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2012年12月 7日 (金)

魏使の行程のアポリアとしての「水行十日陸行一月」/邪馬台国所在地論

いわゆる『魏志倭人伝』(『魏志』巻三十・東夷伝・倭人条)の記載は、魚豢の『魏略』をベースにしたものだという。
『魏略』が成立したのは、魏の終わり~晋の初め頃といわれ、3世紀である。
日本列島にようやく小さな地方単位のまとまり(『魏志倭人伝』に記載された国)ができた頃である。
『魏志倭人伝』には、政治的な思惑などから、方位や距離に関して作為的な改変が行われているのではないか、という説もあるが、その必要性はないだろうし、あったとしても確かめようがない。

中田力氏が『日本古代史を科学する 』PHP新書(1202)において示された解釈の特色の1つは、末蘆国から伊都国への道程を、原文通りに東南方向に考えていることである。

東南陸行五百里にして、伊都国に到る。

伊都国の位置は重要である。
多数説では、伊都国を前原付近(糸島市もしくは怡土と呼ばれた福岡市西区付近)に比定する。
しかしこれでは伊都国は末蘆国の「東南」というよりも「北東」になる。
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原文尊重という立場に立てば、中田説のように東南方向に考える立場に軍配を上げざるを得ない。

『魏志倭人伝』の行程の記載は不弥国までと以降とで変化がある。
里数で表現されていたものが日数になる。
つまりアバウトになっているわけである。

この理由は何か?
『隋書倭国伝』に、「夷人里数を知らず、ただ計るに日を以てす」とあることから、日数表現で距離を記載するのは夷人と考えて良い。
その理由を中田氏は、上級官吏が倭国の粗末な船に乗るのを躊躇したからだろうとするが、そんなところかと思う。

そこで行程である。
次の一節は、茫漠たる記述の故に、古来さまざまな解釈が行われてきた。

南、投馬国に至る、水行二十日
南、邪馬台国に至る、水行十日陸行一月

素直な読み方は、直前の不弥国から連続して読む方法であろう。
すなわち、不弥国から投馬国へは南に水行二十日、投馬国から邪馬台国へは南に水行十日陸行一月かかる。
かつてはこう読む読み方が中心であった。

しかし、そうすると不弥国から邪馬台国へは合計水行三十日陸行一月ということになる。
不弥国をどこに比定するかは別として、いずれにしても九州のどこかであれば、九州の範囲を越えてしまうのではないか?
ごく素直に読めば以下のようである。

不弥国~投馬国   水行二十日
投馬国~邪馬台国  水行十日陸行一月

この茫漠たる情報から、中田氏は、かなりの説得力を以て、「邪馬台国=西都」としているわけである。
⇒2012年11月20日 (火):「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ
中田氏の推論の傍証となるような記事が、雑誌「ジパング倶楽部12年12月号」(交通新聞社)に載っている。
『矢岳越え-鉄道遺産の宝庫、肥薩線のハイライト』である。

熊本県の八代駅と鹿児島県の隼人駅を結ぶ肥薩線は、車窓風景の美しい路線として知られる。八代駅~人吉駅間は球磨川の流れに沿って線路が延び、「川線」の愛称が付けられている。一方、人吉駅~吉松駅間の愛称は「山線」で、九州屈指の山岳路線となっている。

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「ジパング倶楽部12年12月」

「川線」の部分は、邪馬台国時代も街道筋であった、というのが中田氏の推論で、人吉盆地は南九州山岳地帯の中継点だったとする。
「山線」は、急勾配が連続する難路で、大畑駅にスイッチバックとループ線の両方が作られた。
山深さを示している。

私が高校時代に通学に利用していた御殿場線は、箱根を貫通する丹那トンネルが掘削される前までは、東海道本線だった。
しかし、私が通学に利用している頃には、すでに「山線」と呼ばれていた。
岩波駅や富士岡駅にはスイッチバックが設けられていたのを懐かしく思い出す。

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