麻呂/私撰アンソロジー(2)
百人一首は代々の勅撰集から抜粋する方針で編まれているので、現代のわれわれの基準で云々するものでもないだろう。

大歌人の割に、その生涯については謎に包まれている。
⇒2011年11月27日 (日):柿本人麻呂の時代と日本語/やまとの謎(49)
⇒2011年12月 1日 (木):人麻呂装置説/やまとの謎(51)

死についてもさまざまに論じられてきた。
柿本人麻呂の死を主題にした歌群として、万葉集巻二に、鴨山5首といわれる223~227番の歌がある。

●柿本人麻呂が石見国で臨死(みまからむ)とする時、自ら傷(いた)みて作る歌一首:
・鴨山の 岩根し枕(ま)ける 我をかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ (巻2-223)
(意味:鴨山の岩を枕に伏して死のうとしている私を そうとは知らずに妻は今こうしている間も待ち焦がれていることであろうか)
●柿本朝臣人麻呂の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首
・今日今日と 我(あ)が待つ君は 石川の貝に交りてありと いはずやも  (巻2-224)
(意味:今日は今日はと私がお待ちしているあなたは、石川の貝に混じって、水の中だというではありませんか)
●直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ  (巻2-225)
(意味:直接会うことはできないでしょう。石川に 雲よ立ちわたれ。せめて眺めてあの方を偲びましょう)
●丹比真人(たぢひのまひと)[名は欠けたり]柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首
・荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我れここにありと 誰か告げけむ  (巻2-226)
(意味:波に打ち寄せられて来る玉を枕もとに置き わたしがここに伏せっていると、誰が告げてくれたことであろうか)
●或る本の歌に曰く
・天離(あまざか)る夷(ひな)の荒野(あれの)に君を置きて 思いつつあれば 生けるともなし (巻2-227)
(意味:大和から遠く離れた荒びた田舎に貴方が行ってしまっていると思うと、私は恋しくて、そして、貴方の身が心配で生きている気持ちがしません)

http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/index.htm

わずか5首にすぎない人麻呂終焉歌群であるが、古来さまざまな説があって、人麻呂像が確定できない要因の1つとなっている。
223の題詞からすれば、石見国(島根県)で没したと考えられる。
Wikipediaの解説では以下のように記されている。

その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。 その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は河砂の堆積により消滅し、現在は日立金属安来工場の敷地内にあるとされ、正確な位置は不明になっている。
また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっている。

「鴨山をどこに比定するか。
斎藤茂吉は執念ともいうべきリサーチと歌人の直観力を武器として、島根県邑智郡邑智町湯抱を終焉の地とした。
梅原猛は、『水底の歌―柿本人麿論 』で人麻呂水刑説を提起し、激越に斎藤茂吉を否定して、益田市を終焉の地とした。
梅原説を紹介しているサイトから引用する。

ところが、『水底の歌』の著者=梅原猛氏は、人麻呂が鴨山で詠んだ歌の前書きに、「死に臨んで自らを傷む」とあることに着目する。『万葉集』で、前書きに「自傷」という言葉が使われているのは、非業の死をとげた有間皇子の歌と、人麻呂のこの歌しかないからである。
梅原氏は、このことを根拠にして、人麻呂は死を命じられたと判断する。そして、人麻呂は高官だったと推測する。罪によって官位を剥奪されると、位が高かった者でも、その死を漢字「死」を使って記録されることになる。つまり、「死」という文字は、契沖の指摘に反して、人麻呂が六位以下だった証拠になるとは限らないからである。

http://www.geocities.jp/yasuko8787/z212.htm

古田武彦は、『人麿の運命』原書房(9403)において、斎藤、梅原両説の検証を踏まえ、定評の鋭い史料批判により浜田市以外にあり得ないとした。
三者三様それぞれ異様とも思える熱の入れ方である。
現時点では誰の説が妥当なのか判断しにくいが、時代が下がるほど批判しやすいし、説得力が増すように思われる。

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2013年1月 7日 (月)

『原子力と日本病』/原発事故の真相(52)

年末に行われた総選挙において、将来のエネルギー政策はどの程度の比重をもって争われたのだろうか?
議席を競った12党の党首の公示第一声では、7人が「脱原発」を掲げ、2人が容認姿勢ということだった。
したがって、政党のスタンスとしては、「脱原発」の方が多数派である。
⇒2012年12月 5日 (水):争点としての原発政策/花づな列島復興のためのメモ(169)

しかし、選挙結果は、「原発容認」の自民党が圧勝という結果だった。
安倍首相は、安全性が確認されることを条件に、原発を新設も含めて推進する意向のようである。

だが、それでいいのか?
福島原発事故の収束を野田首相(当時)が宣言したのは、2011年12月16日のことだった。
⇒2011年12月17日 (土):フクシマは「収束」したのか?/原発事故の真相(14)

しかし、現実は未だに、「終息」はおろか「収束」すらしていないと考えるべきであろう。
⇒2011年12月18日 (日):収束と終息/「同じ」と「違う」(37)
野田首相の「収束宣言」は、原子炉の「低温停止」が達成されていることが条件だった。

それを野田首相は、「冷温停止状態」というような欺瞞的なレトリックを弄して「収束宣言」をしたのだ。
⇒2012年3月14日 (水):冷温停止「状態」とは?/原発事故の真相(20)

福島原発事故は決して収束していない。
いまなお、放射性物質は漏れ出ているのである。
住み慣れた家屋、故郷から離れて「疎開」や仮設住宅住まいを余儀なくされている人が大勢いるのである。
主要な4つの事故調査報告書が出されたが、事故の実態は未だ十分に明らかにされたとはいえないだろう。
また、あれだけの大事故でありながら、責任の所在すら明確ではない。

そういう中で、大飯原発が再稼働し、敷地内の断層が活断層であるか否かの判断がはっきりしない。
⇒2012年11月 3日 (土):大飯原発の活断層をどう考えるか/花づな列島復興のためのメモ(157)
⇒2012年10月24日 (水):活断層定義問題と大飯原発の稼働/花づな列島復興のためのメモ(154)

判断がはっきりしないのなら、はっきりするまで止めるのかと思えば、活断層と断定できるまでは運転を続けるのだという。
もはや、電力需給のバランスの問題ではなく、電力会社の経営の問題なのだ。
ここに、日本が克服しなければならない病巣がある。

福島の事故前から、「原発震災」の危険性を指摘してきた人の1人に村田光平氏がいる。
村田氏は、駐スイス大使等を歴任した外交官であるが、外務省在職中から私人として原発の危険性について訴えてきた。
⇒012年6月 9日 (土):なぜ事故調報告を待てないのか?/花づな列島復興のためのメモ(81)

村田氏の著書に、『原子力と日本病 』朝日新聞社(0206)がある。
残念ながら現在は絶版になっており、古書店で手に入れるしかないが、Amazonでは5,000円くらいする。
定価は1,260円であるから、約4倍である。需給を反映したものだろう。
朝日新聞社は、「脱原発」の社論を掲げるなら、こういう著書を増刷すべきではないか。

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2013年1月 6日 (日)

八ツ場ダムの治水効果/花づな列島復興のためのメモ(181)

デフレ経済からの脱出を優先課題とする安倍政権の政策の柱の1つが公共事業である。
迷走を続ける八ツ場ダムはどうなるのであろうか?
⇒2012年10月20日 (土):象徴としての八ッ場ダム/花づな列島復興のためのメモ(153)

個人的には、今までのいきさつに問題があるにせよ、現実に工事が進んでしまっている状況からすれば、建設を速やかに進めるのが妥当ではないかと考える。
安倍政権の大田国土交通相も、12月27日未明の就任会見で、「民主党政権が継続と決定したことを尊重する。早期完成へ取り組みを進めていく」と述べ、建設を推進する考えを示した。
また、地元選出の小渕財務副大臣も、首都圏での利水だけでなく、防災・減災の視点からも「八ッ場ダムは1日も早く完成させなければならない」と年頭あいさつで語った。

しかし、計画決定のプロセスは完全に透明化して、今後の公共事業の進め方を考える材料とすべきであろう。
というのは、利根川の治水基準点・八斗島を通った最大流量を決める検証で、より大きく推計された値が採用されていた疑いがあることが報じられているからである。

130106 資料は「利根川改修計画資料」。流域に深刻な被害をもたらしたカスリーン台風を受け、新たな治水対策をつくる会議「建設省治水調査会利根川委員会」などの議事録(四七年十一月~四九年二月)が含まれている。岡本芳美(よしはる)・元新潟大教授(河川工学)が七三年、同省OBの技師から寄託された。
 八斗島は、神流(かんな)川が注ぎ込む烏(からす)川が利根川に合流した下流の地点。洪水時に八斗島で観測できなかったため、最大流量は三つの川の最寄りの観測三地点での実測値が、九月十五日午後八時に八斗島に到達すると仮定して単純合計した。
 資料によると、利根川委員会の小委員会は第四回まで建設省や委員が示した「一万五千立方メートル」で議論が進んでいたものの、第六回で突然、同省土木研究所が「一万七千立方メートル」を提示した。八斗島から利根川で五・七キロ上流の上福島の実測値について河道の深さを多めに見積もるなどしていたためだった。
 しかし第七回では、複数の委員から「八斗島の合流点までに(河道でため込まれた流量は)千立方メートルは減るはずだ」など疑問が出て、一万六千立方メートルとの両案併記でまとまった。
 ところが最大流量を決める四九年二月の利根川委員会では一万七千立方メートルのみが報告され、正式に決定。治水対策として上流部で造るダム群で三千立方メートルをカットし、残る一万四千立方メートルは下流の河道で流す方針となった。
 岡本氏は「私の計算では一万五千よりもっと少ない。国は当時ダム建設を推進していた。ダムを造るため治水名目をつくりだし、恣意(しい)的に最大流量を増やしたのではないか」と話している。
 国交省は現在、一万七千立方メートルを基に同台風並みの雨が降った場合、最大流量は二万一千百立方メートルと想定し、八ッ場ダム計画を進めている。この差は同台風時に上流域で氾濫した分と説明しているが、専門家から「氾濫分はねつ造の疑いがあり、過大な数値だ」との批判が出ていた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013010602000084.html

利根川ダム統合管理事務所のサイトには、以下のような説明がある。

昭和22年関東地方に大きな災害をもたらしたカスリーン台風と同じ降雨があった場合、洪水(想定される洪水)が発生した場合、利根川・八斗島地点(河口より185km地点)では22,000m3/sが流れると予想されます。これは、おおよそ200年に1回の確率で起こる洪水に相当します。
利根川流域の洪水被害を防止するため、八斗島地点で最大16,500m3/sを流すことができる河道を整備し、八斗島地点より上流の利根川上流ダム群で5,500m3/sの洪水調節をする計画となっています。

Photo
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonedamu/tonedamu00065.html

群馬県のサイトでは、上流ダム群の洪水調節効果を以下のように説明している。

利根川上流域の約1/4を占める吾妻流域には大規模な洪水調節施設がありません。
 その吾妻流域に建設が進められている八ッ場ダムは、洪水調節容量が利根川上流のダムの中で最大となっており、治水効果が大きいダムです。
 このことから、利根川沿いの市町村からも治水対策上、八ッ場ダムの早期完成を強く要請されています。

Photo_2
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http://www.pref.gunma.jp/06/h5210004.html

八ツ場ダムは洪水調節効果のきわめて大きなダムである。
であればこそ、姑息な方法で必要性を強調したことが逆効果になっているのではなかろうか?
それよりも、いくら計画値を大きくしても、常に計画以上の自然の猛威が起こり得ると考えて、減災の方策を探るべきであろう。

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2013年1月 5日 (土)

2つの高千穂/やまとの謎(76)

元旦に覗いた三嶋大社はさすがにすごい人混みで、身障者は身の危険を感じるほどであった。
三が日を過ぎて、まだ常よりも人は多かったが、さすがに昨日はスムーズに参拝できた。
元来無神論者であるが、今までの人生で神頼みをしたことも再々あったこので、まあ債務を返済するような気分でもある。
しかし、晴れ着姿というものもめっきり少なくなったという気がする。

初詣に行ったついでに立ち寄ったコンビニで、山本明『いちばんやさしい古事記の本―地図と写真から読み解く! 』西東社(1301)を買った。
その中に、「天孫降臨の地」として以下のような説明があった。

記紀神話のなかで重要な意味をもつのが天上界から皇室の祖、邇邇芸命が地上に降り立つ「天孫降臨」だ。邇邇芸は天上界の最高神の孫。ゆえに天孫という。古事記は降臨の地を「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」と記す。その候補地はいくつかあるが、有力とされているのが、宮崎県にあるふたつの高千穂だ。

Photo

2つの高千穂の間には100kmほどの距離がある。
そして、その中間に西都原古墳群がある。
西都は中田力氏が、『魏志倭人伝』の記述から、邪馬台国に比定した場所だ。
⇒2012年11月20日 (火):「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ

高千穂町には、高千穂神社、天岩戸神社の他に、櫛触(クシフル)神社がある。

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くしふる神社の鎮座するくしふるの峰は肇国の昔天孫瓊々杵尊が三種の神器を奉戴してこの国を治める為に天降られた聖地として古史に記されています
http://www.kumaya.jp/atikoti100.html

一方、高千穂峰には逆鉾の他、近くに韓国岳があって、『古事記』の「ここは韓国に向かい、笠沙の御崎にもまっすぐに通じ、朝日がまっすぐ射す国、夕日が輝く国である。とてもよい地だ」という記述に相応している。
Photo_4
⇒2012年5月 8日 (火):火山活動との共生/花づな列島復興のためのメモ(62)

笠沙の御崎は、現在の野間岬といわれる。
2つの高千穂は、ともに天に近い山間部にある。
上掲署の解説では、高千穂は高く積まれた稲穂の意味で固有名詞ではなく、場所を特定する意味はないとするのが近年の主流だ、ろある。
いずれにせよ、日向(宮崎県)が、大和以前において重要な地であったということだろう。

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2013年1月 4日 (金)

天孫降臨と高千穂論争/やまとの謎(75)

初代天皇である神武天皇が即位した年を元年とする暦の数え方があった。
私が生まれる前のことではあるが、昭和15(1940)年が2600年目になるということで(いわゆる皇紀2600年)、盛大な祝賀式典が行われたということである。
この年に生まれた私の従姉に紀子という名前の人がいるが、明らかに皇紀を意識した命名である。
西暦2013年の今年は、紀元2673年ということになる。

神武即位は、『記紀』神話をベースに推測されたものである。
『古事記』が1300年ということであったから、神武の即位年から現在までの半分くらいの頃の計算になる。
しかし、現在では、皇紀という数え方はほとんど絶滅したといえよう。

神武は天孫降臨のニニギノミコトの3代後の子孫である。
Photo_2
霧島神宮のサイト

それでは、天孫降臨の地はどこか?
1つの候補地が、高千穂峰である。
⇒2012年4月19日 (木):入院しました/闘病記・中間報告(42)

ところが、同じ宮崎県にもう1つ高千穂町があって、こちらも天孫降臨の地を主張している。
白洲信哉『白洲正子の宿題』世界文化社(0710)では、こちらの高千穂について書いている。
⇒2012年7月 9日 (月):天孫降臨の高千穂峰/やまとの謎(66)

高千穂町には高千穂神社がある。
Photo
http://takachiho-kanko.info/sightseeing/detail.php?log=1336615324&cate=all&nav=1

また、天岩戸神社もある。
Photo_2
http://takachiho-kanko.info/sightseeing/detail.php?log=1338295932&cate=all&nav=1

双方ともに、それらしい雰囲気を持つ。
この両地の論争については、以下のような状況である。

高千穂については西臼杵郡の「高千穂町説」と霧島連山の「高千穂峰説」の二つがあり、人々は答えの出ない論争を繰り広げてきた。
各地の文化・風土について古事記編さん後に書かれた地誌・風土記でも2説が並び立つ。
高千穂論争は奈良時代には既に始まっていた。
論争が最も熱を帯びたのは1940(昭和15)年前後。
同年は神武天皇即位から数えて2600年の節目とされ、記念事業が数多く催された。
宮崎、鹿児島両県はそれぞれ、皇族ゆかりの地として全国にPRしようと知恵を絞り、熱い火花を散らした。
「みやざき仰天話 松本こーせいの宮崎歴史発見」(鉱脈社)によると本県は38年、ニニギノミコトや神武天皇が住んだとされる「高千穂宮址」が県内にないか国に調査を依頼。
鹿児島も追随したが、本県側が「高千穂宮址にあたる場所はないとしていたのに、割り込んできた」と猛反発した。
隣県同士の関係悪化を懸念した国はあえて結論を出さなかった。
戦後は国家神道の解体もあり、双方の主張もトーンダウン。
論争はすっかり過去のものになった。

http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1348337138/

しかし、2つの候補地があるのも考えてみれば不思議な感じがするが、史実をめぐる論争というわけではないので、余り真剣に争うほどのことでもないということだろう。

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2013年1月 3日 (木)

一宮とはどういうものか?/やまとの謎(74)

近くにある三嶋大社は、正月三が日は初詣客で賑わう。
参拝の客は周辺の道路にはみ出し、クルマで来る人も多いので、市内は至るところ渋滞である。
Img_20742

境内も人で溢れていて、身障者は参拝もままならない。
Img_20702_2

三嶋大社は、伊豆国の一宮であった。
おそらく全国の一宮で同じような光景が繰り広げられていることだろう。

静岡県は、旧伊豆、駿河、遠江の三国からなるが、三嶋大社には伊豆だけではなく、駿河の東端部(いわゆる駿東地方沼津市、裾野市、御殿場市等)からも参拝客が集まる。

一宮とは何か?
Wikipediaによれば、次のようである。

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮一之宮などとも書く。

通説によると一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われている。
現在ではすべての神社は平等と言うことになってはいるが、かつて一宮とされたことのある神社のほとんどが、その地域の第一の神社という誇りをもっているようだ。
一宮の成り立ちについては、「一個人2013年2月号-特集日本神社の謎」の『日本の歴史を動かした「一の宮」の秘史』に、以下のような変遷図が載っている。
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2013年1月 2日 (水)

貞観地震の津波は「末の松山」を越えたのか?

最近は、兄姉たちと正月に集まっても、小倉百人一首で遊ぶこともなくなった。
孫の世代が主役となっているが、子供の頃はよくカルタ取りに興じたものだ。
「ムスメフサホセ」の一字決まりの歌などは奪い合いになるのが常だったが、その他にも共通の得意札があって、たとえば次の1枚もそうだった記憶がある。

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは

42番の清原元輔(三十六歌仙の1人)の歌である。
もちろん、小中学生の段階では、歌意などは無関係であった。
「かたみに袖をしぼりつつ」ということから、漠然と誰かが死んだときの歌かなあ、松山が出てくるから四国の方のことだろうか、などと考えていたのではないか。

調べてみると、意味はたとえば次のようである。

固く約束をしたよね、互いに涙で濡れた袖をしぼりながら。あの末の松山を決して波が越えることがないのと同じに、私たちの仲も絶対に変わるまいと。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/ogurapeji.htm

「末の松山」は、宮城県多賀城市付近にある地名だという。
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東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で、大きな被害を受けたところだ。

最近購入した『百人一首のなぞ』学燈社(0812)所収の河野幸夫『歌枕「末の松山」と海底考古学』に、意外なことが書いてあった。
これは津波の歌であるというのである。
今回の地震でも大きな被害を受けた地域である。
しかも、貞観地震の際のものらしい。
日本災害史に疎い一般人に、貞観地震の名前を知らしめたのは、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)であった。
子供の頃から慣れ親しんでいた歌が、その歴史的な地震の歌とは!

「末の松山」というのは、歌枕の1つである。
歌枕は、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。(Wikipedia

「末の松山」を詠んだ歌は、以下のように数多い。
http://www.bashouan.com/piTagaUtamakura.htm

「後撰和歌集」   土左
わが袖はなにたつすゑの松山かそらより浪のこえぬ日はなし

「拾遺和歌集」  人麿 
浦ちかくふりくる雪はしら浪の末の松山こすかとぞ見る
(古今和歌集に載る藤原興風の歌が、拾遺和歌集では柿本人麻作として採録されている)

「金葉和歌集」  大蔵卿匡房 
いかにせんすゑの松山なみこさばみねのはつゆききえもこそすれ

「千載和歌集」  藤原親盛 
あきかぜは浪とともにやこえぬらんまだきすずしきすゑの松山

「新古今和歌集」  藤原家隆朝臣 
霞たつすゑの松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空
「能因集」
  すゑのまつ山にて
白浪のこすかとのみそきこえける末の松山まつ風の声

「後鳥羽院御集」
  冬
見わたせば浪こす山のすゑの松木すゑにやとる冬の夜の月

「末の松山」は「波」とセットで使われており、「愛の契り」に触れた歌に多く詠まれている。
清原元輔の歌は、次のように解説されている。

元輔が友人に代わり「心かはりてはべりけるをむなに人にかはりて」の詞書を添えて心変わりした女性に詠み贈ったものであり、「末の松山」は海岸からかなり離れたところにあるので、ここまで波が越えて来ることはまずあり得ない。この「あり得ない」ことを「末の松山に波が越えるようなもの」として比喩し、「波が越える」となれば「あり得ない」ことが起きる、すなわち愛が破局することを意味した。
http://www.bashouan.com/piTagaUtamakura.htm

河野幸夫氏の上掲論文によれば、「末の松山」近くの多賀城市沖合に海底遺跡がある。
この遺跡を調査すると、「末の松山」を波が越すと詠んだ平安初期の歌は、貞観地震の時の情景を<記憶>したものだという。
まさに松村正直氏の著書のタイトルのように、『短歌は記憶する (塔21世紀叢書)』六花書林 (1011) であるが、ネットで調べてみると、今回の地震では「末の松山」は奇跡的に無傷だったようだ。

 末の松山のあるところは周辺が赤に染まっているのに、奇跡的に津波から免れている。国土地理院の地形図を見ると、沖の石など周辺が標高2mばかりであるのに比べ末の松山付近は数m程度小高くなっている。”末の松山を波が越すということがありえないように、二人の間の恋は永遠で心変わりしない”という清原元輔の歌の根拠は今回の震災でもくつがえらなかった
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http://blog.goo.ne.jp/yoshinogawa3/e/bd4424225d33eb380884d2af14ca4c30

「末の松山」を、貞観津波は越えたか否か?

末の松山を詠んだ歌が初出する古今和歌集(905年奏上)は貞観津波からどれほども経っていないので、貞観津波が末の松山を越えなかったという伝承が都に伝わり多くの歌が生まれたというのが妥当な解釈だと思う。しかし、逆に津波が越えた伝承から歌が生まれたと解釈する人もいるらしい。
同上

文学史的な議論は別に、「想定外」として、津波の教訓を生かせなかったのが残念だと思う。

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2013年1月 1日 (火)

今年の抱負-力を抜くことマスターしよう

明けましておめでとうございます。
今年も爽やかな初日に映える神々しい富士山を拝むことで1年がスタートしました。
世界文化遺産への登録が実現することを、静岡県民いや日本国民の1人として、願っています。
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静岡県の川勝平太知事は、静岡県は「食の都」「茶の都」「花の都」であるとし、新東名の開通によって、東海道新時代が始まったと言っています。
京都が東洋文明、東京が西洋文明の影響下にあるのに対し、静岡には日本列島のアイデンティティがある。その象徴が富士山である、というようなことを語っています。
全国に多数の富士山があると同時に、富士山はオンリーワンでもあるということではないでしょうか。

新しき年の初めにあたり、さて今年の目標は何だろうか、と考えました。
リハビリ中の身でもあり、今さら何かを新しく達成しようという齢でもないし、と思いましたが、次のようなことを考えてみました。

たとえばOTの一環として、字を書く練習をしています。
字を書く動作と言うのは、腕から指先にいたるさまざまな筋の複合した動作です。
筆記事態に握力や指先の力は、さほ必要がないのですが、指や手首の制御が重要になります。

回復期の病院で、左手で字を書く練習に精を出した結果(だと思いますが)、箸の使い方も上手になりました。
もちろん、右手のようなわけにはいきませんが、日常生活の大部分を左手だけでこなしています。
振り返ってみれば、当初左手では単純な銭を引くこともできず、箸を使うこともできませんでした。
字を書く練習の効果は大きい、というのが実感です。
⇒2010年5月 9日 (日):闘病記・中間報告(5)回復期リハビリについて

しかし、左手の場合、何とか読めるような字が書けるまでになりましたが、右手はマヒしたままで鉛筆を握ることさえままなりません。
字を書こうとすると、上腕部にまで力が入ってしまい、とても疲れます。
不自然な力が入っているのが主因だと思います。

マヒした指の運動の回復は本当になかなか改善されません。
同じように通院している人からも、よく嘆き節を聞きます。
私は、退院して初めての正月に、「年内にジャンケンができるように」という目標を立てました。
⇒2011年1月 4日 (火):ジャンケンができるように-今年の目標/闘病記・中間報告(19)  

ところが、満2年経った現在、依然としてジャンケンができません。
これでは、孫と遊ぶのもままなりません。
私は、元来幼児が大好きで、甥や姪が子供の頃はよく一緒に遊んだものです。
その姪の子供についても同様です。
ところが、自分の孫が遊びたい盛りに、半身マヒになってしまったわけです。

まあ、自業自得ではありますが、孫におじいちゃんの思い出を残せないのでは、それこそ心残りです。
何とか、一緒に遊べるくらいの運動能力を回復したいと思っています。

よく、自然体とか肩の力を抜いて、といいます。
リハビリの極意は、この自然に力の抜けた状態になれるかどうかだと、見当をつけています。
ということで、力を抜くことをマスターする年にしたいと考えています。

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