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2012年12月 2日 (日)

天智天皇の近江大津遷都の意図/やまとの謎(69)

『日本書紀』によれば、中大兄皇子(天智天皇)は、667(天智6)年3月19日に、近江の大津宮に都を遷した。
そして翌年、ここで即位した。
皇太子在位20数年であった。
⇒2008年3月13日 (木):天智天皇…④その時代(ⅲ)

近江遷都に関しては、柿本人麻呂や額田王の万葉集の中でも有名な秀歌によってわれわれにもなじみ深い。
⇒2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感
人麻呂の近江の海の歌も人口に広く膾炙している。
⇒2011年6月21日 (火):柿本人麻呂/私撰アンソロジー(2)

天智天皇は即位4年後の671年に、46歳で崩御した。
そして翌年には、壬申の乱が起きて、近江朝は崩壊し、大津宮も灰燼に帰してしまう。
わずか5年の儚い寿命であった。

そして大津宮はたちまちのうちに荒廃してしまうのは柿本人麻呂の歌のとおりである。
⇒2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感

天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも

柿本人麻呂は謎の多い歌人だが、持統天皇の頃に活躍した。
すなわち、持統朝というさほど時を経ていない時点で、草に埋もれるような状態だったということだろう。
そのため、大津宮の正確な場所について、長らく論争があった。

 大津に都があったのはわずか5年間でした。そのため,大津京の場所を特定することが難しかったのですが,昭和49年と53年の調査によって,錦織二丁目地域内に古代の建物の柱跡が見つかり,その配列や規模からここが大津宮の中心部分とされました。昭和54年には柱跡が発見された場所を「近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこうりいせき)」(この読みは遺跡案内板-滋賀県教育委員会設置による)として国の史跡に指定されています。今後の発掘による成果を待たねば大津京の全容を見ることはできないでしょうが,現在この地には住宅や商店が密集しており発掘調査は容易ではありません。
http://www.asuka-tobira.com/ootsukyo/ootsukyo1.htm

大津宮の場所は特定できたとしても、なぜその地が選ばれたかについては謎が残る。

一般的には、予想される唐・新羅連合軍の侵攻に対処するためであると考えられている。
しかし、遷都が行われた667年は、白村江で唐・新羅連合軍に歴史的大敗をした663年から4年後であり、この間、665年には、唐の劉徳高たちとの間で和議が成立している。
唐・新羅から侵攻される恐れはなくなったのではないか?

長谷川修という作家がいた。
京都大学工学部燃料化学科を卒業して、以下のように、何回も芥川賞の候補になったユニークな作風の人だった。

 長谷川修は、かつて大江健三郎が登場した『東大新聞』に作品を投稿。第8回五月祭賞の佳作に入選。佳作が不本意だったか、同じ作品を『新潮』の同人雑誌賞に応募する。こうして「キリストの足」は、昭和38年『新潮』12月号に掲載され、注目を浴びた。昭和40年代、「真赤な兎」「孤島の生活」など四作品が、毎年のように「芥川賞候補」にノミネートされ、話題作を発表。その手法の斬新さ、不条理性、思いがけない着想の離れ業は、ユニークな長谷川文学を印象づけた。53歳の生涯は、円熟期の惜しまれる急死だった。(武部忠夫)
山口の文学者たち・長谷川修

長谷川氏の芥川賞の候補作は次のとおりである。
第52回 「真赤な兎」
第54回 「孤島の生活」
第55回 「哲学者の商法」
第66回 「まぼろしの風景画」
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/kogun/kogun52HO.htm

長谷川氏は、古代史に造詣の深い作家でもあった。
近江志賀京―古代史推理』六興出版(7808)に、次のような記述がある。

「大化の改新」以来、中大兄皇子(天智天皇)は唐の国制に倣って、わが国のすべてを中央集権の体制に切り換え、近江志賀の地に国都を築いて、この志賀京を全国の中心とする新国家体制の一大構想を計画していた。そして志賀京はこの構想の中核をなすもので、そのため実に用意周到な準備を整えた上で、近江遷都を行ったものと思えるのである。したがって近江遷都は一時の思いつきや気まぐれで行われたものではなく、あくまで志賀京をわが国の中心地として、さまざまの検討を重ねたあげく、この地を選んでいるのだ。

長谷川氏の推理がどこまで妥当なものであったのかは分からない。
しかし、長年の皇太子期間が近江遷都の準備期間であったとしているのは興味深い。
日本という国土を眺めた場合、飛鳥の地よりも近江の方が中心として相応しいと言えるのではないか。

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